Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

傑作の欠点

2022年03月21日 06時30分38秒 | Weblog
オペラ『椿姫』開幕に寄せて(大野和士芸術監督メッセージ)
 「素晴らしい音楽家、アンドリー・ユルケヴィチさんと私は古くからの友人です。・・・
 彼のご家族はウクライナから少し離れたモルドバ共和国にいらっしゃるので、毎日連絡をとりながらも、一旦劇場に入ればリハーサルに集中されている彼の姿に、私たちもどんなに勇気づけられたことでしょうか。
 その姿に、劇場のすべての人々も彼の思いを受け止め、ヴェルディの音楽を通して、芸術の力で困難な状況に陥っているすべての方々に心からの祈りを捧げたいと誓い合いました。


 オケはもちろん、特にアルフレード&ジェルモン父子が完璧で、大満足の公演であった(ヴィオレッタはまずまずだが、前半やや高音が出にくかったという印象)。
 こういう傑作は何回も見るべきだが、そのうちに”あら”もよく見えてくる。
 「椿姫」について言えば、ジョン・ノイマイヤー氏の指摘が正鵠を射ている。

 「私はオペラと演劇は圧縮し過ぎていると思います。むしろ幕と幕の間に起こる出来事のほうが重要だと言っても過言ではないでしょう。そしてもっともインパクトのあるシーンは、小説にしかない、アルマンとオランプの関わり合いで、そこでは、男性は、自分の気持ちと正反対のことをしてしまううほど愛に傷つくことがある、ということが見てとれるのです。別の女性を愛することで、ただただ自分自身を傷つけたいのです。アルマンが新しい恋人をつくって屈辱を受けたマルグリットが、もう一度アルマンのところに赴く信じられない場面。マルグリットはやって来て言います。「お願い、そののようなことはしないで」と。彼らは再度、狂気のような愛を交わします。その後マルグリットがアルマンのもとを去ります。ヴェルディがこの心打たれる状況に曲をつけなかったことは、私にはまったく理解できないことです。」(ハンブルク・バレエ団公演プログラムより)

 確かに、このくだりがないと、アルフレードがヴィオレッタと和解した理由がよく分からなくなる。
 こういう観点からすると、2幕のジェルモン&ヴィオレッタのくだりが必要以上に長すぎることが分かる。
 ここを半分くらいに圧縮すれば、アルマン&オランプという「復讐」と、そこにヴィオレッタが割って入るシーンを挿入することが出来るはずだ。

椿姫 デュマ・フィス 永田千奈 訳
 「アルマン、あなたには申し訳ないことだけど、今日は二つ、お願いがあって来ました。ひとつめは、私が昨日オランプ嬢に言ったことについてお許しを請うこと。もうひとつは、これ以上、私をいじめるのはおよしになってほしいということ。・・・ねえ、心ある人なら、私のようなかわいそうな病人に復讐するよりももっとほかに大事なことがあるはずよ。ね、私の手をおとりになって。ほら、熱があるの。それでもベッドから起き上がってここまで来たのは、あなたと仲直りするのは無理でも、せめて放っておいてくださいとお願いするためなんです」(p379)

 原作を読むと、これは極めて感動的なシーンであるばかりか、むしろこの小説の”肝”といってもよい。 
 この「自己破壊からの救済」という筋書きは、スラムダンクで言うならば、三井寿の「安西先生、バスケがしたいです」に相当するのではないだろうか(ちょっと違うか?)。
 ヴェルディは、実にもったいないことをしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな大統領たち

2022年03月20日 06時30分51秒 | Weblog
 言葉を暴力として使う方法の例:
素材】目の前で社長にサインをさせるプーチン閣下【おそロシア】
プーチン氏が幹部に“踏み絵” 「賛成か反対か」突きつけ...
Full Metal Jacket - Gunnery Sergeant Hartman

