おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

深谷駅~旧煉瓦製造施設(日本煉瓦製造株式会社専用線)。その1。

2016-03-08 20:15:32 | 鉄道遺跡
 「旧中山道」歩きで「深谷宿」に入ってすぐ、「国道17号線(現中山道)」を渡った先の右手に「常夜塔」があります。そこを斜めに横切る緑道。それが、「日本煉瓦製造専用線」跡だったようです。その時は、そのまま通過。
 今回、その廃線跡を歩いてみました。全線が自転車と歩行者専用の遊歩道「あかね通り」として整備されています。約4㎞の遊歩道。帰りはバスの便の本数が少ないため、往復するかたちに。自転車で行くのがいいようです。車内に持ち運びが出来る「おりたたみ自転車」が便利。
 が、今回は歩きで往復しました。ほどよい疲労感があって、とてもいい、と思いました。


1970年代のようす。←の道。中央・左手が「深谷駅」。

 そこで、「日本煉瓦製造専用線」について

 日本煉瓦製造株式会社は、かつて存在した日本の煉瓦製造・販売会社である。本社を東京に置き、埼玉で煉瓦製造工場を操業していた。

《沿革》
 明治政府は臨時建築局を設置し、ドイツ人建築家のヴィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデをお雇い外国人として日本に招いた。彼らは都市整備のために良質な煉瓦、ならびにそれを製造する工場が必要であることを明治政府に進言した。これにより渋沢栄一らによって日本煉瓦製造が設立され、同工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(現在の深谷市上敷免)に建設された。
 後に太平洋セメントの子会社となり、2006年、日本煉瓦製造は廃業を決定、清算された。会社清算に伴い、埼玉県深谷市にあった工場の諸施設は、すでに重要文化財に指定されていた「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」などを含めて所有権が深谷市に移転、同市によって保存・整備されることとなった。

《専用鉄道》
 工場は利根川の支流・小山川に面しており、製造された煉瓦は舟運により小山川から利根川そして江戸川に入り東京に至るというルートをとっていたが、輸送力向上を目的として1895(明治28)年に日本鉄道(現JR)「深谷」駅から工場までの約4.2kmにわたって専用鉄道が敷かれた。運行は1920年12月末時点で3往復が設定されていた。
 昭和後半からはトラック輸送がメインとなり、1975(昭和50)年3月に専用線は廃止となった。その後線路が撤去され、歩行者と自転車専用の遊歩道「あかね通り」になっている。

《日本煉瓦製造の煉瓦を用いた主な建築物》

・東京駅(東京都千代田区)
・中央本線万世橋高架橋(東京都千代田区)などの鉄道高架橋
・司法省(現在の法務省旧本館、東京都千代田区)
・日本銀行旧館(東京都中央区)
・赤坂離宮(現在の赤坂迎賓館、東京都港区)
・東京大学(東京都文京区)
・旧金谷レース工業鋸屋根工場(群馬県桐生市)
・信越線碓氷峠の鉄道施設(群馬県安中市)

《「日本煉瓦製造」関連(深谷市内)の国指定重要文化財》

・旧事務所 - 木造平屋建、瓦葺、1888年頃の建設(現在は日本煉瓦史料館として使われている)
・旧変電室 - 煉瓦造
・ホフマン輪窯六号窯 - 長さ56.5m、幅20m
・備前渠鉄橋

(以上、「Wikipedia」参照)

    
                              深谷駅・駅舎。

 「深谷駅」が出発点。この駅舎。東京駅丸の内駅舎の煉瓦が「日本煉瓦製造深谷工場」でつくられたものであることから、1996(平成8)年の改修に当たって東京駅の半分の大きさに模した煉瓦張りになっています。

コンコースの灯りもなかなか凝っています。

 周囲の建物で赤煉瓦仕立てのものも。
    

駅前広場には「渋沢栄一」像。

高崎線に沿って始まる線路跡は、「あかね通り」。

かつての本線からの分岐付近?

 遊歩道は自転車と歩行者ときちんと分けられ、その仕切りには煉瓦が並べられています。  


この付近から廃線跡に重なる道に。

 スタートしてすぐに越える「唐沢川」に架かる「つばき橋」。鉄橋をそのまま利用し、上に煉瓦で手すりを設置してあります。
    

プレート・ガーダー橋と土台の煉瓦積みはそのまま。

 廃線跡は高崎線から離れ、左にカーブしながらほぼ北に向かって進みます。ほとんど直線の道。道の真ん中には大きな木々が植えられ、住宅側には花を咲かせる低い木々が続き、よく整備された遊歩道です。
    
                                         0.5㎞ごとに案内表示。

                   

 しばらく行くと、ちょっと広いところに。ベンチもあって小休憩。この付近で貨車のすれ違いでもあったのでしょうか? 周囲も少しゆとりのある空間に。
    

 やがて旧中山道との交差点。旧深谷宿の常夜燈が建っています。これが中山道歩きの時に見かけた江戸方の常夜燈に当たります。

    

旧中山道(熊谷方向)。

廃線跡(遊歩道)からの「常夜燈」。


←が「常夜燈」付近。上方斜めの道が「国道17号線」。

※ 「写真」は、「歴史的農業環境閲覧システム」より。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その1。(旧中山道をゆく。第8日目。)

