さて、「横川」から「坂本宿」を抜けて、「碓氷峠」、そして「軽井沢宿」へ、と。
その前に横川駅から信越線の廃線跡「アプトの道」を歩いてみようと出かけました。「熊ノ平」まで行き、帰りは途中で「坂本宿」に立ち寄って、再び「横川駅」に戻る、という計画。
3月23日(水)。薄日が差す、そんな一日でした。
この年になってひどい「花粉症」になって大変なようだ、と知人の噂を耳にし、さぞかし辛いでしょうね、と同情しながら、まさにその花粉が飛び始める、まっただ中での歩きでした。
はじめにお断りしますが、前日の22日に携帯電話を変えて(といっても相変わらずのガラケイですが)写真撮影の要領も慣れないままの撮影。色が飛んでしまって、何だかセピア色の世界。色鮮やかな現地の色彩・表情とはずいぶん違っています。かえって、廃線跡の雰囲気が伝わった、昔懐かしい古い写真という感じになっていいなあと思ってもいますが。
歩く前に学習を!
アプトの道
JR東日本・信越本線の横川駅を基点として、旧上り本線跡を整備、丸山変電所、峠の湯を経て、旧熊ノ平信号場(駅)までの遊歩道。
1963年(昭和38年)に廃止された旧国鉄信越線の横川駅 - 軽井沢駅間の旧線跡のうち、1996年(平成8年)より横川駅 - 碓氷第三橋梁(通称・めがね橋)間の全長4.7kmの廃線跡に遊歩道としての整備工事が行われ、2001年(平成13年)に完成した。その後、第三橋梁から熊ノ平信号場までが整備され、横川駅 - 旧熊ノ平信号場間の全長5.9kmが2012年(平成24年)3月末に完成した。
横川~軽井沢・鉄道の変遷
上野駅-横川駅間が1885年に、さらに軽井沢駅 - 直江津駅間が1888年に開通すると碓氷峠区間が輸送のボトルネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた。なお、1888年から1893年にかけては碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた。
ドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式(アブト式)ラックレールを用いることを提案した仙石貢と吉川三次郎のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で 66.7 ‰(= 1⁄15。約 3.8 度)という急な勾配になる。
1891年3月24日に起工したが、急勾配でアプト式のラックレールを用いるには列車の推進力を受ける道床に十分配慮する必要があり、鋼桁ではなくレンガ製のアーチを用い、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた。
延長 11.2 km の間に 18 の橋梁と 26 のトンネルが建設され、1892年12月22日に工事が完了し、翌1893年4月1日に官営鉄道中山道線(後の信越本線)として横川 - 軽井沢間が開通した。碓氷峠を越えることから「碓氷線」、また「横軽(よこかる)線」とも呼ばれる。
トンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には吐血や窒息する者も現れ、1911年に横川駅付近に火力発電所が設けられて1912年には日本で最初の幹線電化が行われた。
電化により碓氷線の所要時間は 80 分から 40 分に半減して輸送力は若干増強された。
太平洋戦争後は、1963年7月15日に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が1線で開通した。同年9月30日にアプト式は廃止され、さらに1966年7月2日には、旧アプト式線の一部を改修工事する形でもう1線が開通し複線となった。これによって当区間の所要時間は旅客列車で 40 分から下り列車は 17 分、上り列車は 24 分に短縮された。
しかし電車・気動車・客車・貨物を問わず単独での運転は勾配に対応できず、補助機関車として2両を1組としたEF63形を常に連結することとなった。そのために必ず勾配の麓側にあたる横川側に2両が連結された。
碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の北陸新幹線高崎 - 長野間(この区間は2015年3月13日まで長野新幹線として営業)の開通によってなされた。
その際、信越本線の碓氷峠区間(横川 - 軽井沢間)は、長距離旅客が新幹線に移行する反面で県境を越える即ち住環境を跨ぐローカル旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター鉄道などに転換されることなく廃止された。
代替交通機関として横川駅 - 軽井沢駅間を片道34分で結ぶジェイアールバス関東小諸支店による碓氷線1日7往復の運行に移行した。北陸新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通過する。
旧碓氷線の廃線部分 11.2 km のうち、群馬県側の約 10 km は碓氷郡松井田町(現・安中市)が買収しており、残り約 840 m についても北佐久郡軽井沢町に買取を陳情する動きがあった。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅からアプトの旧線をたどり旧熊ノ平駅までとなっている)。碓氷峠鉄道文化むらでは、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走らせている。
(以上、「Wikipedia」参照)
JR上野駅を6時40分過ぎの高崎行きの普通電車に乗って、「横川駅」に着いたのが、9時15分頃。「峠の釜めし・荻野屋」さんのところから再開。旧道らしい雰囲気の町並み。「庚申塔」や「二十三夜塔」などの石塔が並ぶ通りを行きます。
その先右手に「横川茶屋本陣」。
この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部である。棟は居宅と同一であるが、居宅分は二階があり、本陣のほうは二階を作らず天井を高くしてある。
居宅と本陣との境は三尺の畳敷の廊下で区切られ襖が奥まで通じている。本陣は型通り控の間が二間あり、その奥に八畳の上段の間がある。
裏庭は「皐月」を配した石組みの平庭で池があり風情があるが、外敵に備えるものであろうか、大きい木は植えていない。碓氷関所に一番近い茶屋本陣として興味深いものがある。
昭和五十六年三月 群馬県教育委員会 松井田町教育委員会
その先に「碓氷関所跡東門の位置」碑。
右手の少し高台のところにあるのが「碓氷関所跡」。
碓氷関所は1616年、江戸幕府によって設置されました。中山道は重要な交通路であったため、関東入国の関門として、幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視しました。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていました。
その東門が昭和35年、柱や門など当時の部材を使って復元されました。
「碓氷御関所絵図」と東門の解説板。
おじぎ石。
通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けた。
(09:31)いよいよ「アプトの道」へ進みます。入口左手には「鎮魂碑」と「招魂碑」。
「招魂碑(右)」は、「アプト式鉄道」建設工事に伴う、500名にもおよぶ犠牲者の慰霊のため当時建設されたものをここに移転。「鎮魂碑(左)」は、信越線廃止に当たり、交通機関建設に関わり殉職された方、思わぬ災害や交通事故に遭遇し尊い命を失った人達を慰霊するために建立された、とのことです。
左手には「碓氷峠鉄道文化むら」が広がっています。
旧信越本線の上り線を遊歩道にしてあります。レールが埋め込まれ、頭上には架線柱もそのままに残してあります。左手は、下り線を利用した、現役の「碓氷峠トロッコ列車」専用線。
振り返って望む。
施設の解説の他、信越線にまつわる解説が随所に。
緩やかに上っていく、まっすぐに伸びた線路跡。
かつてのコンクリート造りの崖崩れ防止壁。
「上信越自動車道」のかなり高い橋脚をくぐると、すぐ右手に煉瓦造りの「旧丸山変電所」が。
妙義山方向を振り返る。
(09:51)「旧丸山変電所」。
信越線での帰り、左手によく見たものです。当時はすでに廃墟のようで、かえって印象深い建物でした。
その前に横川駅から信越線の廃線跡「アプトの道」を歩いてみようと出かけました。「熊ノ平」まで行き、帰りは途中で「坂本宿」に立ち寄って、再び「横川駅」に戻る、という計画。
3月23日(水)。薄日が差す、そんな一日でした。
この年になってひどい「花粉症」になって大変なようだ、と知人の噂を耳にし、さぞかし辛いでしょうね、と同情しながら、まさにその花粉が飛び始める、まっただ中での歩きでした。
はじめにお断りしますが、前日の22日に携帯電話を変えて(といっても相変わらずのガラケイですが)写真撮影の要領も慣れないままの撮影。色が飛んでしまって、何だかセピア色の世界。色鮮やかな現地の色彩・表情とはずいぶん違っています。かえって、廃線跡の雰囲気が伝わった、昔懐かしい古い写真という感じになっていいなあと思ってもいますが。
歩く前に学習を!
アプトの道
JR東日本・信越本線の横川駅を基点として、旧上り本線跡を整備、丸山変電所、峠の湯を経て、旧熊ノ平信号場(駅)までの遊歩道。
1963年(昭和38年)に廃止された旧国鉄信越線の横川駅 - 軽井沢駅間の旧線跡のうち、1996年(平成8年)より横川駅 - 碓氷第三橋梁(通称・めがね橋)間の全長4.7kmの廃線跡に遊歩道としての整備工事が行われ、2001年(平成13年)に完成した。その後、第三橋梁から熊ノ平信号場までが整備され、横川駅 - 旧熊ノ平信号場間の全長5.9kmが2012年(平成24年)3月末に完成した。
横川~軽井沢・鉄道の変遷
上野駅-横川駅間が1885年に、さらに軽井沢駅 - 直江津駅間が1888年に開通すると碓氷峠区間が輸送のボトルネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた。なお、1888年から1893年にかけては碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた。
ドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式(アブト式)ラックレールを用いることを提案した仙石貢と吉川三次郎のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で 66.7 ‰(= 1⁄15。約 3.8 度)という急な勾配になる。
1891年3月24日に起工したが、急勾配でアプト式のラックレールを用いるには列車の推進力を受ける道床に十分配慮する必要があり、鋼桁ではなくレンガ製のアーチを用い、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた。
延長 11.2 km の間に 18 の橋梁と 26 のトンネルが建設され、1892年12月22日に工事が完了し、翌1893年4月1日に官営鉄道中山道線(後の信越本線)として横川 - 軽井沢間が開通した。碓氷峠を越えることから「碓氷線」、また「横軽(よこかる)線」とも呼ばれる。
トンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には吐血や窒息する者も現れ、1911年に横川駅付近に火力発電所が設けられて1912年には日本で最初の幹線電化が行われた。
電化により碓氷線の所要時間は 80 分から 40 分に半減して輸送力は若干増強された。
太平洋戦争後は、1963年7月15日に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が1線で開通した。同年9月30日にアプト式は廃止され、さらに1966年7月2日には、旧アプト式線の一部を改修工事する形でもう1線が開通し複線となった。これによって当区間の所要時間は旅客列車で 40 分から下り列車は 17 分、上り列車は 24 分に短縮された。
しかし電車・気動車・客車・貨物を問わず単独での運転は勾配に対応できず、補助機関車として2両を1組としたEF63形を常に連結することとなった。そのために必ず勾配の麓側にあたる横川側に2両が連結された。
碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の北陸新幹線高崎 - 長野間(この区間は2015年3月13日まで長野新幹線として営業)の開通によってなされた。
その際、信越本線の碓氷峠区間(横川 - 軽井沢間)は、長距離旅客が新幹線に移行する反面で県境を越える即ち住環境を跨ぐローカル旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター鉄道などに転換されることなく廃止された。
代替交通機関として横川駅 - 軽井沢駅間を片道34分で結ぶジェイアールバス関東小諸支店による碓氷線1日7往復の運行に移行した。北陸新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通過する。
旧碓氷線の廃線部分 11.2 km のうち、群馬県側の約 10 km は碓氷郡松井田町(現・安中市)が買収しており、残り約 840 m についても北佐久郡軽井沢町に買取を陳情する動きがあった。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅からアプトの旧線をたどり旧熊ノ平駅までとなっている)。碓氷峠鉄道文化むらでは、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走らせている。
(以上、「Wikipedia」参照)
JR上野駅を6時40分過ぎの高崎行きの普通電車に乗って、「横川駅」に着いたのが、9時15分頃。「峠の釜めし・荻野屋」さんのところから再開。旧道らしい雰囲気の町並み。「庚申塔」や「二十三夜塔」などの石塔が並ぶ通りを行きます。
その先右手に「横川茶屋本陣」。
この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部である。棟は居宅と同一であるが、居宅分は二階があり、本陣のほうは二階を作らず天井を高くしてある。
居宅と本陣との境は三尺の畳敷の廊下で区切られ襖が奥まで通じている。本陣は型通り控の間が二間あり、その奥に八畳の上段の間がある。
裏庭は「皐月」を配した石組みの平庭で池があり風情があるが、外敵に備えるものであろうか、大きい木は植えていない。碓氷関所に一番近い茶屋本陣として興味深いものがある。
昭和五十六年三月 群馬県教育委員会 松井田町教育委員会
その先に「碓氷関所跡東門の位置」碑。
右手の少し高台のところにあるのが「碓氷関所跡」。
碓氷関所は1616年、江戸幕府によって設置されました。中山道は重要な交通路であったため、関東入国の関門として、幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視しました。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていました。
その東門が昭和35年、柱や門など当時の部材を使って復元されました。
「碓氷御関所絵図」と東門の解説板。
おじぎ石。
通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けた。
(09:31)いよいよ「アプトの道」へ進みます。入口左手には「鎮魂碑」と「招魂碑」。
「招魂碑(右)」は、「アプト式鉄道」建設工事に伴う、500名にもおよぶ犠牲者の慰霊のため当時建設されたものをここに移転。「鎮魂碑(左)」は、信越線廃止に当たり、交通機関建設に関わり殉職された方、思わぬ災害や交通事故に遭遇し尊い命を失った人達を慰霊するために建立された、とのことです。
左手には「碓氷峠鉄道文化むら」が広がっています。
旧信越本線の上り線を遊歩道にしてあります。レールが埋め込まれ、頭上には架線柱もそのままに残してあります。左手は、下り線を利用した、現役の「碓氷峠トロッコ列車」専用線。
振り返って望む。
施設の解説の他、信越線にまつわる解説が随所に。
緩やかに上っていく、まっすぐに伸びた線路跡。
かつてのコンクリート造りの崖崩れ防止壁。
「上信越自動車道」のかなり高い橋脚をくぐると、すぐ右手に煉瓦造りの「旧丸山変電所」が。
妙義山方向を振り返る。
(09:51)「旧丸山変電所」。
信越線での帰り、左手によく見たものです。当時はすでに廃墟のようで、かえって印象深い建物でした。