 運動部の経験者やサラリーマン、あるいはモラハラ傾向の人物を配偶者に持つ人であれば、必ずこれに似た場面に遭遇したことがあるはずだ。
 こうした場面において、言葉は、コミュニケーションの手段ではなく、一種の暴力として用いられている。
 その目的は、ハートマン軍曹の例が一番分かりやすいが、相手を自分に従属させ、さらには洗脳してしまうことである。
 ちなみに、私の見る限り、多くの日本企業は、こういう場面に遭遇した際に「穏便に受け流す」人材を求めてきたように思う。
 だが、それが正しいかどうかは、何とも言えない。
 ロシアでは、そういう人たちが、プーチン氏をここまで増長させたのかもしれないから。
 いずれにせよ、(軍隊のような特殊な社会は別として)ふだんの生活において言葉遣いは非常に重要であり、言葉を暴力として用いるたぐいの人間(小さな大統領たち)を何らかの手段で抑制していくことが求められる。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大統領の異常な愛情(2)

2022年03月19日 06時30分16秒 | Weblog
プーチンの陰湿な性格を垣間見る、宿敵・メルケルを陥れた“侮辱的な嫌がらせ”「プーチンはにやにやとしたサディスティックな笑みを浮かべて…」
 「メルケルは1995年8月、コール内閣で環境相を務めているころ、ベルリン郊外の自宅近くで自転車に乗っていたところを隣人の犬に襲われて膝を嚙まれ、それ以来、犬を怖がるようになった。メルケルは自転車に乗るのをやめたし、犬から遠ざかるようになった。だが、その情報はいつしかプーチンの知るところとなった。・・・
 会談終了に際して、プーチンはメルケルにプレゼントを渡した。プーチンが用意したプレゼントは、黒と白のぶち犬のぬいぐるみだった。そのときのメルケルの反応は伝えられていないが、あたかも不気味な「犯行予告」を受け取ったかのようにぎょっとなったかもしれない。


 「わざと相手の嫌がることをする」という傾向は、サイコパスを疑わせるものがある。
 こうしたサイコパス的な傾向と、「他者に向けての自我の拡張」(大統領の異常な愛情)、すなわち自己愛性人格障害に基づく行動とが相俟って、国家のレベルで発現されたのが、今回の戦争ではないかと思う。
 強すぎる自己愛のためか、「ロシアのない世界に関心はない」と言い切ってしまうほど彼の自我は拡張され、「ロシア」と一体化してしまっている。
 いっそのこと「世界」と一体化してくれたらよかったのだが・・・。
(もっとも、そうなると、自分の意に沿わない世界中のあらゆる国を攻撃してしまうのかもしれない。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台所からキッチンへ(25)

2022年03月18日 06時30分49秒 | Weblog
(映画「誰も知らない」のネタバレにご注意)
『山の音』こわれゆく家族 理想の教室 著者:ジョルジョ・アミトラーノ
 「『父ありき』とはまったく対極にある家族が、『誰も知らない』という映画には描かれています。・・・実際に起こった事件にもとづいた映画で、母親と暮らすそれぞれ父親のちがう四人の兄妹の話です。
 ある日、母親はわずかな現金を残しただけで、十二歳の息子にきょうだいを預け、新しい恋人と暮らすために家を出ます。お金はしだいに底をつき、食べ物もなくなり、頼れるはずの大人の世話も何も得られず、電気も切られます。すこしずつ子どもたちは堕落してゆき、ついに妹のひとりは死んでしまいます。逃避した母親の責任を肩代わりするのは、その十二歳の息子ですが、それは英雄と言えるほどの行動であっても、社会構造のうえではいかなる制度にも属することを許されず育てられた十二歳の少年の力には限界があり、どんなに優しくて寛大でも、家庭を救えないのです。『誰も知らない』という映画のタイトルが暗示するように、責任を取らないのは母親だけではなく、社会のすべての成員です。後者の映画で描かれた世界では、誰もが誰もを知っている社会に属していた三世代家族は消滅しているのです。
」(p89)

