春日通りと本郷通りとの交差点。都営地下鉄大江戸線・東京メトロ丸ノ内線の「本郷3丁目」駅から少し北に向かったところ。西にゆるやかに下る坂道があります。これが菊坂。東大の赤門は、本郷通りをはさんで、すぐ近いところに。
本郷界隈は文学の薫る町。中でもこの菊坂は、明治大正期にたくさんの文士たちが集った場所。今もあちこちにゆかりの標識が置かれて、文学散歩にぴったりです。
この菊坂は本郷の台地の中でも一段低くなっているので、北にも南側にも路地のような小さな坂があります。それぞれ名前が付けられていています。
・炭団(たどん)坂。
真砂図書館の近くから菊坂に下る急坂で現在は階段に。炭団職人が住んでいたとも、急坂なので転ぶと炭団のようになるとも言われています。この坂の上には坪内逍遥の旧居跡があり、下ったところには宮沢賢治の下宿跡があります。
・本妙寺坂
炭団坂より本郷通り寄り、女性センターのあたりから菊坂に下ってきます。江戸時代にはこの坂の菊坂をはさんで反対側に本妙寺というお寺がありました。このお寺は、江戸市中の3分の1を灰にした明暦の大火(振袖火事)の火元として知られる。
・菊坂下道
本妙寺坂のあたりから菊坂の南側、少し低まったところに菊坂と平行して走る、狭い道があります。これが菊坂下道(したみち)。樋口一葉の旧居跡や菊水湯があるのは、この下道沿いです。菊坂下道は下町の路地そのもの。
〔菊坂ゆかりの文学者たち〕
・樋口一葉
彼女は24年の短い人生の間に本郷界隈に3回住んでいます。幼少の頃は東大赤門の向かい側のあたり、「にごりえ」「たけくらべ」など代表作を執筆したのは、その短い生涯を終えた白山通り沿いの家。
菊坂下道の路地に住んだのは、19歳から22歳までの4年間。17歳の時に役人だった父が亡くなり、残された借金を引き継いだ一葉は生活苦から、近くの伊勢屋質店に通い通しだったそうです。この質屋さんはもう営業していませんが、建物が残っています。
・宮沢賢治
1921年、25歳の賢治は信仰のことで父と衝突、家を出て上京し、国柱会の活動を行うかたわら、炭団坂下に下宿して、童話を執筆しました。多くの童話の第一稿がこの下宿中に書かれたと言われています。しかし、上京7ヶ月目にして妹トシさんの病状が悪化したため、郷里の花巻に帰らなければならなくなりました。書きためた原稿用紙を大きなトランクにぎゅうぎゅう詰めにして帰ったといいます。
・石川啄木
1909年、北海道を転々としていた啄木は、家族を函館に残して、単身上京。22歳の啄木は盛岡中学の先輩である金田一京助を頼り、現在のオルガノ株式会社の敷地の中にあった赤心館に下宿します。しかし小説は売れず、家賃を滞納して5ヵ月後に京助とともに近くの蓋平館(がいへいかん)別荘に移ります。引越し費用と啄木の家賃肩代わりのため、京助はたくさんの蔵書を売り払いました。2年後、友人の世話で朝日新聞社に職を得ても、なお困窮が続く中、家族を呼び寄せ、27歳で急逝するまで住んだのが、春日通り沿いの理髪店喜之床の二階。ここは現在アライ理髪店となっています。
その他にも、菊坂界隈には、梶井基二郎、二葉亭四迷、徳田秋声、石川啄木、金田一京助、谷崎潤一郎、高山樗牛、島崎藤村、尾崎紅葉、上林暁などが住み、あるいは下宿しています。
写真は、本郷通りからの菊坂。緩やかな坂が西に向かっています。
本郷界隈は文学の薫る町。中でもこの菊坂は、明治大正期にたくさんの文士たちが集った場所。今もあちこちにゆかりの標識が置かれて、文学散歩にぴったりです。
この菊坂は本郷の台地の中でも一段低くなっているので、北にも南側にも路地のような小さな坂があります。それぞれ名前が付けられていています。
・炭団(たどん)坂。
真砂図書館の近くから菊坂に下る急坂で現在は階段に。炭団職人が住んでいたとも、急坂なので転ぶと炭団のようになるとも言われています。この坂の上には坪内逍遥の旧居跡があり、下ったところには宮沢賢治の下宿跡があります。
・本妙寺坂
炭団坂より本郷通り寄り、女性センターのあたりから菊坂に下ってきます。江戸時代にはこの坂の菊坂をはさんで反対側に本妙寺というお寺がありました。このお寺は、江戸市中の3分の1を灰にした明暦の大火(振袖火事)の火元として知られる。
・菊坂下道
本妙寺坂のあたりから菊坂の南側、少し低まったところに菊坂と平行して走る、狭い道があります。これが菊坂下道(したみち)。樋口一葉の旧居跡や菊水湯があるのは、この下道沿いです。菊坂下道は下町の路地そのもの。
〔菊坂ゆかりの文学者たち〕
・樋口一葉
彼女は24年の短い人生の間に本郷界隈に3回住んでいます。幼少の頃は東大赤門の向かい側のあたり、「にごりえ」「たけくらべ」など代表作を執筆したのは、その短い生涯を終えた白山通り沿いの家。
菊坂下道の路地に住んだのは、19歳から22歳までの4年間。17歳の時に役人だった父が亡くなり、残された借金を引き継いだ一葉は生活苦から、近くの伊勢屋質店に通い通しだったそうです。この質屋さんはもう営業していませんが、建物が残っています。
・宮沢賢治
1921年、25歳の賢治は信仰のことで父と衝突、家を出て上京し、国柱会の活動を行うかたわら、炭団坂下に下宿して、童話を執筆しました。多くの童話の第一稿がこの下宿中に書かれたと言われています。しかし、上京7ヶ月目にして妹トシさんの病状が悪化したため、郷里の花巻に帰らなければならなくなりました。書きためた原稿用紙を大きなトランクにぎゅうぎゅう詰めにして帰ったといいます。
・石川啄木
1909年、北海道を転々としていた啄木は、家族を函館に残して、単身上京。22歳の啄木は盛岡中学の先輩である金田一京助を頼り、現在のオルガノ株式会社の敷地の中にあった赤心館に下宿します。しかし小説は売れず、家賃を滞納して5ヵ月後に京助とともに近くの蓋平館(がいへいかん)別荘に移ります。引越し費用と啄木の家賃肩代わりのため、京助はたくさんの蔵書を売り払いました。2年後、友人の世話で朝日新聞社に職を得ても、なお困窮が続く中、家族を呼び寄せ、27歳で急逝するまで住んだのが、春日通り沿いの理髪店喜之床の二階。ここは現在アライ理髪店となっています。
その他にも、菊坂界隈には、梶井基二郎、二葉亭四迷、徳田秋声、石川啄木、金田一京助、谷崎潤一郎、高山樗牛、島崎藤村、尾崎紅葉、上林暁などが住み、あるいは下宿しています。
写真は、本郷通りからの菊坂。緩やかな坂が西に向かっています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます