おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

政党政治への不信感が社会不安を煽る

2010-11-15 21:32:46 | つぶやき
 ちょっと気になる記事がありましたので。私もほぼ同意見です。

 政府ないし国家は、人間社会の持つ暴力装置を一手に収め、それを排他的に行使すべきものです。だから、犯罪者を逮捕し、裁きに掛け、死刑執行することもできるのです(死刑廃止論に異論を唱えているのではなく、統治理論の一般論です)。
 その行使を恣意的にさせないために、民主国家は多段階の制御装置を整備してきました。末端の暴力装置が自分勝手に動かないように、シビリアンコントロール(文民統制)は貫徹されていなければなりません。「何が正しいか」を決定するのは文民であり、暴力装置自身ではないのです。これが大原則です。
 国家が所管する暴力装置の最たるものが、警察機能であり、国防機能です。要するに警察と軍です。だから独裁者はこれを掌握しようとします。
 海上保安庁もこの領域に入り、那覇地検などの検察もこの領域に入ります。今回の情報流出経路は、どうやらこの二方面のどちらかと思われます。これは、暴力装置の現場がシビリアンコントロールから離れて独自の判断で動き始めた可能性があるということであり、その象徴的な端緒となるでしょう。
 ワタシはこれを、戦前の青年将校の暴走、五・一五事件の現代版だと考えています。そして、青年将校の行状を、当時の一般国民は讃えた。助命嘆願運動も起こりました。
 その行動は、どうしようもない政治を打破しようとした、止むに止まれぬ行動だったからです。
 当時、世界恐慌から3年目、東北では困窮のあまり、娘を人買いに売りに出す家も出るなど、社会の歪みと民衆の困窮は眼を覆うばかりでした。それに対して政治家は庶民を顧みることなく利権に明け暮れ、不況対策を旗印に登壇した犬養毅政権は満足な成果を得られず、こうした不満が青年将校の英断に支持を与えたのでしょう。
 あれあれ。今の政治情勢に似ていませんか?
 戦前の日本は、このあと議会政治が崩壊し、軍部独裁体制に傾斜し、太平洋戦争を仕掛けたものの中国そして南洋の戦線で兵站が延びきり、各所で戦線が崩壊した挙げ句、東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下と、一直線に崩壊の道を辿りました。
 また、同じ道を辿りますか? それとも、別の道を探しましょうか。

「情報クーデター」で存在価値が失墜した民主党・尖閣ビデオ流出問題を考える
(11/10・オルタナティブ政治経済研究所)「日経ビジネスオンライン」より。
 
 ビデオ流出事件(事件性があるか疑問だが)。自民党政権下だったら、どう対応したか。民主党を攻める自民党も、自らが政権を担っていたらどう判断しただろうか。自民党内でもてんやわんやになっていたに違いない。そのことを抜きにして民主党攻撃をしてればいいのだから、野党も気楽なものだ。もっとも野党時代の民主党もそうであったのだが。
 自公政権下では中国もあそこまではしなかった、という見方もあるようだ。鳩山の普天間を巡るありえない迷走が、日米、日中、日ロ、と立て続けにガチンコのぶつかり合いになったことに。(鳩山には、何の反省もない!)
 国会議員は、誰も選挙の勝ち負けだけが、自らの頭と行動の視点でしかない。国民生活のことや外交。「票」につながるかどうか、どうしたら相手を一票でも上回れるか、その利害得失で勝手に発言し、行動し、国の方向性などを考える、などみじんもない。
 もともと民主党。自分の議席獲得のためにできた政党。いわば、選挙互助寄り合い団体。「政権交代」というスローガンが、見事、有権者の心をつかんで実現した。そう言えば、あのスローガン。政権交代の文字の後には、「。」がついていた。つまり、政権交代が実現すれば、それで終わり。今の状況を見据えていたかのような・・・。
 でも、これによって、長びく経済不況、国民生活の不安、疲弊しきった国民が喝采をするのは何か? 
 数年前、一部の青年からガラガラポンになるはずとの虚しい希望の元での「戦争待望論」が叫ばれたが、時代状況は、ますます昭和10年代に似てきているようだ。今こそ、政治(家)の真価が試される時なのに、いまだ党利党略に明け暮れる国会議員諸公は、自らの足元が崩れていることに全く気づこうとしない。そこにつけ込もうとするのは、いったい、どういう主義主張を持つ人間達なのか。
コメント
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