 ジョルジョ氏が指摘するように、人間は「優しさ」だけでは生きていけない。
 では、それ以外に何が必要だろうか?
 「誰も知らない」、あるいは「西巣鴨子供置き去り事件」が示唆するのは、まず、最低限、公共空間へのアクセスが保障されている必要があるということである。
 四人の子供たちは、出生届が提出されていない「無戸籍児」であり、公的には存在しないものとされている。
 (それどころか、当初、長男以外の子らは家の外に出ることすら親から禁じられていた。)
 もちろん、当然には保険医療などを受けることが出来ない。
 なので、映画の中の末妹は、病院で治療を受けることなく死んでしまった。
 こうした事態を避けるため、例えば、「親を代替する公的な仕組み」が必要ということになる。
 もっとも、この種の制度(児童福祉施設など)は既に存在していて、ただ、それにもかかわらず救済されない子供たちが生じてしまった点が問題なのである。
(ちなみに、私はまだ本格的な児童虐待の事案を扱ったことはないが、高齢者虐待の事案は結構な数を扱っており、その経験から言うと、包括支援センターはかなり積極的に介入している印象で、良い仕事をしていると思う。)
 また、これも当たり前のことだが、最低限の物的な基盤(資源)、特に水(下水を含む)と食料が確保されている必要がある。
 子供たちの家には「キッチン」があったけれども、空っぽの「キッチン」では生きていけなかった。
 この問題については、映画の中でいろいろヒントが出ている。
 例えば、公園で水を汲んだり用を足したりするとか、コンビニの廃棄弁当をもらうなどといったアイデアが出ている。
 わが国では、至るところで水や食料が無駄に使われたり廃棄されたりしている(日本人は毎日、水を使いすぎている!?食品ロスの現状を知る)。
 こうした水や食料を活用すれば、飢え死にする人(現実の子供たちは栄養失調に陥っていた)など出てこないのではないだろうか(結局のところ、富の再分配が十分でないからこそ、こうした生活資源の無駄が発生しているのだろう。)
 是枝監督は、「キッチン」から「公園とコンビニ」への道程を示しているのかもしれない。
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台所からキッチンへ(24)

2022年03月17日 06時30分48秒 | Weblog
 「キッチン」という小説は、「強い父」はいなくとも、「キッチン」(及び冷蔵庫などの家電製品)と「優しさ」があれば、人間は生きていけることを示した。
 だが、現実の世界は、小説よりもずっと厳しく、それだけで生きていくのは難しい。
 「キッチン」が発行された1988年(昭和63年)、みかげや雄一と同じように、父を失った子供たちの悲劇が起こっていた。
 いわゆる「巣鴨子供置き去り事件」であり、この事件をモチーフにして、是枝裕和監督が映画「誰も知らない」をつくったことは余りにも有名である。
 
巣鴨子ども置き去り事件から30年『誰も知らない』状態で育つ「無戸籍児」の苦悩
 「この事件は、父親が蒸発後、4人の子どもたちを育てていた母親が、恋人と暮らすために幼い兄弟の世話を長男に任せ、家を出たことから始まる。
 母親は生活費として毎月数万円を送金し、時折様子を見に来ていたが、それも途絶えがちになった中で、子どもたちだけで暮らしていることを知ったアパートの大家が警察に通報。調査の中で、2歳の三女が14歳の長男の友だちに折檻(せっかん)されて死亡。遺体は雑木林に捨てられていたことが発覚し、アパートからはこの妹以外にも生まれて間もなく亡くなった子どもが白骨化して発見された、という心痛ましい事件である。
 さらに衝撃だったのは2歳から14歳の兄弟たちは、いずれも出生届が出されていなく「無戸籍」だった、ということだ。


 「無戸籍児」という言葉から、私は、世に生まれ出たものの、宗門改帳に記載される前に亡くなり、あるいは殺された江戸時代の乳幼児のことを思い出した。
 現代の日本では、戸籍(+住民登録)のない人間は、殆どあらゆる国・自治体からの給付を受けることが出来ないのだから、存在しない(誰も知らない)も同然である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台所からキッチンへ(23)

