おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その1。(旧中山道をゆく。第8日目。)

2016-03-07 18:28:36 | 旧中山道

 2月24日(水)。晴。が、気温は低く、風はすこぶる強く。体感的にはかなり寒い。そんな中での、旧中山道歩き。
 「上野」~「高崎」~「群馬八幡」まで、在来線を乗り継ぎ、着いたのが8時50分少し前。
 前回の最終地まで戻って、「横川」駅を目指します。

 今回は、「14 板鼻」→「15 安中」→「16 松井田」~「17 坂本」宿の手前まで。上州7宿のうち「新町」・「倉賀野」・「高崎」を終え、残りの4宿ということに。



 「群馬八幡」駅から「国道18号」少林山入口交差点まで戻るには、けっこうかかります。しばらく進むと、「安中市」の表示。(09:07)右手には駅名の由来となった八幡宮の大鳥居。

 「板鼻東」信号の先に大きな「橋供養塔」。
 
    

寒念仏橋供養塔  安中市指定史跡
 板鼻宿の念仏講中が寒念仏で得た報謝金を蓄積し、享保17年(1732)に石橋を改修し、旅人の利便に供した。その後年月を重ねて破損したので、享和2年(1802)板鼻宿の木嶋七郎左右衞門が亡父の遺志を継ぎ、堅固な石橋に改修し、その近くに供養記念塔を建て、後世に残したものである。地元ではこの石橋を「かねつ橋」と呼んでいる。
 この塔が建てられた直後に中山道を旅した太田南畝、別名蜀山人がその著『壬戌紀行』の中中で「板鼻川の橋を渡れば板鼻の駅むげに近し。駅舎をいで、麦畑の中を行けば石橋あり。新建石橋、木嶋七郎左右衞門供養塔といへる石たてり。げに累々たる石佛をつくらんよりは、橋たてし、功徳はまさりりぬべし」とほめている。なお、この供養塔は国道18号の拡幅工事のため板鼻堰用水路沿いあったのをわずかに現在地に移動したものである。

 安中市教育委員会

足元の台座には矢羽根とかが刻まれている。 

(09:21)その先、「群馬日産」の所を右に折れ、またすぐ左の道に入っていきます。
    

双体道祖神」。

    
 双体道祖神は、寛政4年(1792)のもので、祝言形(夫婦和合)です。台座には、「当駅より京へ107里3丁、江戸へ21里半丁、日光へ37里、善光寺へ37里、榛名山へ5里、妙義山へ4里半、加州金沢へ92里半」と旅程が刻まれています。

沿道には梅などが咲きほこっている。

(09:29)庚申塔など。

JR線を越えます。「第9中仙道踏切」。

宿内には古い街並みが残っています。 

「中山道板鼻宿 板鼻館 名物タルタルカツ丼」?
 懐かしい手押しポンプの消火道具が置かれています。


 養蚕農家だったと思われるおうち。蚕のための室温調整用の小屋根が乗っている。

板鼻宿(いたはなしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて14番目の宿場。日本橋より28里24町40間(112.7km)、京より107里7町20間。
 人口1,422人、総軒数312軒、本陣1、脇本陣1、旅籠54(天保14年(1843年))町並みの長さ10町30間。
 碓氷川の川止めが多く、中山道上州七宿の中では最大級の宿場であり、かつ旅籠の数50軒を数えるのは板鼻宿より京方面では塩尻宿以外にない。
 本陣跡が板鼻公民館近くにある。この本陣の書院に孝明天皇の皇妹和宮親子内親王が、文久元年(1861年)11月10日宿泊し、初潮が確認され、その遺物を祀ったとされる塔がある。

 (以上、「Wikipedia」より)

渓齊英泉画。

 「板鼻堰用水路」が描かれています。 

(09:40)「板鼻公民館」のところに「板鼻宿本陣跡」碑。

    

「板鼻宿」の案内絵図。

 公民館の裏手には、「皇女和宮資料館」。

    

旧板鼻宿本陣書院(皇女和宮宿泊所)
 この建物は、板鼻宿本陣(木嶋家)に付属した書院であった。書院建設年代は寛永説(1624―1644)と寛政説(1789―1801)がある。
 公武合体運動により皇女和宮内親王(1846―1877)、孝明天皇の妹)が第14代将軍徳川家重(1846―1866)に降嫁するため中山道を京都から江戸への下向途次、文久元年(1861)11月10日に一夜をこの書院で過ごされた。
 時代は下って、板鼻宿本陣敷地が板鼻公民館用地となり、書院はここに曳き移転され、外装等に補強の手を加えたが、昔日の面影が偲ばれるよう施行はひかえめとした。

 安中市教育委員会

この建物の裏手には「板鼻堰用水路」が流れています。 

板鼻堰用水路
 板鼻堰用水は鷹巣山麓の堰口から碓氷、九十九領川の水を採り入れ、安中市板鼻、高崎市八幡町、剣崎町、藤塚町、上豊岡町、中富岡町、下豊岡町を経て、烏川に落水する延長15キロメートル、灌漑面積150ヘクタールの用水路である。
 この用水路は今から凡そ400年前の慶長年間中期~後期(1604~1614)に開鑿されたものと推定される。 

 平成17年10月 板鼻堰土地改良区

「中山道 板鼻宿 海音寺潮五郎書」。

「公民館」の隣にあるお花屋さん。
                           この土蔵造の防火建物は、和宮宿泊当時から存在したとされます。

    
                              八坂神社の双体道祖神
 この双体道祖神は祝言形(夫婦和合)です。子宝祈願・安産祈願の碑で、男は杯、女は徳利を持ち、仲睦まじく肩を寄せ合っています。

行く手を望む。落ち着いた街並みが続きます。

(09:54)先ほどの「板鼻堰用水路」。水量が豊か。
     

 この辺りで「板鼻宿」に別れを告げ、「碓氷川」に架かる「鷹之巣橋」に向かいます。
(10:00)その手前、右に「鷹巣神社」左に「依田六郎城址」と記された石柱や「聖徳太子」などの碑がまとまった一画があります。



 この「依田六郎」は、板鼻城(山城)の城主で、信州佐久出自の戦国武将の依田一族だったようです。鷹巣神社の背後にその山城跡がある、とも。国道によって分断された参道の一部のようです。

 そこで、関西から来たというご夫妻にお会いしました。

 今日は、朝「安中」を出て、「倉賀野」まで行って、そこでまた宿泊する、とか。すでに東海道を終えたそうです。奥さんの話だと、私は東海道より中山道の方がよかった、旦那は東海道の方がいいっていうんです、と。「碓氷峠」は軽井沢から来た方が楽ですよ、「和田峠」は思ったほどきつくなかった、と。
 お元気なご夫妻でした。お互いの今後の健闘を祈って別れました。けっこうこうやって歩いている方が多いのですね。
 今回、一日歩いていて、話したのはこの方と道路工事の誘導員と地元の方の、つごう、3人のみでした。
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