(引き続きネタバレにご注意)
(新たに登場した)サラと二人の男友達(神学生と医学生)は、(かつての婚約者であった)サラとイサク&ジ-グフリドの似姿だろう(サラの女優は一人二役のようである。)。
三人は実に楽しそうで、幸福だったイサクたちの青年時代を象徴しているかのようだ(ちなみに、神学生と医学生は、神の存在に関する議論を戦わせており、さりげなく「神の沈黙」のテーマが現れている。)。
次に道中で出会うのは、口論ばかりする夫婦:アルマンとベーリットである。
これはイサクと亡き妻の似姿と思われるが、この二人が加わって、イサクの車(ロールスロイス)の中はなんと7人になってしまう。
アルマンとベーリットは車中でも口論を続け、怒りの余りベーリットはアルマンをひっぱたく。
なおも喧嘩が続き、耐えられなくなったマリアンは、「降りて下さい」と言って二人を車から追い出してしまう。
次に向かったのはイサクの母(95歳)の家。
母はさんざん親族の悪口を言った後で、「(50歳をむかえる初孫に)パパの金時計を贈りたいの。針が取れたけど、いいかしら?」と針のない古い懐中時計をイサクとマリアンに見せる(「針のない時計」!の再登場。このあたりは、小津監督の東京物語(1953年)のラストシーン(但し、懐中時計の意味はまるで正反対)にヒントを得たのかもしれないし、キューブリック監督のシャイニング(1980年)などに活かされているのかもしれない。ちなみにこの場面で私は心の中で拍手喝采。やはり映画マニアは治らないようだ。)。
このシーンは、イサクが、過去のトラウマからも、迫りくる死からも、どうやっても逃れられないことを暗示しているかのようだ。
車に戻ると、イサクは再び眠りに落ち、今度はやや長い悪夢を見る。
人との付き合いを断って「生涯がむしゃらに働いた」とイサクは自負するものの、これはトラウマから逃れるための「仕事への逃避」だったのかもしれない(冷静に観察していると、こんな風に自分自身の人生から仕事へと逃避してしまう人間が、この世の中には少なからず存在することに誰もが気付くだろう。)。
ところが、案の定と言うべきか、夢の中ではこうした医師・医学者としてのプライドまでもが否定されてしまう。
夢の中に現れたアルマンは医師免許の更新試験(?)の試験官で、「医師としての第一義務」(許しを請うこと)を答えられないイサクに対し、「あなたは有罪です。・・・ごく普通の罰です」と述べて、「孤独」という罰を宣告する。
(新たに登場した)サラと二人の男友達(神学生と医学生)は、(かつての婚約者であった)サラとイサク&ジ-グフリドの似姿だろう(サラの女優は一人二役のようである。)。
三人は実に楽しそうで、幸福だったイサクたちの青年時代を象徴しているかのようだ(ちなみに、神学生と医学生は、神の存在に関する議論を戦わせており、さりげなく「神の沈黙」のテーマが現れている。)。
次に道中で出会うのは、口論ばかりする夫婦:アルマンとベーリットである。
これはイサクと亡き妻の似姿と思われるが、この二人が加わって、イサクの車(ロールスロイス)の中はなんと7人になってしまう。
アルマンとベーリットは車中でも口論を続け、怒りの余りベーリットはアルマンをひっぱたく。
なおも喧嘩が続き、耐えられなくなったマリアンは、「降りて下さい」と言って二人を車から追い出してしまう。
次に向かったのはイサクの母(95歳)の家。
母はさんざん親族の悪口を言った後で、「(50歳をむかえる初孫に)パパの金時計を贈りたいの。針が取れたけど、いいかしら?」と針のない古い懐中時計をイサクとマリアンに見せる(「針のない時計」!の再登場。このあたりは、小津監督の東京物語(1953年)のラストシーン(但し、懐中時計の意味はまるで正反対)にヒントを得たのかもしれないし、キューブリック監督のシャイニング(1980年)などに活かされているのかもしれない。ちなみにこの場面で私は心の中で拍手喝采。やはり映画マニアは治らないようだ。)。
このシーンは、イサクが、過去のトラウマからも、迫りくる死からも、どうやっても逃れられないことを暗示しているかのようだ。
車に戻ると、イサクは再び眠りに落ち、今度はやや長い悪夢を見る。
人との付き合いを断って「生涯がむしゃらに働いた」とイサクは自負するものの、これはトラウマから逃れるための「仕事への逃避」だったのかもしれない(冷静に観察していると、こんな風に自分自身の人生から仕事へと逃避してしまう人間が、この世の中には少なからず存在することに誰もが気付くだろう。)。
ところが、案の定と言うべきか、夢の中ではこうした医師・医学者としてのプライドまでもが否定されてしまう。
夢の中に現れたアルマンは医師免許の更新試験(?)の試験官で、「医師としての第一義務」(許しを請うこと)を答えられないイサクに対し、「あなたは有罪です。・・・ごく普通の罰です」と述べて、「孤独」という罰を宣告する。