2022年03月16日 06時30分35秒 | Weblog
(引き続きネタバレご注意)
 「母を失った双子のきょうだい(みかげと雄一)」がどうやって生きていくのかを描くのは、23歳のばなな氏にとっては荷が重い仕事だったようだ。
 えり子さんが死んでからのストーリー展開は、明らかにだれてしまっている。
 ちょっともったいないところだが、みかげと雄一が「結ばれない」というポイントだけはきちんと押さえてある。

 「二人の気持ちは死に囲まれた闇の中で、ゆるやかなカーブをぴったり寄り添ってまわっているところだった。しかし、ここを越した別々の道に別れ始めてしまう。今、ここを過ぎてしまえば、二人は今度こそ永遠のフレンドになる。」(p123)

 この二人、いわば「きょうだい神」は、イザナギとイザナミというよりは、ジークムントとジークリンデに近い(『ワルキューレ』あらすじと解説(ワーグナー))。
 もっとも、この二人が「国を生む」ことはないし、ジークフリートのような英雄の親になることもない。
 そんなことをすれば、「部族形成神話」、つまり「大いなる父の物語」になってしまう。
 この小説は、あくまで「部族解体」の物語でなければならないのである。
 だが、人間は、もちろん「優しさ」だけで生きていくことは出来ない。
 
 「「うまいものたくさん食べた?」
 「うん、さしみでしょ、えびでしょ、いのししの肉でしょ、今日はフランス料理。少し太っちゃった。あ、そういえば私、わさび漬とうなぎパイとお茶のぎっしり入った箱を宅急便で私の部屋へ送ったのよね。取りに行ってくれてもいいわよ。」
 「どうして、えびやさしみじゃないんだよ。」
 と雄一が言い、
 「送りようがないからよ。」
 と私は笑って言った。
 「よし、明日駅まで迎えに行ってやるから、買って手で持ってきな。何時に着くって?」
 雄一は明るく言った。
」(p141~142)
 
 英雄は一人もおらず、世界が創造されることもないこの小説の世界には、「血と土」の代わりに、「食べ物とキッチン」があった。
 このエンディングは、(ここに至る過程は違うけれども)筒井康隆先生の「聖痕」を彷彿とさせる。
 人間は、最低限、食い物があれば生きていけるのだ。


 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台所からキッチンへ(22)

2022年03月15日 06時30分01秒 | Weblog
(引き続きネタバレご注意)
 「秋の終わり、えり子さんが死んだ。
 気の狂った男につけまわされて、殺されたのだ。
」(p65)

 「優しさの共同体」での幸せは、えり子さんの死というショッキングな出来事によって突然崩壊する。
 いかにも唐突な印象を受けるが、実は必然の展開だった。
 「竜馬がゆく」における竜馬の行動原理が「だって竜馬なんだもの」としか説明出来ないのと同様に、この展開は、「だってみかげなんだもの」としか説明のしようがない。
 というのは、「アンチ英雄譚」という基本構造からして、exploit (功績)を得て姫や名声を獲得する英雄とは反対に、みかげとその双子のきょうだいとも言うべき雄一は、次々と自分のものを失っていく運命にあるからだ。
 
 「打ちのめされた彼をみつめて「どうも私たちのまわりは。」私の口をついて出たのはそんな言葉だった。「いつも死でいっぱいね。私の両親、おじいちゃん、おばあちゃん・・・・・・雄一を生んだお母さん、その上、えり子さんなんて、すごいね。宇宙広しといえどもこんな二人はいないわね。私たちが仲がいいのは偶然としたらすごいわね。・・・・・・死ぬわ、死ぬわ。」」(p72~73)

 ここでみかげは、キッチンに立ち戻ると同時に、彼女の不健全な側面が再び顔を出す。

 「どうして私はこんなにも台所関係を愛しているのだろう、不思議だ。魂の記憶に刻まれた遠いあこがれのように愛しい。ここに立つとすべてが振り出しに戻り、なにかが戻ってくる。」(p79~80)

 またしても彼女の「胎内回帰志向」が蘇る。
 さらにそこを遡って、「生前(=死後)の世界」への「遠いあこがれ」まで出てきてしまった。
 これは分かりやすい希死念慮である。
 危ないことこの上ない。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台所からキッチンへ(21)

2022年03月14日 06時30分35秒 | Weblog
(引き続きネタバレご注意)
 「「のんちゃんが死んじゃった時、雄一はごはんものどを通らなかったのよ。だから、あなたのことも人ごととは思えないのね。男女の愛かどうかは保証できないけど。」
 くすくすお母さんは笑った。

 「そう。」お母さんらしいほほえみで彼女は言った。「情緒もめちゃくちゃだし、人間関係にも妙にクールでね、いろいろとちゃんとしてないけど・・・・・・やさしい子にしたくてね、そこだけは必死に育てたの。あの子は、やさしい子なのよ。・・・あなたもやさしい子ね。」(p28~29)

 当時の社会(ないし世界)が渇望してやまなかった「強い父」という偶像に対して、ばなな氏は、「優しい母」(ないし「優しさ」という徳)をぶつけた。
 ここで、この小説のテーマ=「人間社会の始原への回帰」が明らかとなった。
 人間を生み出すのは母であり、人間界におけるもっとも基本的な社会(共同体)は、母と子の二人によって構成される。
 そして、人間を育むのは、母の「優しさ」である。
(このあたりは、谷崎潤一郎の世界とも通じているところ。)
 これほど当時の社会(ないし世界)に対する強烈なプロテストは、なかなか見当たらない。
 ところで、ここで注意しなければならないのは、みかげと雄一の間には「男女の愛」が成立しないということである。
 仮に二人が男女として結ばれるならば、それこそ「コバルト文庫」(実は全く読んだことがないけれど)の世界だし、シンデレラ譚ひいては英雄譚になって、テーマが崩壊してしまう。
 この小説において、(母の)「優しさ」は、(男女の)「愛」(ないし恋愛感情)とは両立しないのである。
 みかげと雄一は、むしろ、えり子さんの間に生まれた二卵性双生児のようにも見え、二人の間には、何かしらインセスト・タブーのような空気すら漂う。
(その意味で、香港で映画化された「我愛厨房」は、原作の完全な誤読だろう。)
 だが、この「母の愛」=「優しさ」で包まれた社会(共同体)の幸福は、長続きしなかった。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台所からキッチンへ(20)

2022年03月13日 06時30分46秒 | Weblog
(引き続きネタバレご注意)
 さらに milieu を見ていくと、「キッチン」という空間を埋めるのは、冷蔵庫を筆頭とする家電製品である。
 祖母が亡くなって、みかげが天涯孤独の身になった時のこと。

 「葬式がすんでから三日は、ぼうっとしていた。
 涙があんまり出ない飽和した悲しみにともなう、柔らかな眠気をそっとひきずっていって、しんと光る台所にふとんを敷いた。ライナスのように毛布にくるまって眠る。冷蔵庫のぶーんという音が、私を孤独な思考から守った。そこでは、結構安らかに長い夜が行き、朝が来てくれた。
」(p10)

 ここでも「キッチン」と「冷蔵庫」が登場する。
 これは、単にみかげの「胎内回帰志向」をあらわしているだけではない。
 「家電製品」(無機物・無生物)と「眠り」(死)というカップリングからは、「無機物への回帰志向」、要するに(穏やかな)「死の欲動」もあらわれている。
 やはり、みかげは健全な女の子ではないのである。
 また、ここでは、「ぼうっと」「そっと」「しんと」「ぶーんと」という風に、オノマトペが連発されている点が注目される。
 こうしたくだりは、おそらくばなな氏にとっての勝負どころでなので、じゅうぶん注意して読む必要があるだろう。
 これに対し、田辺家の家の中の様子は、ちょっと違う。
 
 「まず、台所へ続く居間にどかんとある巨大なソファに目がいった。その広い台所の食器棚を背にして、テーブルを置くでもなく、じゅうたんを敷くでもなくそれはあった。ベージュの布張りで、CMに出てきそうな、家族みんなですわってTVを観そうな、横に日本で飼えないくらい大きな犬がいそうな、本当に立派なソファだった。
 ベランダが見える大きな窓の前には、まるでジャングルのようにたくさんの植物群が鉢やらプランターやらに植わって並んでいて、家中よく見ると花だらけだった。いたる所にある様々な花びんに季節の花々が飾られていた。
」(p15)

 田辺家においては、まず家の中がやたらと広く、オープンな印象を与える。
 もちろんキッチンは重要だが、リビングとその中央を占めるソファ、さらに、家じゅうを満たしている「花」も重要な要素としてmilieu を構成している。
 みかげと違って、田辺家は、胎内への回帰よりも、オープンな空間、そこにおける生活、そして「花」(有機物・生物)、つまり生を志向しているのである。
(ちなみに、雄一は、花屋でアルバイトをしていたフェミニンな男子学生として描かれているが、この設定の狙いは既に指摘したとおり。)
 そして、みかげは、次第に田辺家の milieu を愛するようになっていく。

 「私は初めのうち、そのオープンな生活場所に眠るのに慣れなかったり、少しずつ荷物を片づけようと、もとの部屋と田辺家を行ったり来たりするのに疲れたけれど、すぐなじんだ。
 その台所と同じくらいに、田辺家のソファを私は愛した。そこでは眠りが味わえた。草花の呼吸を聞いて、カーテンの向こうの夜景を感じながら、いつもすっと眠れた。
」(p32)

 少し健全になったみかげは、果たして、母の胎内から外の世界へと生まれ出ることが出来たのだろうか?
 結婚して台所から巣立っていった、「台所太平記」の女中たちのように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台所からキッチンへ(19)

2022年03月12日 06時30分05秒 | Weblog
(引き続きネタバレご注意)
キッチン 吉本ばなな/著
 「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。・・・
 私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。
 本当に疲れ果てた時、私はよくうっとりと思う。いつか死ぬ時がきたら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、誰かがいてあたたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所なら、いいなと思う。
 
 田辺家に拾われる前は、毎日台所で眠っていた。
 どこにいてもなんだか寝苦しいので、部屋からどんどん楽なほうへと流れていったら、冷蔵庫のわきがいちばんよく眠れることに、ある夜明け気づいた。
」(p9~10)

 登場人物とストーリー(あるいはプロット)が小説の骨格であるとすれば、milieu(ミリュー 。「物語環境」とでも訳しておく)は小説の血と肉であり、多くの小説家がこれに心血を注ぐ。
 「神は細部に宿る」からである。
 余談だが、milieu を浮かび上がらせるために全精力でディテールを描写する小説の例を見たいと思うのであれば、「ユリシーズ」や「魔の山」を読んでみるとよい。
 但し、このレベルまで来ると、ディテールの描写がくどすぎて、読むのをやめてしまう読者も多いのではないだろうか?
 それに比べると、ばなな氏による milieu の構築は、読者に非常に親切である。
 milieu の中心は、冒頭から明らかなとおり、「キッチン」である(もっとも、「キッチン」(p61でやっと登場?)より「台所」という言葉が多く出てくる。これは「台所太平記」へのオマージュなのだろうか?)。
 そして、「キッチン」は、上に引用した短い文章からも分かるとおり、「胎内(子宮)」と「棺」という二重の意味を持っている。
 何もないキッチンに置かれた(80年代の)冷蔵庫から響く「ジー」という機械的な持続音は、母親の体内を流れる血液の音を示しているかもしれない。
 私は、この小説のテーマは「人間社会の始原への回帰」であると解釈するのだが、この小説が成功した最大の理由は、milieu がテーマと完璧に調和していることだと思う。

 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする