このところ、寒くてぐずついたお天気。いよいよ「碓氷峠」越えと思いましたが、そんなわけでなかなか行く機会がありません。
3月12日(土)。この日も冴えない天気。横川に行くつもりで目覚ましはかけたものの、天気予報ではどうも行く気がしない。かといって家でぐだぐだするのも・・・。そこで、今回も廃線探訪ということにします。
出かけたのは、中央線「鳥沢」駅から「猿橋」駅まで。
かつてはこの区間、蛇行する「桂川」の左岸(北側)に沿うように小高い山間をトンネルと鉄橋で通過していました。
1968(昭和43)年、「桂川」をもう少し南で渡り、西に伸びる複線の新ルートになり、単線だった旧線は、廃線となりました。その後、線路は撤去され、一部は宅地化されたり、堤も削られたして、藪の中にほとんど埋もれてしまって、ただ、トンネルなどはそのまま残っているところもあるようです。もちろん、立ち入り禁止ですが。
では行ってみるかと思い立ち、と言っても、家を出たのが10時をかなり回っていました。中央線で高尾まで行き、そこから甲府行きの電車に(本数が少ないのでずいぶん待ちました。その分、高尾で駅そばを食べて腹ごしらえ。)こうして「鳥沢」駅に着いたのは、12時40分過ぎ。これから、午後、約4㎞の探索の道のり。
ところで、旧道歩きには、関東圏・近距離ではアプローチにJR在来線を使っています。今回、高尾を出てから先、次々とトンネルをくぐり、間近にうっすらと雪化粧した山を望み、湖や渓谷を下に見ながら通過するのは、東海道線や高崎・信越線とはかなり違う印象です。
帰りの車内は案の定、登山者がけっこう乗っていました(すこぶる元気なジジ・ババが中心)。これもちょっと趣が違っていました。相手の方々もこちらを登山帰りと思ったでしょうが・・・。
そういえば、昔(もう40年以上も前)、「扇山」とか「百蔵(ももくら?)山」に登ったことがありました。日陰にはまだ雪が残っていた早春だった頃・・・。これらの山は中央線の北側の山。南側にある山にも行ったことが。「倉岳山」「高畑山」?にも。下車駅は「鳥沢駅」だったか、「猿橋駅」だったか。すでに記憶はもう薄れています。
なお、「鳥沢」、「猿橋」はどちらも「甲州街道」の宿場町。「東海道」「中山道」(まだ途中ですが)に続き、一応、「甲州街道」にも足を踏み入れた、ということになりますか。
無人駅の鳥沢駅を降りるととすぐに「国道20号線(この付近は、旧甲州街道でもある)」に出ます。
旧道らしい家並み(「鳥沢宿」)。
街道、右手の「セブン・イレブン」の先に「上鳥沢宿」という案内表示と「明治天皇駐蹕地」碑。
注:「駐蹕(ちゅうひつ)」=天子が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。駐輦(ちゅうれん)。
この碑の他にも宿場にまつわる史跡がありそうですが、今回はここから少し戻って、鳥沢駅を見下ろす跨線橋へ向かいました。神社をぐるっと回ると、現在の本線から旧線路(廃止された線路)が分岐していた箇所があります。そこがスタート地点(13:05)。
左奥が「鳥沢駅」。簡素な無人駅。
西側。奥から右に折れて行くのが旧線路跡。
」
左手のアパートは線路跡の上に建っているか(向きからするとそんな印象)、その右側が線路跡?
棒杭。枕木の再利用?
振り返って望む。右手が現・中央本線。空き地が線路跡?
かつての線路沿いらしい道を進むと、崖下の「国道20号線」へ出てしまう。線路はもっと上の方(住宅になっている)を通っていたようです。
「大月総合体育館入口」の交差点から「鳥沢駅」方向を望む。
左手の高台上が線路跡?
(13:15)国道をはさんで橋梁の頑丈な石造りの橋台。
目の下は、「桂川」に注ぐ支流の流れ。
この地域は、けっこう谷が入り組み、深くなっています。
しっかりした橋台。国道を鉄橋で越えていました。
南を望む。遠くに「桂川」を渡る中央本線の電車。
線路は左手奥の高台からこちらの高台へ向かっていたようです。
この先は、私有地のようなので、その先はあきらめ、再び国道を西に向かいます。築堤の上の住宅地を東から西へ進んでいたのでしょうか?
築堤の上はこんな感じ。ちなみに「国道20号線」に合流する右下の道は、「旧甲州街道」。