先頃、月刊誌「美術の窓」の2004年2月から連載されている、その最初の20回分が出版されました。題して、『私の空想美術館』。
少年期の頃からヨーロッパの芸術や文学に親しみ、長じてそれらへの探求、思索が生涯の仕事となった筆者ならではのヨーロッパ芸術鑑賞の一端ともいうべきものです。
表題からも察せられるように、けっして堅苦しい読み物ではありません。一方で、さまざまなジャンルの対象に肉薄することを通して、自らの芸術経験を見つめ直し、再構成していこうとする確乎とした筆者の意志が明確に伝わってきます。
筆者の生死観が明確に読者に伝わっていく鑑賞姿勢、第3室で取り上げられたゴーギャンの作品『われわれはどこから来たのか、われわれは何か、われわれはどこへ行くか
』が、その筆者自身の「私」そのものの存在・基盤を象徴しているようにも思います。
まさに「私」の「美術館」です。
一つ一つの作品は、多くの方が知っている(見たことがある・聞いたことがある)ものですが、実際にその作品そのものに接したことがない人がほとんどでしょう。かくいう私もその一人です。少年期から写真等で見ていた、書物から知っていた、その本物に肉眼で接することができた、筆者のような人間は、類まれな人物でしょう。そこに嫉妬心さえ生じてきます。
しかし、ヨーロッパ芸術への並々ならぬ、どん欲なほどの実物主義(という言葉が妥当ではありませんが)、そこから生まれ出る透徹した鑑賞眼を感じる(お裾分けしてもらえる)こそが、この本のすばらしい魅力です。
少年時代から晩年に至るまで、こうした一途に対象を見つめることが出来ることほど幸福なことはないでしょう。またそれを押しつけがましくではなく、自然体で読者を巻き込むことが出来るのは、文学や哲学者、評論家冥利につきると思います。
少年期の頃からヨーロッパの芸術や文学に親しみ、長じてそれらへの探求、思索が生涯の仕事となった筆者ならではのヨーロッパ芸術鑑賞の一端ともいうべきものです。
表題からも察せられるように、けっして堅苦しい読み物ではありません。一方で、さまざまなジャンルの対象に肉薄することを通して、自らの芸術経験を見つめ直し、再構成していこうとする確乎とした筆者の意志が明確に伝わってきます。
筆者の生死観が明確に読者に伝わっていく鑑賞姿勢、第3室で取り上げられたゴーギャンの作品『われわれはどこから来たのか、われわれは何か、われわれはどこへ行くか
』が、その筆者自身の「私」そのものの存在・基盤を象徴しているようにも思います。
まさに「私」の「美術館」です。
一つ一つの作品は、多くの方が知っている(見たことがある・聞いたことがある)ものですが、実際にその作品そのものに接したことがない人がほとんどでしょう。かくいう私もその一人です。少年期から写真等で見ていた、書物から知っていた、その本物に肉眼で接することができた、筆者のような人間は、類まれな人物でしょう。そこに嫉妬心さえ生じてきます。
しかし、ヨーロッパ芸術への並々ならぬ、どん欲なほどの実物主義(という言葉が妥当ではありませんが)、そこから生まれ出る透徹した鑑賞眼を感じる(お裾分けしてもらえる)こそが、この本のすばらしい魅力です。
少年時代から晩年に至るまで、こうした一途に対象を見つめることが出来ることほど幸福なことはないでしょう。またそれを押しつけがましくではなく、自然体で読者を巻き込むことが出来るのは、文学や哲学者、評論家冥利につきると思います。