東日本大震災。今日、3月11日で丸5年。あの時もたしか金曜日でした。都庁の30階で大きな揺れを感じ、隣の高層ビルが横揺れし、ただ呆然としていたことを思い出します。それから1年間は慌ただしい月日でした。
2013年2月。震災2年後、初めて知人の案内で気仙沼、南三陸町、仙台市閖上浜などを二日がかりで行って来ました。
そのときのことをblogに掲載しました。その内容を少しはしょって。
東北新幹線で「古川」まで。途中、仙台付近は雪。そこから気仙沼まで車で約2時間30分。古川駅に降り立ったとき、すぐに感じたのは肌を刺す寒さ。車の表示・外気温マイナス3℃。あの日は、みぞれから雪に変わって寒さに、押し寄せてくるどす黒い大津波による海水が加わって・・・。映像では実感出来ない寒さを感じました。
同乗の方。仕事先で出くわしたとのこと。電気も水道も止まり、足下は冷たい海水に浸かる、凍えるような寒さの中、室内の燃やせる物はすべて燃やして、皆で寒さをしのいだ、まだまだ不幸中の幸いだった、と。そう出来なかった人びとのうちで、低体温などで亡くなった方も多かった、と。
① 内陸部をしばらく東に向かい、それから北上。ふと海が見えはじめて、「海が見えますね」とつぶやくと、びっしり道の向こうは建物があってまったく海は見ることが出来なかった、と。言われてみると、すっかり視野が開けたあたりは、雑草がちらほらある空地だらけ。不明を恥じる。
気仙沼線「松岩駅」西方。
右奥の崖の中腹まで津波が押し寄せた。
左奥遠くが、気仙沼湾。
魚市場。その当時のまま、衝撃の大きさを物語る。

土台のコンクリートを残すのみ。仮設の建物がちらほらあるだけ。ここでは生活の跡がまったく残っていない。
② 海岸沿いを走る「気仙沼線」。リアス式海岸に沿って、風光明媚で、漁港や海水浴場など見所満載だった路線。
橋桁や柱が崩壊し、すでに線路は撤去されている。本吉町下宿付近。
すっかり線路のなくなった築堤。(「陸前小泉」駅付近? )
現在の鉄橋のようす。
逃げ遅れ車の中に閉じ込められたまま、亡くなった方も多かったという。
南三陸町・防災対策庁舎。
すっかり何もなくなった街並みに残されている。このあたりの地名として、「塩入」「塩見」がある。もともと津波が襲いやすい地域。そのための庁舎でもあったのだが。
多くの方々が犠牲になった。献花台が置かれ、訪れる人も多い。本吉街道沿い。
すぐ脇にあった倒れたままの電柱。雑草が生い茂り、2年という年月を感じる。大震災前、周囲にはたくさんの家々が立ち並んでいた。
③ 翌日、閖上(ゆりあげ)浜を案内してもらった。途中、あそこの信号のところには何十体もの遺体が流れ着いて折り重なっていた、田んぼの用水路の中にもあった、白服の人たちが取り囲んでいるのを見ると、また遺体が見つかったんだな、と。
まったく何もない地域が広がる。ここは住宅がたくさん建ち並んでいた場所。友人の家も失われた。車を運転しながらのつぶやきが切実だった。
はるか遠くの白雪の山並みは蔵王連山。仙台空港が遠くに見える。
一面何もない。ここの地域は土台からすっかり津波にさらわれてしまったのか。住宅地なのか田んぼなのかの区別もつかないほど。
送電線がかつてここで人びとの暮らしがあったこと、そしてこれからの再建の道の遠さを物語る。
一隅にあった卒塔婆。一周忌法要。まもなく「3回忌」を営む日がやってくる
2013年に訪問したときからすでに(早くも)3年が経過しました。ここに写っているところも家も再建がなされているか、それとも?
先日、仙台に出かけたところ、避難先の立川からようやく郷里の石巻に戻り、何とか生活の目星がついた、という話を聞きました。この方のように戻って来た方も大勢いると思いますが、故郷を離れての生活を余儀なくされている方もまだまだいることも・・・。
そのとき(2013年)、車を運転して案内してくれた方。震災で事業が思うようにいかなくなり、住まいも移り、そこで何とか頑張っていたようですが、長年の病がいっそう悪化し、今はドクターストップでままならない、とのこと。そのため、直接お会いすることが出来ませんでした。
未曾有の「福島原発事故」では、今も十何万という方が帰郷できていません。一方で、私も含め、次第に当時の実感が薄れ、都会の平穏な日常生活に埋没しつつあります。原発再稼働も着々と。
多額の税金の使い道もだんだんといい加減に(当初からそうでしたが)、福島では子ども達の甲状腺ガンが着実に増えているとか。こうした状況を見過ごすことなく、自らの生き方も含めて見つめていきたいものです。
2013年2月。震災2年後、初めて知人の案内で気仙沼、南三陸町、仙台市閖上浜などを二日がかりで行って来ました。
そのときのことをblogに掲載しました。その内容を少しはしょって。
東北新幹線で「古川」まで。途中、仙台付近は雪。そこから気仙沼まで車で約2時間30分。古川駅に降り立ったとき、すぐに感じたのは肌を刺す寒さ。車の表示・外気温マイナス3℃。あの日は、みぞれから雪に変わって寒さに、押し寄せてくるどす黒い大津波による海水が加わって・・・。映像では実感出来ない寒さを感じました。
同乗の方。仕事先で出くわしたとのこと。電気も水道も止まり、足下は冷たい海水に浸かる、凍えるような寒さの中、室内の燃やせる物はすべて燃やして、皆で寒さをしのいだ、まだまだ不幸中の幸いだった、と。そう出来なかった人びとのうちで、低体温などで亡くなった方も多かった、と。
① 内陸部をしばらく東に向かい、それから北上。ふと海が見えはじめて、「海が見えますね」とつぶやくと、びっしり道の向こうは建物があってまったく海は見ることが出来なかった、と。言われてみると、すっかり視野が開けたあたりは、雑草がちらほらある空地だらけ。不明を恥じる。






土台のコンクリートを残すのみ。仮設の建物がちらほらあるだけ。ここでは生活の跡がまったく残っていない。
② 海岸沿いを走る「気仙沼線」。リアス式海岸に沿って、風光明媚で、漁港や海水浴場など見所満載だった路線。








③ 翌日、閖上(ゆりあげ)浜を案内してもらった。途中、あそこの信号のところには何十体もの遺体が流れ着いて折り重なっていた、田んぼの用水路の中にもあった、白服の人たちが取り囲んでいるのを見ると、また遺体が見つかったんだな、と。
まったく何もない地域が広がる。ここは住宅がたくさん建ち並んでいた場所。友人の家も失われた。車を運転しながらのつぶやきが切実だった。




2013年に訪問したときからすでに(早くも)3年が経過しました。ここに写っているところも家も再建がなされているか、それとも?
先日、仙台に出かけたところ、避難先の立川からようやく郷里の石巻に戻り、何とか生活の目星がついた、という話を聞きました。この方のように戻って来た方も大勢いると思いますが、故郷を離れての生活を余儀なくされている方もまだまだいることも・・・。
そのとき(2013年)、車を運転して案内してくれた方。震災で事業が思うようにいかなくなり、住まいも移り、そこで何とか頑張っていたようですが、長年の病がいっそう悪化し、今はドクターストップでままならない、とのこと。そのため、直接お会いすることが出来ませんでした。
未曾有の「福島原発事故」では、今も十何万という方が帰郷できていません。一方で、私も含め、次第に当時の実感が薄れ、都会の平穏な日常生活に埋没しつつあります。原発再稼働も着々と。
多額の税金の使い道もだんだんといい加減に(当初からそうでしたが)、福島では子ども達の甲状腺ガンが着実に増えているとか。こうした状況を見過ごすことなく、自らの生き方も含めて見つめていきたいものです。