オペラ『椿姫』開幕に寄せて(大野和士芸術監督メッセージ)
「素晴らしい音楽家、アンドリー・ユルケヴィチさんと私は古くからの友人です。・・・
彼のご家族はウクライナから少し離れたモルドバ共和国にいらっしゃるので、毎日連絡をとりながらも、一旦劇場に入ればリハーサルに集中されている彼の姿に、私たちもどんなに勇気づけられたことでしょうか。
その姿に、劇場のすべての人々も彼の思いを受け止め、ヴェルディの音楽を通して、芸術の力で困難な状況に陥っているすべての方々に心からの祈りを捧げたいと誓い合いました。」
オケはもちろん、特にアルフレード&ジェルモン父子が完璧で、大満足の公演であった(ヴィオレッタはまずまずだが、前半やや高音が出にくかったという印象)。
こういう傑作は何回も見るべきだが、そのうちに”あら”もよく見えてくる。
「椿姫」について言えば、ジョン・ノイマイヤー氏の指摘が正鵠を射ている。
「私はオペラと演劇は圧縮し過ぎていると思います。むしろ幕と幕の間に起こる出来事のほうが重要だと言っても過言ではないでしょう。そしてもっともインパクトのあるシーンは、小説にしかない、アルマンとオランプの関わり合いで、そこでは、男性は、自分の気持ちと正反対のことをしてしまううほど愛に傷つくことがある、ということが見てとれるのです。別の女性を愛することで、ただただ自分自身を傷つけたいのです。アルマンが新しい恋人をつくって屈辱を受けたマルグリットが、もう一度アルマンのところに赴く信じられない場面。マルグリットはやって来て言います。「お願い、そののようなことはしないで」と。彼らは再度、狂気のような愛を交わします。その後マルグリットがアルマンのもとを去ります。ヴェルディがこの心打たれる状況に曲をつけなかったことは、私にはまったく理解できないことです。」(ハンブルク・バレエ団公演プログラムより)
確かに、このくだりがないと、アルフレードがヴィオレッタと和解した理由がよく分からなくなる。
こういう観点からすると、2幕のジェルモン&ヴィオレッタのくだりが必要以上に長すぎることが分かる。
ここを半分くらいに圧縮すれば、アルマン&オランプという「復讐」と、そこにヴィオレッタが割って入るシーンを挿入することが出来るはずだ。
椿姫 デュマ・フィス 永田千奈 訳
「アルマン、あなたには申し訳ないことだけど、今日は二つ、お願いがあって来ました。ひとつめは、私が昨日オランプ嬢に言ったことについてお許しを請うこと。もうひとつは、これ以上、私をいじめるのはおよしになってほしいということ。・・・ねえ、心ある人なら、私のようなかわいそうな病人に復讐するよりももっとほかに大事なことがあるはずよ。ね、私の手をおとりになって。ほら、熱があるの。それでもベッドから起き上がってここまで来たのは、あなたと仲直りするのは無理でも、せめて放っておいてくださいとお願いするためなんです」(p379)
原作を読むと、これは極めて感動的なシーンであるばかりか、むしろこの小説の”肝”といってもよい。
この「自己破壊からの救済」という筋書きは、スラムダンクで言うならば、三井寿の「安西先生、バスケがしたいです」に相当するのではないだろうか(ちょっと違うか?)。
ヴェルディは、実にもったいないことをしている。
「素晴らしい音楽家、アンドリー・ユルケヴィチさんと私は古くからの友人です。・・・
彼のご家族はウクライナから少し離れたモルドバ共和国にいらっしゃるので、毎日連絡をとりながらも、一旦劇場に入ればリハーサルに集中されている彼の姿に、私たちもどんなに勇気づけられたことでしょうか。
その姿に、劇場のすべての人々も彼の思いを受け止め、ヴェルディの音楽を通して、芸術の力で困難な状況に陥っているすべての方々に心からの祈りを捧げたいと誓い合いました。」
オケはもちろん、特にアルフレード&ジェルモン父子が完璧で、大満足の公演であった(ヴィオレッタはまずまずだが、前半やや高音が出にくかったという印象)。
こういう傑作は何回も見るべきだが、そのうちに”あら”もよく見えてくる。
「椿姫」について言えば、ジョン・ノイマイヤー氏の指摘が正鵠を射ている。
「私はオペラと演劇は圧縮し過ぎていると思います。むしろ幕と幕の間に起こる出来事のほうが重要だと言っても過言ではないでしょう。そしてもっともインパクトのあるシーンは、小説にしかない、アルマンとオランプの関わり合いで、そこでは、男性は、自分の気持ちと正反対のことをしてしまううほど愛に傷つくことがある、ということが見てとれるのです。別の女性を愛することで、ただただ自分自身を傷つけたいのです。アルマンが新しい恋人をつくって屈辱を受けたマルグリットが、もう一度アルマンのところに赴く信じられない場面。マルグリットはやって来て言います。「お願い、そののようなことはしないで」と。彼らは再度、狂気のような愛を交わします。その後マルグリットがアルマンのもとを去ります。ヴェルディがこの心打たれる状況に曲をつけなかったことは、私にはまったく理解できないことです。」(ハンブルク・バレエ団公演プログラムより)
確かに、このくだりがないと、アルフレードがヴィオレッタと和解した理由がよく分からなくなる。
こういう観点からすると、2幕のジェルモン&ヴィオレッタのくだりが必要以上に長すぎることが分かる。
ここを半分くらいに圧縮すれば、アルマン&オランプという「復讐」と、そこにヴィオレッタが割って入るシーンを挿入することが出来るはずだ。
椿姫 デュマ・フィス 永田千奈 訳
「アルマン、あなたには申し訳ないことだけど、今日は二つ、お願いがあって来ました。ひとつめは、私が昨日オランプ嬢に言ったことについてお許しを請うこと。もうひとつは、これ以上、私をいじめるのはおよしになってほしいということ。・・・ねえ、心ある人なら、私のようなかわいそうな病人に復讐するよりももっとほかに大事なことがあるはずよ。ね、私の手をおとりになって。ほら、熱があるの。それでもベッドから起き上がってここまで来たのは、あなたと仲直りするのは無理でも、せめて放っておいてくださいとお願いするためなんです」(p379)
原作を読むと、これは極めて感動的なシーンであるばかりか、むしろこの小説の”肝”といってもよい。
この「自己破壊からの救済」という筋書きは、スラムダンクで言うならば、三井寿の「安西先生、バスケがしたいです」に相当するのではないだろうか(ちょっと違うか?)。
ヴェルディは、実にもったいないことをしている。