2016-03-07 18:28:36 | 旧中山道

 2月24日(水)。晴。が、気温は低く、風はすこぶる強く。体感的にはかなり寒い。そんな中での、旧中山道歩き。
 「上野」~「高崎」~「群馬八幡」まで、在来線を乗り継ぎ、着いたのが8時50分少し前。
 前回の最終地まで戻って、「横川」駅を目指します。

 今回は、「14 板鼻」→「15 安中」→「16 松井田」~「17 坂本」宿の手前まで。上州7宿のうち「新町」・「倉賀野」・「高崎」を終え、残りの4宿ということに。



 「群馬八幡」駅から「国道18号」少林山入口交差点まで戻るには、けっこうかかります。しばらく進むと、「安中市」の表示。(09:07)右手には駅名の由来となった八幡宮の大鳥居。

 「板鼻東」信号の先に大きな「橋供養塔」。
 
    

寒念仏橋供養塔  安中市指定史跡
 板鼻宿の念仏講中が寒念仏で得た報謝金を蓄積し、享保17年(1732)に石橋を改修し、旅人の利便に供した。その後年月を重ねて破損したので、享和2年(1802)板鼻宿の木嶋七郎左右衞門が亡父の遺志を継ぎ、堅固な石橋に改修し、その近くに供養記念塔を建て、後世に残したものである。地元ではこの石橋を「かねつ橋」と呼んでいる。
 この塔が建てられた直後に中山道を旅した太田南畝、別名蜀山人がその著『壬戌紀行』の中中で「板鼻川の橋を渡れば板鼻の駅むげに近し。駅舎をいで、麦畑の中を行けば石橋あり。新建石橋、木嶋七郎左右衞門供養塔といへる石たてり。げに累々たる石佛をつくらんよりは、橋たてし、功徳はまさりりぬべし」とほめている。なお、この供養塔は国道18号の拡幅工事のため板鼻堰用水路沿いあったのをわずかに現在地に移動したものである。

 安中市教育委員会

足元の台座には矢羽根とかが刻まれている。 

(09:21)その先、「群馬日産」の所を右に折れ、またすぐ左の道に入っていきます。
    

双体道祖神」。

    
 双体道祖神は、寛政4年(1792)のもので、祝言形(夫婦和合)です。台座には、「当駅より京へ107里3丁、江戸へ21里半丁、日光へ37里、善光寺へ37里、榛名山へ5里、妙義山へ4里半、加州金沢へ92里半」と旅程が刻まれています。

沿道には梅などが咲きほこっている。

(09:29)庚申塔など。

JR線を越えます。「第9中仙道踏切」。

宿内には古い街並みが残っています。 

「中山道板鼻宿 板鼻館 名物タルタルカツ丼」?
 懐かしい手押しポンプの消火道具が置かれています。


 養蚕農家だったと思われるおうち。蚕のための室温調整用の小屋根が乗っている。

板鼻宿(いたはなしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて14番目の宿場。日本橋より28里24町40間(112.7km)、京より107里7町20間。
 人口1,422人、総軒数312軒、本陣1、脇本陣1、旅籠54(天保14年(1843年))町並みの長さ10町30間。
 碓氷川の川止めが多く、中山道上州七宿の中では最大級の宿場であり、かつ旅籠の数50軒を数えるのは板鼻宿より京方面では塩尻宿以外にない。
 本陣跡が板鼻公民館近くにある。この本陣の書院に孝明天皇の皇妹和宮親子内親王が、文久元年(1861年)11月10日宿泊し、初潮が確認され、その遺物を祀ったとされる塔がある。

 (以上、「Wikipedia」より)

渓齊英泉画。

 「板鼻堰用水路」が描かれています。 

(09:40)「板鼻公民館」のところに「板鼻宿本陣跡」碑。

    

「板鼻宿」の案内絵図。

 公民館の裏手には、「皇女和宮資料館」。

    

旧板鼻宿本陣書院(皇女和宮宿泊所)
 この建物は、板鼻宿本陣(木嶋家)に付属した書院であった。書院建設年代は寛永説(1624―1644)と寛政説(1789―1801)がある。
 公武合体運動により皇女和宮内親王(1846―1877)、孝明天皇の妹)が第14代将軍徳川家重(1846―1866)に降嫁するため中山道を京都から江戸への下向途次、文久元年(1861)11月10日に一夜をこの書院で過ごされた。
 時代は下って、板鼻宿本陣敷地が板鼻公民館用地となり、書院はここに曳き移転され、外装等に補強の手を加えたが、昔日の面影が偲ばれるよう施行はひかえめとした。

 安中市教育委員会

この建物の裏手には「板鼻堰用水路」が流れています。 

板鼻堰用水路
 板鼻堰用水は鷹巣山麓の堰口から碓氷、九十九領川の水を採り入れ、安中市板鼻、高崎市八幡町、剣崎町、藤塚町、上豊岡町、中富岡町、下豊岡町を経て、烏川に落水する延長15キロメートル、灌漑面積150ヘクタールの用水路である。
 この用水路は今から凡そ400年前の慶長年間中期~後期(1604~1614)に開鑿されたものと推定される。 

 平成17年10月 板鼻堰土地改良区

「中山道 板鼻宿 海音寺潮五郎書」。

「公民館」の隣にあるお花屋さん。
                           この土蔵造の防火建物は、和宮宿泊当時から存在したとされます。

    
                              八坂神社の双体道祖神
 この双体道祖神は祝言形(夫婦和合)です。子宝祈願・安産祈願の碑で、男は杯、女は徳利を持ち、仲睦まじく肩を寄せ合っています。

行く手を望む。落ち着いた街並みが続きます。

(09:54)先ほどの「板鼻堰用水路」。水量が豊か。
     

 この辺りで「板鼻宿」に別れを告げ、「碓氷川」に架かる「鷹之巣橋」に向かいます。
(10:00)その手前、右に「鷹巣神社」左に「依田六郎城址」と記された石柱や「聖徳太子」などの碑がまとまった一画があります。



 この「依田六郎」は、板鼻城(山城)の城主で、信州佐久出自の戦国武将の依田一族だったようです。鷹巣神社の背後にその山城跡がある、とも。国道によって分断された参道の一部のようです。

 そこで、関西から来たというご夫妻にお会いしました。

 今日は、朝「安中」を出て、「倉賀野」まで行って、そこでまた宿泊する、とか。すでに東海道を終えたそうです。奥さんの話だと、私は東海道より中山道の方がよかった、旦那は東海道の方がいいっていうんです、と。「碓氷峠」は軽井沢から来た方が楽ですよ、「和田峠」は思ったほどきつくなかった、と。
 お元気なご夫妻でした。お互いの今後の健闘を祈って別れました。けっこうこうやって歩いている方が多いのですね。
 今回、一日歩いていて、話したのはこの方と道路工事の誘導員と地元の方の、つごう、3人のみでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その2。(旧中山道をゆく。第8日目。)

2016-03-06 15:29:15 | 旧中山道

 安中市は旧中山道への思い入れがあって、各宿とも充実した「案内パンフレット」などを用意してあり、散策や帰ってからの見直しに大変役立ちます。

     

「鷹之巣橋」のたもとに、かつてのお休み処? 

                   この先辺りで徒渉していたようです。
                       

橋の左奥には「東邦亜鉛安中精錬所」。

 以前、「信越線」で乗って、高崎駅を過ぎて左手に見えてくる。要塞のようなこの施設が眼に入ると、いよいよ関東平野から山の中に入って行くのだな、と旅心をそそられたものでした。再びこうして歩いて遠くに見るとは思いも寄りませんでした。
 この工場は、安中公害訴訟で有名になりました。

上流右手にはクレー射撃場。

ちょっぴり白い頭をのぞかせた「浅間山」。

 渡り終えると、「中宿」。橋のたもとを右折して、すぐ左折します。本来の道は川の向こうから続いていました。(10:08)

    

 右手に土蔵と新しい公民館。
    

 「この地は400年近い家歴を有する大河原家より安中市へ寄贈されたものなるところ、安中地区第一区の住民の総意により新たに公民館を建設した。」とあります。

  「庚申塔」。「従是 一宮/大日 街道」とあります。

(10:18)しばらく進むと、道が二手に分かれるので、正面の道をそのまま進みます。
    
                                       振り返って望む。

その道を行くと碓氷川の土手に突き当たります。 

旧中山道は徒歩で対岸に渡っていたようです。 

「久芳橋」からの「浅間山」。

左手には「妙義山」。 

「中宿」方向を望む。

「下野尻」交差点で歩道橋を渡り、「安中宿」方向へ。 

(10:43)「安中宿・下の木戸」跡。 

安中宿(あんなかしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて15番目の宿場。
 現在の群馬県安中市、JR東日本安中駅の真西方向、碓氷川と九十九川に挟まれた台地上に安中宿があった。また、駅北東側・碓氷川南岸にも安中中宿と呼ばれる宿場町が存在していた。
(歌川広重 画)

安中宿周辺の空中写真。
 北を九十九川、南を碓氷川に挟まれた河岸段丘上に位置する。国道18号南側を東西に並行して走る狭い街道筋が旧安中宿である。1975年撮影の4枚を合成作成。

 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、安中宿の宿内家数は64軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠17軒で宿内人口は348人であった。
                                 (以上、「Wikipedia」より。写真も)

 少し補足すると、

 安中城の城下町。町並みの長さは、3町44間。日本マラソン発祥の地と言われ、毎年碓氷峠の熊野権現まで走る「侍マラソン」が行われている。これは安政年間に藩士の鍛錬のために始めた「安政の遠足」が起源。同志社の設立者で、キリスト教布教に尽力した新島襄は安中藩士の子。

 宿内のようす。落ち着いた町並み。古い建物も。
    

(10:46)「安中郵便局」前に「本陣跡」説明板。    

「案内図」。史跡の案内が充実しています。

史跡は右手、坂道を上った所に点在。「大泉寺」。

 「伝馬町」(宿場によくある地名)交差点を右折し、坂道を上った突き当たりにあるのが「旧碓氷郡役所」。

    

旧碓氷郡役所 安中市指定重要文化財
 明治11年(1878)、・・・群馬県に17の郡(のちに11に統合)が設置され、郡役所が開設された。碓氷郡役所は旧安中宿本陣に置かれたが、約10年後の明治21年に旧安中城内町口門北側(現在、旧碓氷郡役所があるところ)に新築された。
 郡役所の新築から約22年後の明治43年、原因不明の火災によって焼失してしまった。このため、翌明治44年に竣工したのが現在も残る旧碓氷郡役所の建物である。
 しかし、郡は地方自治体としての歴史がなく、郡住民の自治意識もきわめて低く、自治体としての発達にも見るべきものがなかった。このため、大正10年郡制は廃止され、郡は行政区画に戻った。大正15年には各郡役所も廃止となり、郡は地理的名称に戻った。 その後、この建物は碓氷郡農会、碓氷地方事務所(昭和17年から)、安中農政事務所(昭和32年から)と移り変わったが、昭和48年には空き家となり、翌昭和49年に県から安中市へ移管された。県内の郡役所はここだけとなり、この県内唯一の郡役所を保存するため、平成8年に安中市指定重要文化財に指定し、平成8~9年に修復工事を行い、当時の写真や建物に残る痕跡から創建当時の姿に復元した。

 平成10年2月
 
 今も各県などに残る「○○郡」には、いきさつ、歴史があったのですね。

 「旧郡役所」の前の通りは「大名小路」と呼ばれています。
     
 
「安中城内現況対照図」(明治初年)。

 図中にもある「安中教会」。大正8年、新島襄召天30周年を記念して建てられた「新島襄記念会堂」は建築史上の意義の高い建物、らしい。

(10:57)通りの左側に「旧安中藩郡奉行役宅」と「武家長屋」が復元されて残されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その3。(旧中山道をゆく。第8日目。)

2016-03-05 22:47:06 | 旧中山道

    

旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家) 安中市指定重要文化財
 この建物は「旧安中藩郡奉行役宅」で、幕末から明治初年にかけて猪狩幾右衛門懐忠が安中藩の郡奉行として住んでいました。
 郡奉行とは安中藩の民政をつかさどる役職で、安中藩には3人の郡奉行とその配下に4人の代官がいて、年貢の割り当てから徴収、お触れの通達、領内の地安・裁判などの仕事をしていました。
 このたび、猪狩芳子氏から安中市へ建物が寄贈されたのを機会に、安中市の重要文化財に指定しました。
・・・
 母屋は、県内では珍しい曲がり屋形式で、上段の間、土間、式台付きの玄関、茅葺き屋根、武者窓、砂ずりの壁など、」いずれも素朴で重厚な地方武家屋敷の姿をとどめています。
 この役宅は、安中城址の南西の部分に位置し、この役宅の西には「旧安中藩武家長屋」や旧安中城西門枡形(ますがた)、役宅の長屋門の北には大名小路、袋小路や藩士の学校であった造士館跡及び安中藩会所跡があります。
・・・

 平成7年4月 安中市教育委員会

                             

 通りをはさんだ西側には、「旧安中藩武家長屋」。
 かつて安中城内には家臣の屋敷が建ち並び、その一部は長屋でした。この建物はそのうちの4軒長屋で安中城西門のすぐ東にあったものです。

    

「大名小路ふれあい公園」案内図。

再び旧道に戻ってきます。宿内のようす。

少し進んだ左手に「便覧舎」跡。

 湯浅治郎は明治5年(1872)、私費を投じて和漢や西洋の古書や新刊書を購入し、約3千冊の本をそろえて通俗図書館便覧舎を創設しました。便覧舎は無料で利用でき、自由な閲覧が可能。人々は一心不乱に本を読み、新しい思想を身につけようとしました。これが民間人が創設した最初の図書館です。その後、便覧舎は明治20年(1887)の火災で全焼してしまい、現在はその存在を示す「碑」があるだけとなっています。

(以上、HPより)

湯浅治郎(1850~1932年)
 上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の長子として生まれる。実家の有田屋は父・治郎吉の代に南京米や魚油の輸入・蚕紙の輸出・販売も手がけていた。元治元年(1864年)に有田屋3代目当主となる。
 福澤諭吉の著書を読んで教育の重要性を認識した湯浅は明治5年(1872年)に安中に私立図書館「便覧舎」を設置し、図書館事業の先駆となった。同郷の新島襄と親しく交わり、明治11年(1878年)彼を中心に安中教会が建設された時にキリスト教の洗礼を受けた。 翌年、碓氷郡書記、更に明治13年(1880年)には群馬県会議員となり、同16年(1893年)には県会議長に就任して廃娼運動の先導役となった。
 明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙に群馬県第5区から立候補して当選、衆議院議員(自由党所属)となるも1期で国政から引退し、家業の発展と社会・文化運動に力を尽くす。安中小学校設立に関与し、新島の同志社や義弟・徳冨蘇峰の民友社を経済的に支援したほか、同志社・日本鉄道・日本組合基督教会などの理事を務めた。また、警醒社(後に警醒社書店)を設立して内村鑑三らの出版事業を助けた。警醒社では『六合雑誌』を刊行している。明治25年(1892年)には京都に移住し、新島後の同志社理事として立て直しに尽力した。
 また文化人としても活動し、海老名弾正、山室軍平、深井英五などと親交があった。
 晩年は家業を息子・三郎に譲って同志社のある京都や警醒社のある東京で過ごした。昭和7年(1932年)6月7日、肺炎で死去。83歳。

 「中山道」をはさんで向かいにその「有田屋社屋」があります。

    

醤油醸造元 有田屋
 江戸末期・天保3年(1832)に味噌・醤油醸造元として創業。かつては安中藩の御用達を勤め、、味噌・醤油の醸造の他、穀物、油脂、肥料、塩等を扱う商家として営業をしてきた。
 有田屋は本来の事業の他にも、明治、大正、昭和の3代に亘って、日本の教育、社会、文化に貢献した多数の人物を輩出したことでも知られている。 
 現在、醤油も大量生産、速醸の時代であるが、有田屋は昔ながらの天然醸造法で、じっくり発酵・熟成させる本物の醤油造りをかたくなに守り続けている。

 株式会社 有田屋

奥に煉瓦造りの煙突が見えます。

全貌はご覧の通り。 (HPより)


「安中大木戸跡」碑。ここが安中宿の「上(京方)の木戸」となります。

宿内を振り返って望む。
「軽井沢(まで)31㎞」。

  「新島襄旧宅入口」碑と「道祖神」。

 ここで、「新島襄」について。 

 天保14年1月14日(1843年2月12日) - 明治23年(1890年)1月23日)は日本の宗教家、教育者。学位は理学士。同志社英学校(後の同志社大学)を興した。明治六大教育家の1人に数えられている。
 天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。
 当初、密航者として渡米した襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。
 明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団に参加、ニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。
 明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業する。
 明治8年(1875年)9月、宣教師志願者の試験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けた。
 同年11月、横浜に帰着。最初に故郷の上州安中に向かい、安中教会(現、日本基督教団安中教会)を設立した。
 明治8年(1875年)11月29日、同志社英学校を開校し初代社長に就任。
 明治10年(1877年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。
 明治17年(1884年)4月6日、2度目の海外渡航に出発する。ドイツでは訪問先のヨハネス・ヘッセの家で幼少の息子ヘルマン・ヘッセと会っている。
 明治18年(1885年)12月に帰国。
 明治19年(1886年)9月には京都看病婦学校(同志社病院)がキリスト教精神における医療・保健・看護活動、キリスト教伝道の拠点として設置されその役割を担う。この看病婦学校・病院にて看護指導に当たる事となったのが、ナイチンゲールに師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったリンダ・リチャーズである。
 明治21年(1888年)、徳富蘇峰の協力により井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付ける。
 明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養する。
 明治23年(1890年)1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。死因は急性腹膜炎。最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
 
 遺体は京都東山若王子山頂に葬られた。墓碑銘は徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆による。

(以上、「Wikipedia」参照)

 「東海道」大磯宿で新島襄の終焉の地を訪れています。(2014.10投稿)

                          「新島襄終焉の地」
            

 明治の先覚的教育者新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)江戸神田の安中藩邸内で、藩主新島民治の長男として生まれた。
 その当時は、近代日本の黎明期に当り、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、1875年(明治8年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。
 その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中、病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。
 徳富蘇峰の筆による碑が、かつての百足屋の玄関だったところに門下生によって建てられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改憲、改憲、とだだっ子のように前のめりの御仁。そして、・・・

2016-03-04 21:59:06 | 平和
首相 辺野古埋め立て巡る裁判で和解案受け入れる方針

 今や「衆参で3分の2以上の議席を確保し、改憲をする」と決意を固めているアベ。
 悲願実現のためには、選挙をうまく勝ち抜く。そのためにはどんな妥協でもする(ただ選挙制度だけは不利になるから認めない)姿勢が鮮明に。

 これで、ますます同日選挙が濃厚に。野党はぬか喜びしていられない。アベは勝てば一気呵成にことを成就させるだろう。選挙で勝ちさえすればあとはどうにでもなる。と。
 沖縄・普天間問題を棚上げにした「ふり」をして、いよいよアベの目論見が功を奏するか、それを本気で阻止できるか、春到来と共に、いよいよ正念場の、「熱い、熱い」 政治シーズンを迎えました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その4。(旧中山道をゆく。第8日目)

2016-03-03 20:17:49 | 旧中山道
(11:27)道幅が広くなって、かつてはここから1㎞にわたり、杉並木が続いていた「安中原市杉並木」跡にさしかかります。安中宿側には1本も杉はなく、その代わりに花壇が道の両脇に続いています。かつての記念碑が建っているだけです。

    
                   「昭和九年建設 文部省」「天然記念物安中原市杉並木」。 

 安中市のバイパス道路の西外れから原市に至 る旧中山道沿いにある。かつて延長約1㌔あっ たが、現国道18号線沿いの部分は枯死はなはだ しく、昭和42年に指定解除された。指定当時321本あったが現在は目通り50㌢以上のスギは24本残るのみとなり、その平均は2.2㍍で、北側11本、南側13本である。
 1604(慶長9)年中山道を改修し、同時に江戸日本橋を基点として、1里ごとに一里塚を築いたことが記録にあり、この改修当時に植樹されたものといわれる。以来、安中藩が管理補植に当たってきたが、幕末の天保 年間には732本のスギを数えたという。明治以降は道路管理と一体的に維持されてきた。
 1970(昭和45〉年の群馬県林業試験場のスギ並木の実態調査によると、樹高は最高41㍍、最低11㍍、平均31㍍、目通り周は最高5.9㍍、最低0.8㍍、平 均2.8㍍であり、伐採木8本の年輪調査では、最高320で280前後が多かった。ヨシノスギの若木29本が南側に植えられ、新しい並木の復活に期待したい。

花壇の端に腰掛けて小休止。目の前にはたぶん「桑畑」。

 養蚕の盛んだった頃は、北関東のあちこちで桑畑を見ましたが、今回、歩いていて沿道に桑畑を見ることはありませんでした(気づかなかっただけかもしれませんが)。はじめての遭遇。
 桑は蚕のための葉だけではなく、実がなって、食べると甘酸っぱくおいしかったことを記憶しています。昔、勤務先の一画にどういうわけか桑の木が1本植わっていて、初夏の頃、その実を摘まんだことを思い出します。

    
                                (写真は、「Wikipedia」より)

   以前、「地図」を広げると、関東地方ではこの記号をあちこち見ましたが、今は・・・。


(11:44)「国道18号線」を横切ります。

振り返って望む。

左側に「道祖神」等、3基の石塔。

 応急給水施設「並木配水池」の大きなタンクの前面には、杉並木の中を5人の藩士達が駆けぬける「安中の遠足(侍マラソン)」の大きな図柄が。
 

 その先から「杉並木」がしばらく続きます。今の時期、「花粉症」にはたまらない赤茶けた杉、杉、杉。
      

 整然と植えられています。東海道は松並木でしたが、こちらは杉並木が基本。


説明板。  

安中原市の杉並木 国指定天然記念物 昭和8年4月1日指定
 中山道の杉並木として江戸時代初期から植え継がれてきたが、その後の様子は左記の通りである。

・天保15年 安中分 387  原市分 345  合計 731
・昭和7 年    〃  118     〃  203   〃   321
・昭和42年    〃   67     〃 155  〃   222
・昭和43年    〃 全て伐採  〃   94  〃    94
・現  在     〃    0    〃    14   〃    14
・昭和60年以降植樹  0      〃   54  ミニ杉並木

 今や枯死寸前の杉並木ではあるが、市民の関心と理解、行政の協力により、後世に伝えていかなければならない。 
 中山道しのぶ 安中杉並木(安中かるたより)

 平成25年3月 碓氷安中ロータリークラブ 

 古木も残っていますが、昔日の面影はまったくなさそうです。切り株が痛々しい。枯死した原因は排気ガスなのか、それとも、・・・。

     

 有名な「日光杉並木」。総延長が35.41キロメートルに及び、世界最長の並木道としてギネスブックに登録され、周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、江戸時代の街道の景観をよく伝えています。
 しかし、その杉並木も、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消しているそうです。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていません。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、早急な対策が必要とされています。

(以上「Wikipedia」参照)

 「花粉症」の原因として今や厄介者扱いされる風潮もあるようですが、・・・。この先、長野県、岐阜県に入ると、こうした「杉並木」という光景が見られるのでしょうか?

原市側にも「記念碑」が建っています。    

「杉並木」を振り返って望む。 

 (12:10)しばらく進むと、落ち着いた家並みに。
    

「原市村戸長役場跡」。

 (12:16)その先、左手に「原市高札場跡」碑と「明治天皇小休止跡」石柱。以前は民家があったようですが、現在は更地になっています。

    

説明
 明治11年北陸東海巡幸の際9月3日御小休所となりたる処にして主要部分はよく旧規模を存迫りせり。・・・昭和15年5月 文部省 

当時を偲ばせるものは奥にある庭なのか?

「真光寺の釣り鐘」(奥の左手)
 安中市で、戦災を免れた数少ない時の鐘。真光寺が廃寺となった後も、鐘のみが残されています。

蔵造りの建物。なまこ壁が。

緩やかな上り坂を進みます。振り返って望む。

「中山道 松井田宿←4.9K  安中宿→ 4.2K」。


 小学校、中学校を過ぎると、左手に「八本木旧立場茶屋」。
    

道の反対側には「八本木延命地蔵堂」。

                    (12;37)行く手には「妙義山」と「浅間山」。
    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その5。(旧中山道をゆく。第8日目)

2016-03-02 21:05:59 | 旧中山道

 次の「松井田宿」へ向かいます。「国道18号線」から1本北側の道。のどかな道筋が続きます。郷原地区。「道祖神」や「馬頭観音」などの石碑が道端に点々とあります。

    

(13:02)日枝神社。

妙義山がだんだん近くに。

      
     左;道標「中山道 ←松井田宿 2.9K →安中宿 6.2K」。右;「道祖神」、「百番供養塔」。

その左手に「高札場跡」碑。

      まもなく「国道18号線」に合流。

(13:24)旧道が「国道18号線」と合流すると、国道の向こう側に「妙義山道」常夜燈があります。


    

郷原の妙義道常夜燈 安中市指定重要文化財

 この常夜燈は、文化5年(1808)、地元の碓氷郡郷原村を中心とする「妙義講」の人々が、 当時原市に仮住いしていた信州伊奈郡手良郷野口村民吉」という石工に建造させたものである。
常夜燈の露盤には16弁の八重菊の紋章が刻まれている。また、塔身の正面には「白雲山」、東面に「文化五年戊辰四月七日」、西面に「当所講中」と刻まれている。
 また台座には「是より妙義道」と刻んでおり、妙義神社への参詣者のための道しるべとなっていたことがわかる。台座には建立者62名の姓名と石工の名前が刻まれている。当時の人々の妙義山への深い信仰心を示している。
なお、元々この常夜燈はここから東へ50メートルの中山道から妙義道への入口にあったが、昭和六十年三月に現在地に移転したものである。

   安中市教育委員会

 周囲には、「道祖神」や「山中貞輔」の歌碑などがあります。

    

 山中貞輔は、江戸末期の寺小屋の教師で、群馬県の中後閑から郷原の山中氏の養子に入り、山中家12代当主となった人物。
 《碑文》月の入る 西の都を さし行ば 帰らぬ旅に 迷路もなし 

 もともとの道はもう少し東(「妙義道常夜燈」が本来あったところ)を左に入る「逢坂」でしたが、地震や水害で崩れて失われてしまったようです。現在は、400メートルほど国道を進み、左に下る道(明治天皇が行幸の際、開通した「明治天皇道」)を行きます。

「妙義山」と「碓氷川」。

「国道18号線」から分かれるところに「郷原地区長役場跡」の立て札。

下り坂になります。

「碓氷川」。旧道の痕跡はなさそうです。

右手に石仏、石碑群。

 眼下の家並みと「妙義山」。
    

(13:44)県道33号線に合流。振り返って望む。

(13:48)県道の正面には「浅間山」。

 右手にある「松井田下町郵便局」の先付近から「松井田宿」に入るようです。


(14:00)「下町」信号の手前、左手に「下の木戸跡地」「ももんが堀」の解説板。松井田宿内はこの看板が目印。

    

松井田宿名所・旧跡①下木戸跡地・ももんが堀(木戸東外)
 下木戸はこの西辺り 「下町」信号のT字路から南へ向かう道路は、近年になってから新しく整備された道である。

 下木戸から上木戸までは、全長6丁6間(約677m)木戸内は両側に堀割(巾・深さとも3尺)が完備していた。
 ももんが堀(現在は案内板下暗渠)は、堀割の用水を集めて南方の碓氷川へと放流する役目がありました。

松井田宿
 江戸から16番目の宿場。信州各藩から集まる年貢米の中継地として賑わい、「米宿」とも呼ばれていたという。
 西に碓氷関所を控えており、馬子唄に「雨が降りゃこそ松井田泊まり降らじゃこしましょ坂本へ」唄われたように面倒な関所を越しておきたいと、松井田を通過してしまう大名や旅人が多かった。
 町並みの長さ 9丁8間 人口 1,009人 総家数 252軒 本陣 2軒 脇本陣 2軒 旅籠数 14軒

歌川広重画

「下町」交差点を振り返って望む。

左手にある道標「中山道 松井田宿 → 」。

                            宿内の様子。
    

脇本陣(字下町 徳右衛門屋敷)跡」。

 江戸時代の宿駅で、旅する大名やその家中、勅使や宮門跡、幕府公用の役人などのため休憩所・宿泊所として設けられた公認の屋敷跡。凡そ建坪73坪、玄関門構無御座候と松井田宿明細帳に記述されている。

商家風の建物が見られます。

「畑中医院」という看板がある古い建物。

「辻中薬局」。「伊勢屋」という屋号があり、かつては商家?

その先、左手に「どっと混むイベント広場」。

(14:10)ベンチがあり、小休止。    

(14:30)ここら辺りが宿場の中心。

「お休み処 みなとや」。

 案内板⑦「どうぞ、どなた様もお時間が許すならば、お気兼ねなく立ち寄りください。みなとやは、旅を楽しむ人に地元ならではのひとときを提供するため、松井田に店開きした、古くて新しい(無料の)お休み処です。」

 この案内板の前にあるはずの⑥「松本本陣(字上町 駒之亟 屋敷)跡」の看板が見当たりません。行き過ぎたと思い、戻ってみましたが、はて? 右手、クリーニング屋さんのところにあるはずだが・・・。そこは、更地になっていました。

 その案内板には「凡そ建坪174坪玄関門構有之候。部屋数23室、表門両脇から東側に10軒の店舗が配されていた。裏門は非常之節御開所となる不動寺への通路。当時の敷地内には往時の名残を留める庭園、井戸、土蔵が残存する」とあったようです。(「松井田宿まち歩き」マップより)

 そこで細道を上がってみて、行ったり来たり探しましたが、それらしき標識やめぼしいものは見当たりません。古い祠などはありましたが、住宅やアパートになっていて入り込むことは出来ず。ロスタイムあり。

    

(14:45)「脇本陣(字上町 安兵衛 屋敷)跡」。

 ・・・松井田宿明細帳に凡そ建坪82坪、玄関門構え無御座候と記述されている。

 そこに「間口は街灯55番から65番まで」とあったので、注意して歩くと、実に長いものに。

歩道橋の右下に「→松井田宿」との標識。

「松井田宿上木戸跡地・案内板下に立が堀」。案内板の東方10m歩道橋下に表示あり

 松井田宿は慶長年間より街道の改修が行われ、30年程後町並みも整い、更に50年程後、宿駅の構造としての機能を持つに至ったとされる。立が堀の水は上木戸で二手に分け、軒下を流れ生活用水に使用されていた。

 先ほどの表示付近が「松井田宿」の上木戸(京方出入口)に当たっているようです。

(14:50)正面には「浅間山」。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その6。(旧中山道をゆく。第8日目)

2016-03-01 20:02:14 | 旧中山道
 上の写真は、「安中市松井田町商工会」の建物。昭和14年(1939)松井田警察署として建てられました。2階建て・切妻・瓦葺・腰壁等石造り、屋根は破風でなかなかどっしりとした趣。

左手の古民家の門前。特定日に「中山道分間延絵図」を公開しているそうです。 

モダンな感じの道標。   
                                          まだまだ先は長い!

 「松井田宿」でけっこう気になったのは、空き地が目立つこと。商店もあまりやっていないようだし、人の通りも車の通りもあまりない。これまでの道中でも見かけた、過疎の町、という印象を持ちましたが。

(15:12)「安中署松井田分庁(松井田警察署)」の手前を左に入る道が旧道。
    
                                           右手には「庚申塔」。 

 その先には藪の中に「一里塚跡」碑。

一里塚跡(江戸より32里目)
 この場所は松井田町大字新堀字漆原一里山といいます。
 明治20年代まではこの中山道をはさんで南側と北側に一里塚がありました。この立て札の南方およそ10メートルに南側の一里塚がその跡をとどめています。

 平成12年2月吉日 松井田町教育委員会

裏手にはその塚跡があるとか、この木の付近? 

(15:20)突き当たりは、JR線の踏切「製紙踏切」。

 旧道はそのまま踏切を渡って進んだらしいですが、現在は途中で道がなくなっているので、線路沿いに歩いて「第十中山道踏切」を渡ります。

左手には特異な山容の「妙義山」。

 若い頃、2,3回「妙義山」に登ったことがあります。表妙義、裏妙義とごつごつした岩肌や切り立った崖があったりし、鎖場があったりして、変化に富んでスリル満点でした。

 「T」字型をした「丁須岩」が印象深く残っています。丁須岩の上に登るのは意外と簡単でしたが、下りは・・・。後に、奥穂高・ジャンダルムの時にその経験が活かされましたが。

 てっぺんにあったその岩はここから見えるだろうか、期待を込めて歩きます。

 踏切を越えた辺りから地元の方とご一緒に。農作業を終えて帰宅中とか。おしゃべりをしながら妙義山を見上げると、てっぺんにT字形の岩が。写真ではまったく分かりませんが。

 左にある「佐藤産業建設」のところを左折し、その先のT字路を右折すると、旧道に復帰します。

振り返って来た道を望む。

(15:35)「国道18号線」との合流の手前に、「石灯籠」。右手におなじみの「道標」。
          

 「中山道」は国道によって分断されるので、いったん「国道18号線」を左に行き、「五科」交差点から「上信越自動車」の橋脚の下に出ると、旧道。

振り返って望む。さっきの道の延長上です。

(15:39)行く先を望む。

庭先に「庚申塔」と「二十三夜塔」。

 このあたりで携帯電話が電池切れになって、むやみに写真を撮れない状態になりました。

 その先を右に入ると、「安中藩板倉伊豫守領分五料村高札場跡」の立て札。

   

 その先の「お東踏切」を渡ると、正面に五料茶屋本陣「お東」・その西側に「お西」が並んでいます。「松井田宿」と「坂元宿」・碓氷関所の中間に位置し、参勤交代の大名・公家等の休憩所として置かれていました。
 両家共に中島姓であった為、お東・お西と呼ばれ、天保7年(1736)から明治5年(1872)までは、1年交代で名主を勤めていました。
 木造二階建ての建物は、共に文化3年(1806)建立で、間口13間・奥行7間の切妻造りで、母屋の規模や平面は同じ。群馬県の史跡に指定されています。

    
   「お東」。                                   「お西」。
妙義山。

 「榎踏切」を渡り、「丸山坂」を上っていきます。坂の頂上付近の左手に「夜泣き地蔵・茶釜石」や石塔があります。
(15:54)  

茶釜石
 この奇石はもと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまここを通った(太田)蜀山人は、この石をたゝいて珍しい音色にさっそく次の狂歌を作ったといいます。
 五料(五両)では あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値うち)をきいて通る旅人と
 この石はたゝくと空の茶釜のような音がするのでその名があります。
 人々はこの石をたゝいてその不思議な音色を懐かしんでいます。
 五科七不思議の一つに数えられています。 

 「夜泣き地蔵」の解説文はありません。

振り返って望む。

のどかな里山道を下って行きます。

 「信越線」にぶつかるので、線路に並行して進みます。右手に「碓氷神社」。その前にある「高墓踏切」を越え、すぐ目の前の横断歩道を渡っての先の高墓踏切で信越本線を渡り、直進して突き当りを右折して進みます。
 「臼井小学校」を過ぎ、庚申塔等の石塔群が祀られている先で、「国道18号と」合流します。

「高崎から27㎞」ポスト。

「小山沢川」を小山沢側道橋で渡り、「小山沢」交差点から斜め左の旧道に入ります。

(16:19)国道に再び合流する手前、右側に「百合若大臣の足痕石」があります。
    
 百合若大臣が足で踏みつぶしたので石がへこんだといわれています。

 百合若は伝説上の人物で平安初期四条左大臣公光の子といい、北九州に多くの話が伝わっている。
 力が相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向こうの山に向け、「よし、あの山の首あたりを射抜いてみよう」と思い付き、満身の力を込めて射放った時、後足を踏ん張ったのがこの石と言われている。
 これを見ていた家来の一人も負けずと、腰にぶら下げていた弁当のむすびを 力一杯放り投げ、山には二つの穴があいた。今でも二つの穴がここから見ると夜空の星のように見え、この山を「星穴岳」と呼ぶようになったと言われる。
 百合若がそのとき使った弓矢が妙義神社奉納されている。

 しばらく「国道18号線」を行き、「下横川」交差点で信越線の踏切を渡り線路の右側を進みます。途中、右側の崖から飲めるような雰囲気の湧き水が流れ出しています。

(16:31)振り返って望む。「横川」発「高崎」行き電車が通過中。

(16:44)そろそろ本日の行程も終了、「峠の釜めし」の「荻野屋」さんを左に曲がれば「横川駅」に到着です。

    
                                             「横川駅」。

 JR「横川」駅は信越線の終着駅。「長野(現北陸)新幹線」の開通で、ここから「碓氷峠」を越えて「軽井沢」に向かう鉄道は、今はもうありません。
                  

久々に「峠の釜めし」を買って来ました。

 群馬八幡駅~板鼻宿~安中宿~松井田宿~横川駅 約28㎞。

 次回は、いよいよ「碓氷峠」を越えて軽井沢入りです。その前に「アプトの道」を歩くことになりそうですが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする