Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

虎の子

2021年08月11日 06時30分33秒 | Weblog
東京電力が虎の子「再エネ事業」を一部売却へ、仰天構想が判明【スクープ完全版】
 「東電HDは東電EPに加えて、再生可能エネルギー事業を担う東電リニューアブルパワー(RP)まで一部売却する構想を水面下で議論していることが、ダイヤモンド編集部の取材で分かったのだ。

 東電EPに弱り目にたたり目の業務停止命令、現実味帯びる小売り事業の譲渡では小売り事業の譲渡が取沙汰されていたが、ここにきて、虎の子ともいうべき再生可能エネルギー事業についても一部売却の話が出てきた。
 具体的な内容は明らかではないが、消費者庁から業務停止命令を受けるような違法な営業を行っていたところから見て、相当危機的な状況にあって追い詰められていたであろうことは想像できる。
 それにしても、こんな大企業であっても、独占によるメリットを失うとここまで脆くなるのかと驚いてしまう。
 ほぼ審査なしで銀行から多額の融資を受けることが出来た時代は、昔話になってしまいそうである。
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歌詞の意味(2)

2021年08月10日 06時30分10秒 | Weblog
森進一『襟裳岬』の歌詞をどう解釈すべきか?~冬季に悲しみと訣別し、気持ちを整理するための歌
 「サビの部分は「襟裳の春は 何もない春です」となっている。この歌詞は地元住民の反発を招いたという。「襟裳には何もないわけじゃない。バカにするな」と受けとめたのだ。
この解釈も間違いだと思う。岡本は「襟裳の街は 何もない街です」と書いたわけではない。「襟裳の春は何もない春」と書いたのだ。
ポイントは「春」の文字にある。その前の歌詞も考慮すると、この部分は「冬の間に悲しみを燃やし、気持ちを整理(リセット)した。春になれば、また0から新しい人生が始まる」と解釈できる。つまり、「襟裳の春は精神的に何もない。無の境地になった」という意味だ。「都会に比べて何もない街」なら、わざわざ「春」をつける必要はない。街の姿は1年中、変わらないからだ。

「襟裳岬」三者三様
 「3節
日々の暮らしはいやでも やってくるけど
静かに笑ってしまおう*4
 ・・・*4 この句からは、俗塵にまみれた日々の暮らしも笑い飛ばして生きていこうという
  前向きな主張が感じられます。
   当時、本人に責任のないスキャンダルに巻き込まれていた吉田拓郎と森進一の両人
  を思いやる岡本の心情が表されています。


 歌詞の意味を解釈するのは私の趣味の1つだが、その私から見ても「襟裳岬」は結構な難物である。
 一番しっくりくるのは、作詞した岡本おさみ氏が、旅の経験を基にして、当時スキャンダルに悩まされていた吉田拓郎氏に送ったメッセージという解釈である。
 ニッポン放送での吉田氏の話によると、岡本氏は自分が作った詩を旅先から吉田氏に送っており、森氏のマネージャーから依頼が来る前に既に「焚火」という詩が完成していたそうである。
 確かに、1節の「悲しみ」や「黙りとおした歳月」、3節の「日々の暮らしはいやでも やってくるけど 静かに笑ってしまおう」や「身構えながら 話すなんて ああおくびょう なんだよね」といった言葉は、そのまま吉田に向けられたものと解するとしっくりくる。
 ポイントは、「冬」が人生の試練を象徴しており、それを通り過ぎれば「何もない(わずらわしさもない、穏やかな)春」がやってくるというところだろうか?
 もちろん、唯一の解釈などあるわけがないので、人それぞれの解釈があってよいと思う。
 
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当たりか、外れか?(2)

2021年08月09日 06時30分48秒 | Weblog
閉会式 酷評続く 途中退場する選手も続出 SNSでは「つまんない」急上昇
 「中盤には東京音頭など日本の伝統的な舞踊が披露されたが、海外選手に良さが伝わっていたかは微妙なところ。しびれをきらし、途中退場する選手が続出していた。

 閉会式も見せ場に乏しかったようで、最大公約数的な感想は、おそらく上の記事のとおりだろう。
 私もつまみ食い的にしか観ていないが、「パリ五輪は現地で観たい」という感想しか抱かなかった。
 というわけで、「東京オリンピックは中止になる」という例の予言は、本日をもって外れで確定した。
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姓の廃止(2)

2021年08月08日 06時30分58秒 | Weblog
最高裁大法廷令和3〔2021〕年6月23日決定の紹介と分析
 「三浦意見は、「法律の内容如何によって、氏名について、その人格権の一内容としての意義が失われるものではない」(7頁)とし、宮崎・宇賀反対意見は「この人格的利益は、法律によって創設された権利でも、法制度によって与えられた利益や法制度の反射的利益などというものでもなく、人間としての人格的、自律的な営みによって生ずるものであるから、氏が法制度上自由に選択できず、出生時に法制度上のルールによって決められることは、この人格的利益を否定する理由にはなり得ない」(23~24頁)とする。
 これら2つの見解を組み合わせると、婚姻前の氏を維持する利益は人格的利益として憲法13条の保障を受けるのだから、婚姻に際して氏の変更を強制されない自由を憲法13条によって保障される人格権として構成することが可能になる。


 宮崎・宇賀反対意見が最も説得力があると思うが、それでも隔靴掻痒の感を免れない。
 不思議に感じるのは、各意見とも「あの二人は苗字が同じだから夫婦だな」とか「彼女は苗字が変わったから結婚したんだな」とかいうときの、「同姓であることによる婚姻識別機能」を正面から分析していないところである。
 法廷意見はこの機能に直接言及してはいないものの、問題を国会に投げ返しているところから、要するに、「選択的夫婦別姓にすると第三者から見て夫婦かどうか分かりにくい」という側面を重視しているようである。
 仮にそうだとすると、当事者の権利・利益よりも当事者以外の人間にとっての利便性(公共の福祉?)を優先させていることになってしまい、「憲法13条による保障肯定説」に対しては到底太刀打ちできないだろう。
 なお、ここでは論じられておらず、表立って論じることも難しい問題がある。
 それは、今なお一部の日本人の無意識のレベルに潜んでいる「イエ」(苗字=屋号=事業を同じくする集団)の存続・永続を絶対視する思考を一掃するためには、夫婦の姓をどうするのが望ましいかという問題である。 
 差し当たり、選択的夫婦別姓制度+「姓を名乗らないという選択肢」が望ましいと思うのだが、どうだろう?
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建国の父

2021年08月07日 06時30分29秒 | Weblog
毛沢東のバッジ「今後は選手に付けさせない」…中国五輪委が確約
 「バッジの着用は、IOCが禁じる表彰式での政治的な意思表明にあたる可能性が指摘されていた。

 あるベテラン弁護士に聞いた話では、かつての学生運動の闘士の中には「毛沢東主義」を奉ずる人がいたという。
 多くの人は毛沢東主義の思想の内容は知らないと思うが、毛氏が中国の「建国の父」とされていることは知っているだろう。
 そうすると、バッジの着用は、毛沢東主義というよりは、国粋主義を表明する行為ととられる可能性があるように思われる。
 我が国を顧みると、いわゆる「建国の父」というものが見当たらない。
 神武天皇までさかのぼるという人はごく少数はだろうし、神武天皇の顔を知っている人はおそらくいないから、バッジの作りようがないだろう。
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妻と夫

2021年08月06日 06時30分48秒 | Weblog
LiSA、心身疲労の静養で一部活動休止 7日&8日の福岡ライブ中止
鈴木達央&LiSA 夫婦揃って活動休止 LiSAは心身疲労で静養 不倫報道の鈴木は体調不良

 新婚早々で大変な状況になってしまった。
 多くのメディアは鈴木氏(タツヒサさん)のことを「LiSAの夫」という位置づけで報じている。
 妻が大物なのでこういうことになるのだが、アニメファンはおそらく複雑な心境だろう。
 この件を見ると、多くの声優が結婚している事実をひた隠しにする理由の一つが分かるような気がする。
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質問の作り方

2021年08月05日 06時30分28秒 | Weblog
「死刑賛成派」も知っておくべき「日本の死刑制度」驚きの“ほころび” アメリカとの比較で見えること
 「ご覧のように、「死刑もやむを得ない」が80%を超えており、「廃止すべきである」とした人が9.0%で、「わからない・一概に言えない」と答えたのが10.2%であった。しかし、これが「公平」なアンケートと言えるであろうか。
「死刑は廃止すべきである」と回答する人は絶対的な死刑廃止論者であることが予想されるのとは対照的に、「死刑もやむを得ない」と回答する人は消極的な死刑賛成論者もこの選択肢を選ぶように質問が設定されている。社会調査をする際のルールとしては、対照的な質問項目を用いることが前提であるが、この調査の選択肢はそうなっていない。これでは、将来的に廃止を検討した方がいいと考える人であっても、この問い方では死刑に「賛成」としてカウントされてしまう。


 死刑制度の存廃に関する世論調査が「公平」でないという指摘であるが、その通りだと思う。
 「○○もやむを得ない」という選択肢がある時点で、質問の設定がおかしい。
 記事も指摘するように、「議論を尽くしたうえで廃止の方向に行くべき」という穏健な意見の人が、死刑存置の方にくくられてしまうのである。
 制度を廃止するというのであれば、現行の制度を十分理解して功罪についての議論を尽くすのは当然のことであり、それが十分なされていないことが問題だと思うのだが・・・。
 

 
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アイデンティティ

2021年08月04日 06時30分23秒 | Weblog
「中央大学法学部の男性とマッチングしたんです。初めてお会いしたとき、中央大学と私が言う度に男性から中央大学法学部と訂正されるやりとりが3回発生したのですが私何か気分を害する発言をしてしまったのでしょうか…?」

 これは法曹界あるあるの一つだろう。
 「中央大学」ではなく、「中央大学法学部」でアイデンティティが形成されているのである。
 法学部以外の学部の人は、こういう話を聞くとどういう気持ちになるのだろうか?
 ちなみに、会社の元同僚によると、東大にも似たような人がいて、同じクラスの経済学部の人とは基本的に口を利かない法学部生がいたそうである。
 こうなると、殆ど宗教じみた感じがしてくる。
 ところで、横浜弁護士会は神奈川県弁護士会に改称したが、金沢弁護士会が石川県弁護士会に改称するのはいつだろうか?
 このままだと、金沢市以外の弁護士事務所が可哀想な気がするのだが・・・。
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最も怯えていること

2021年08月03日 06時30分07秒 | Weblog
習近平中国の本音、米中実務者会談で分かった最も怯えていること
 「結局、中国共産党政権は、中国という国の「発展」よりも、中国の「主権と領土の保全」よりも、自分たちの体制維持を最も重要視していることがこれでよく分かるが、その一方、中国共産党政権は実は、自分たちの一党独裁体制はアメリカによって転覆されることを非常に恐れていることも分かった。
 つまり中国は、表向きではアメリカに対して超強硬姿勢をとり、米国務副長官を迎え撃つような威圧的な態度に出ているが、内心ではむしろ、アメリカが中国共産党の支配体制を転覆するような行動に出ることを何よりも怯えていて、アメリカに対しては、「われわれの制度を破壊しないよう」と暗に嘆願しているのである。


 この論者は、中国共産党は、自らの存続を至上命題と考えており、アメリカの覇権に対抗することはその手段に過ぎないと示唆している。
 それはその通りで、歴史を紐解いても、軍事力だけで覇権を手に入れることは無理であり、いわゆるソフト・パワーを兼ね備えている必要があるが、中国にそれがあるとは思えない。
 なので、覇権主義は見せかけに過ぎないという指摘は一理あるだろう。
 他方、近年のアメリカの対中政策が変わってきているらしいことは、洞窟からの脱出でも指摘したが、ウイグル問題などを積極的に取り上げることは、この政策の一環と思われる。
 だが、組織の存続を至上命題にしているからこそ、人権侵害が生じるわけだから、この種の問題が収まる見込みはなさそうである。
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群居本能(5)

2021年08月02日 06時30分21秒 | Weblog
なぜ期待の“最速トリオ”は男子100m予選で惨敗したのか…重圧と見誤った世界のレベル
 「男子100mは日本選手権を勝ち抜くのが熾烈だっただけに、代表権を獲得して、気持ちのうえで安堵してしまった部分はあっただろう。そして無観客開催となったことも日本勢にとってはマイナスに作用した。
 サッカーはアウェーチームよりもホームチームの方が圧倒的に有利だ。陸上も似たような部分がある。2017年ロンドン世界選手権では7万人もの大観衆がスタジアムを埋め尽くすと、地元・英国の選手が大活躍した。選手紹介では大きな拍手が起こり、スタジアムは熱気に満ちていた。非日常的な空間が特に自国のアスリートたちの力を引き出していたように思う。


 競泳もそうだが、有力選手がアッサリ敗退するのを観ていて、これらの選手にとって無観客開催が不利に作用しているのではないかと思うようになった。
 上の記事が指摘するように、ホーム開催のメリットは、自国民の大きな拍手・応援・歓声などで非日常的な雰囲気が醸し出されることによって、選手の潜在能力がフルに引き出されるところにあるように思う。
 つまり、アスリートを群居本能がアシストするわけである。
 対して、無観客開催だと、こうしたメリットは全くない。
 だから、多くの人に観られることをプレーの原動力としているタイプの選手は、力を発揮できないのではないだろうか?
 ここで思い出したのは、第二次大戦時の「千人針」のエピソードである。

昭和史 1926-1945 半藤 一利 著
 「八路軍は見ていたんですね。「日本軍隊的政治特性」という極秘文書が残っていまして、その中で、千人針こそが日本軍隊の懦怯性ー臆病で意志の弱いことーの表れだと指摘しています。・・・
 ・・・精神的に強いようだが、本当は臆病で意志がからっきし弱いことの証拠であって、あの連中は死を恐れていてそんなに強くはないんだ、と鋭い観察で見越していたようです。
」(p203)

 「集団では力を発揮するが、単独では力を発揮できない」というメンタリティ―は、どうやら伝統的なもののようである。
 千人針のようなもので、メンタル面の補強を行う必要があるのかもしれない。
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