Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

台所からキッチンへ(18)

2022年03月11日 06時30分57秒 | Weblog
(引き続きネタバレご注意)
 もっとも、「疑似家族」という表現は、余り正確ではない。
 この、「母と息子の関係性に、外からなんの変哲もない少女(みかげ)が入ってくる」という物語の構造は、「父(王)と娘(姫)の関係性に、外からexploit (功績)を挙げた男(英雄)が入ってくる」という英雄譚(あるいは部族形成神話)の基本構造とは真逆である。
 念のため言うと、この小説は、「シンデレラの条件」(そのうちの④:花嫁テストと⑤:結婚成立、そしてハッピーエンド)を欠くため、シンデレラ譚とも異なる(みかげには特に exploit (功績)も取柄もなく、ごく普通の女の子として描かれている。)。
 また、ここに至って、リアルな「男」を描かなかったばなな氏の意図が明らかになる。
 おそらく、ばなな氏は、当時の社会(ないし世界)に対する(無意識的かもしれない)プロテストとして、アンチ英雄譚(アンチ「竜馬がゆく」=司馬遼太郎)の小説を書いたのである。
 ばなな氏は、テストステロンの充満する社会に対するアンチテーゼとして、「24時間戦わない女の子」を提示した。
 その究極の目的は、私見では、後述するように、「人間社会の始原(母、その胎内(子宮))への回帰」にあったと思われる。
 さて、この小説の内部には、「アンチ英雄譚」という物語の構造において、既に社会(ないし世界)が反転した形で映り込んでいる。
 また、社会(ないし世界)は、もっと分かりやすく、「肉親(両親、祖父母)の死」と「イエ」の喪失、さらに「えり子さんを殺害する男」(p65)という形(後者について言えば擬人化された形)でも侵入してくる。
 これらが暴力的な社会(ないし世界)を象徴しているのはもちろんだが、同時に、伝統的な「イエ」が崩壊する一方で、その諸要素が「カイシャ」に転写され、吸収され尽くしてしまったことを示唆しているのかもしれない。
 何しろ、今や「強い父」は家の中にはおらず、「カイシャ」の「企業戦士」として24時間戦っているのだから。
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台所からキッチンへ(17)

2022年03月10日 06時30分46秒 | Weblog
 「キッチン」が刊行された1988年当時、国外では「資源獲得競争」が、国内では「バブル戦争」が繰り広げられていた。
 何しろ、テレビをつければ、牛若丸三郎太(時任三郎)が「24時間戦えますか」と叫んでいた、テストステロン横溢・マチスモ全開の時代である。

(以下、ネタバレご注意)
 当時ばなな氏は23歳くらいで、社会経験もなさそうだから、このような当時の「社会」(ないし世界)を正確に描けるはずがないし、さらに言うと、リアルな「男」を描くことも出来てはいない。
 だが、ばなな氏は、自身のシャーマン的な直観力によって、「社会」(ないし世界)を、(抽象的にではあるが)「すべてを奪い破壊してしまう暴力的な力」として、物語世界の内部に「映り込ませる」あるいは「侵入させる」ことに成功しており、読み進むうちにそのことが分かってくる。
 さて、この小説の登場人物は極めて少なく、みなそれなりに裕福そうで(少なくとも貧困に苦しんではおらず)、生活スタイルはブルジョワ的である。
 なので、ちょっと読むと「フランソワーズ・サガンの再来か?」と錯覚してしまいそうである。
 だが、この小説は、サガンの諸作品とはおよそ対照的である。
 すなわち、「男」を細密に描く一方で「社会」(ないし世界)をまるで描かないサガンとは逆に、ばなな氏は、リアルな「男」を描かない(排除する)一方で、「社会」(ないし世界)を物語世界内に反映・侵入させているのである。
 主人公の桜井みかげは、幼いころ両親を亡くして祖父母に育てられたが、中学校へ上がる前に祖父が死に、つい最近祖母も死んでしまった(p9)。
 みかげは、天涯孤独の、「イエ」を喪失した少女である(少女小説の永遠のテーマ:「死」、「孤独」)。
(このあたりは、「台所太平記」に出てくる女中たちと似ている。)
 そこにあらわれたのが、長い手足を持った・きれいな顔立ちの優しい青年:田辺雄一である(p11~)。
 雄一は、花屋でアルバイトをしているときにみかげの祖母と知り合ったらしく、住む家をなくそうとしているみかげを家に誘う。
 ふるまいや口調が優しいこの青年は、なぜかみかげに「ひとりで生きている感じ」を与える。
 雄一のマンションに行くと、しばらくして、えり子さんという雄一の「母親」が仕事から戻ってきた。
 ところが、えり子さんは、もともと雄一の父親(本名は「雄司」)だったのが、雄一の母親が亡くなったのをきっかけに、「女性」になったのである(p21)。
 つまり、みかげの「イエ」のみならず雄一の「イエ」も、当主・戸主=父親の不在によって崩壊しており、そのため雄一は「ひとりで生きている」ように見えたのだ。
 そしてストーリーは、まずみかげが、「えり子」ー「雄一」という「母子」の関係性に入り込むという形で展開していく(少女小説の永遠のテーマ:「疑似家族」)。
 
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台所からキッチンへ(16)

2022年03月09日 06時30分10秒 | Weblog
百年の誤読 岡野 宏文 著 , 豊崎 由美 著
豊﨑:「涙がぽたぽた」と表現しないための、日本近代文学百年の苦労が、ばなな一人の出現で水の泡。でも、そういう紋切り型の表現を使って逆に新鮮味を出す文体は、少女マンガやコバルト系の小説の中ではすでに存在してたんですよ。ところが、おじさん評論家は少女文化に疎いもんだから、コロリとばななにやられちゃった。免疫がないって怖いですねー(笑)。・・・
岡野:この人の出現によって、世の中の文化現象や人々のメンタリティなど、ずいぶんいろんなことが動いたって記憶があるよ。で、春樹のエピゴーネンが出たみたいに、その後、ばななじみた小説もいっぱい出てきたじゃない。それこそティーンズ小説のレベルでさ。
豊崎:ただ、初期作品にある「疑似家族」「死」「孤独」みたいなモチーフは、実は大昔から存在する少女小説の典型的なパターンのなぞりになってて、当時のばななもその系譜の中の一人にすぎないとも思うんですけど。


 1989年(平成元年)のベストセラー「TUGUMI」に関する岡野・豊﨑コンビの批評だが、「キッチン」に関する批評としても読める。
(但し、私が持っている「百年の誤読」初版(2004年11月5日ぴあ株式会社から発行)の帯には、「あらすじだけでわかると思うな!」と書かれている。)
 さて、確かに、ばなな作品には、「涙がぽたぽた」といった類の擬声語(オノマトペ)が、(頻出するのではなくて)ここぞという勝負所で出てくる印象がある。
 ことばは、第一義的には音声であり、その原初形態はオノマトペだったのだから、この手法は、ことばの始原に戻るという意味があるのかもしれない。
 ばなな氏は、ことばを呪文として用いるシャーマンのような存在,、いわば文学界における「平成の卑弥呼」だったのかもしれない。
(そういえば、「台所太平記」に出てくる女中たちも、どこかシャーマン的な要素を兼ね備えていたような気がする。)
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台所からキッチンへ(15)

2022年03月08日 06時30分03秒 | Weblog
 70年代から80年代の動きについても、架空の高校をモデルにして考えると分かりやすいと思う。

 「昭和42年(1972年)、例の乱闘事件以来交流が途絶えていたお隣の「チャイナ学園」との交流が復活した。
 チャイナ学園は、生徒たちが多数の「カイシャ」と呼ばれるグループに分かれていた日本高校とは違い、全生徒を「党」という一つの組織が束ねていて(また、みんなが「偉大な父」を称えていて)、生徒数も日本高校の10倍近くいた。
 チャイナ学園にも「富国」科と「強兵」科があったが、この頃は「強兵」科はあまり目立たない一方で、「富国」科には勢いがあり、次第に全世界に勢力を広げていった。
 日本高校も世界に経済活動を展開していたが、「ノーキョー」のような振る舞いがあちこちで顰蹙を買ったため(現実と向かい合うための避難所としての読書‐青春の一冊 筒井康隆「農協月へ行く」‐)、昭和60年(1985年)理事長サイドから、「これからは学内での活動を中心にして、余り外部の人たちに迷惑をかけないようにしなさい」という指導(プラザ合意)がなされ、日本高校は、当面はインターハイなどへの出場を控え、学内の活動に専念することになった。
 対外活動の制限により予算が余った日本高校は、「富国」科の中に「不動産」専科や「株」専科などを新設し、生徒たちは学内で「土地転がし」や株式投資による「財テク」などのゲームに明け暮れるようになった。
 その間もチャイナ学園の勢いは止まらず、GNPコンクールでは日本高校と肩を並べそうなレベルにまで達していた。
 他方、日本高校は、大松先生は退職し、かつての志げのような生徒も少なくなった。
 それどころか、入学する生徒数も減少に転じ、クラブ活動を引退した高学年の生徒の方が多くなって、かつての勢いはなくなってきた。
 それでも生徒たちは、日夜学内でゲームに明け暮れ、その様子は「バブル」と呼ばれるようになった。


 うんと単純化してあるが、おおむねこんな感じだったと思う。
 さて、日本が「バブル」に浮かれている間、世界では何が起こっていたか?
 「自由貿易」や「グローバリゼーション」と言えば聞こえは良いが、端的に言えば、「資源獲得競争」が起きていたと思われる。
 例えば、中国の一次エネルギー消費量の推移を見るとよい(中国エネルギー関連データ)。
 データによれば、1980年から2006年にかけて、中国の石油消費量は4倍以上に激増している。
 ちなみに、日本の石油輸入供給量は、上記2時点間で比べると、ほぼ同じである(【第213-1-2】国産と輸入原油供給量の推移)。
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台所からキッチンへ(14)

2022年03月07日 06時30分27秒 | Weblog
デフレの正体 経済は「人口の波」で動く 著者 藻谷 浩介
 「60-65年には団塊世代が十五歳を超え、さらに急速な生産年齢人口増加が起きます。ですが彼らは戦前生まれに比べ高校進学率も高かったので、就業者数の増加のピークは数年遅れ、65-70年にやってきました。これが当時の「いざなぎ景気」の主要因となります。「生産年齢人口の波」の上げ潮時に特有の「人口ボーナス」を最大限に受け取れたのが、この時期でした。
 ・・・実際の60年代は、卒業して社会人になっていく学生の数が空前に多い時代でした。・・・ですが彼らの圧倒的多数は、若いエネルギーを燃やし何とか職を見つけて食べていこうと努力し、・・・どこかに何かの職場(非正規雇用含む)を見つけることができたのです。そのため日本の経済社会は、需要と供給が共に拡大するトラックに入っていきました。その結果として「景気」が良くなり、さらに雇用が増えたわけです。つまり、雇用の増減の原因は景気ではなくて、生産年齢人口の増減そのものだったわけです。
」(p120~121)

 この「藻谷説」には批判も多いし、「ベストセラーに良書なし」の格言(?)によれば、このベストセラーにも問題がないわけではない。
 だが、60~70年代の経済社会の状況の説明として、相当な説得力を有していることは確かだと思う。
 また、80年代はどのような動きがあったかがこれまた難しい問題で、バブルの発生とその後の崩壊のメカニズムについて言えば、「藻谷説」だけで説明するのは難しいだろう。
 ここはやはり、国外の動きにも注目すべきところで、「自由貿易」や「グローバリゼーション」の名の下に、「産業空洞化」「賃金低下」「雇用喪失」「格差拡大」が生じたのはなぜかを考えてみる必要がある。
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台所からキッチンへ(13)

2022年03月06日 06時30分32秒 | Weblog
 これに対し、戦争直後に生まれた世代、ざっくり言うといわゆる団塊世代は、戦前・戦中世代のような民族的トラウマを負っているわけではないが、これも結構複雑なようだ。 
 まず、家庭、学校、職場において、何らかの形で「観念上の軍事化」の影響を受けた層が出現していたと思われる(ちなみに、スーツを着た首狩り族で取り上げた私の元上司の父親は、海軍出身だった。)。
 ちなみに、「巨人の星」の星一徹は、1919年又は1920年生まれということなので、大松監督と同様に軍隊経験があり、南方戦線に赴いたという設定らしい。
 そうでなければ、「血の汗流せ、涙を拭くな」という言葉は出てこないだろう。
 次に、親の世代に対する反動として、「反権力」志向の層が出現したことは、おそらく異論を見ないと思う。
 問題は、いずれの層についても、(もちろん例外も多いが)全般的な傾向としてよく指摘されるのは、集団思考・集団志向が極めて強いということである。

60代「団塊世代」はなぜこんなに嫌われたのか 「付き合いにくい」理由が今、明らかに!
 「次に、団塊世代の特徴として重要なのは、ほかの世代より圧倒的に勝る「数の多さ」です。その「同世代の人間の数の多さ」こそ、団塊世代の特徴を形成してきた最たる要素ではないかと、私は考えています。
 団塊世代は人数が多く、厳しい受験戦争があり、当時は「4当5落」と言われました。「4時間睡眠なら大学に合格するけど、5時間睡眠では落ちる」と言われたほどです。
 生まれた人数が飛び抜けて多いため、何事につけても激しく競争してきました。
 「つねに隣人や周囲から後れを取ってはいけない」という環境の下で育った結果、強い競争意識と闘争心を身に付けざるをえなかったのです。


 言うまでもないが、「競争志向」は究極の集団志向にほかならない。
 「強い父」復権志向と「競争志向」が、経済の分野でシンクロしてしまった!?
 
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台所からキッチンへ(12)

2022年03月05日 06時30分57秒 | Weblog
 60年代と70年代という時代は、余りに多くの出来事が起こったために、おそらく歴史家にとっても分析が難しい時代の部類に入るだろう。
 また、「日本株式会社」や、そこにおける「企業戦士」や「モーレツ社員」の発生メカニズムも、決して単純なものではないだろう。
 だが、第二次大戦を経験した世代、つまり「民族的トラウマ」を抱えた世代を、個人のレべルに置き換えて考えるならば、アンナ・フロイトが言うところの「衝動目的の昇華、あるいは置き換え」という説明がしっくり来るように思う。

自我と防衛
 「しかし、この少年の場合は、自我の能力をスポーツの面で制限するだけで万事がかたづいたのではなかった。彼はスポーツをやめたとき、突然に全く別の能力を発揮した。文学に対して以前からもっていた趣味、作文をつくる趣味を発展させた。彼はよく私に詩を読んできかせた。その詩のいくつかは、彼自身が創作したものであった。彼がやっと7歳にすぎなかった頃に書いた短篇の物語を私のところにもってきた。そして、小説家として生活しようという計画をも企てていたのである。フットボール選手は小説家に変わった。
 ・・・わずかの時日に、一種の合理化によって、意識的な価値評価が不安によって影響されるさまを観察することは意義の深いことである。この頃の彼の文学的成果にはたしかに、驚くべきものがあった。スポーツをやめたとき、彼の自我の機能には空白が生じたも同然であったが、この空白は文学の面で多くの創作をつくりだしてうめられた。
」(p125)

 この少年は、フットボールが得意だったのだが、ボールに対する(妄想的な)不安と恐怖のためにフットボールをやめざるを得なくなり、その代わり、詩や小説の創作に没頭するようになった。
 この少年の姿は、敗戦によるトラウマと自我の空白を克服すべく、一致団結して経済活動に邁進していた頃の日本人とよく似ている。
 しかも、彼ら/彼女ら(の一部)は、「強い父」の復権を求めていたのである。
 
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台所からキッチンへ(11)

2022年03月04日 06時30分32秒 | Weblog
百年の誤読 岡野 宏文 著 , 豊崎 由美 著 ”展開がスピーディ、『竜馬がゆく』”
豊崎:そうそう、小学生が読んでも楽しい小説ですからね。ただ、読まれ方っていうのは、『徳川家康』と同じ現代投影型だと思うんです。藩の意識を超え、さらには国の意識をも超えて雄飛する壮大な構想を抱いた竜馬に、我が身を重ねる高度成長期の日本のサラリーマンみたいな。
岡野:学生運動している連中なんかも読んだんだろうね。竜馬の自由奔放さに憧れてさ。だって、黒船を一人で、<生けどり>に行こうとするんだぜ。
豊崎:奔放すぎ(笑)。
岡野:そういう竜馬の生きかたなり、行動なり、その根底にある美学や思想みたいなものは、少なくとも第一巻ではあまり明らかにしてないんだよね。じゃあ、どうして竜馬はそういう行為を選んだのかというと、「だって竜馬なんだもの」、そんな書き方になってる。そこが今のベストセラーと一脈通じるところだと思ったんだけど。
豊崎:たしかに、竜馬は生まれつき魂の中に備わった”天の意志”みたいなものに突き動かされて疾走してるってイメージを、司馬さんは最初から提示してますからね。
岡野:なんせ、背中にたてがみが生えてる男だから(笑)。


 昭和43年(1968年)のベストセラーは、司馬遼太郎「竜馬がゆく」である。
 問題は、この小説の内容というよりも、その読まれ方である。
 加藤周一氏のような論者は、これが「モーレツ社員」のエートスとして機能したことを指摘している(愛情なき辛口)。
(断っておくと、私は司馬氏の小説は決して嫌いではないし、この種の系譜に属しない司馬氏の小説もある。)
 岡野・豊崎コンビが指摘する通り、多くの司馬作品には確かにそういった側面があり、司馬先生には気の毒だが、「読むテストステロン」として誤読(誤用)されてしまったという気がする。
 ちなみに、昭和50年(1975年)のベストセラーも司馬氏の「播磨灘物語」(私は未読)であり、かなり長期にわたって誤読(誤用)が続いてきたのではないかと思われる。

 
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台所からキッチンへ(10)

2022年03月03日 06時30分01秒 | Weblog
 統治権をフェアアイニゲン( vereinigen (総攬・統合))する主体を失い、また「富国強兵」のうち「強兵」を禁じられ、いわば車のハンドルと両輪のうちの1つを失った国民が、その後どのような道を辿ったかについて、分かりやすくするため次のような架空の高校を考えてみた。
 ちょっとだけ「魁!!クロマティ高校」に似ているかもしれない。

 「『大日本帝国高校』は、文武両道で有名な新興の進学校である。
 この高校には、「富国」(勉強)科と「強兵」(運動)科という2つのコースがあり、みんなから「父」として敬われる校長先生の指導のもと、生徒たちは日夜勉強とスポーツに励んでいた。
 ところが、あるとき、「強兵」科の生徒たちが「アメリカ高校」を中心とする高校連合との間で大規模な乱闘事件を起こしたため、「大日本帝国高校」は一時休校を余儀なくされ、校長先生も責任をとって職務を停止した。
 その後再開した高校には、「アメリカ高校」の経営母体から新しい理事長が送り込まれ、校名も「アメリカ大学付属日本高校」へと改称された。
 校長先生は復職したものの、実権は理事長が握っており、校長は事実上の名誉職とされた。
 高校の再開と同時に「強兵」科は廃止され、元「強兵」科の生徒たちも含め全員が「富国」科に所属して、一生懸命勉強(経済活動)に励むこととなった。
 「強兵」科出身の大松先生は母校で教鞭をとることとなり、スパルタ式の指導で有名となったが、同世代の父兄からの信頼は厚く、生徒たちからも父親のように敬われた。
 その大松先生の一番弟子は、志げという優等生で、元「強兵」科の生徒たちと一緒に寝る間も惜しんで勉強(経済活動)に専念し、全世界の高校が参加するGNPコンクールで2位に入賞するなど、高校の名誉挽回のため大活躍した。
 この功績により志げは生徒会長に就任したが、他校の生徒たちは、命を削って勉強する志げたちのことを「エコノミック・アニマル」などと呼んで蔑むようになった。
 また、学内にも、志げたちのことを「モーレツ社員」、「企業戦士」、「実業紀原始人」、「スーツを着た首狩り族」などと批判する人が出てきたが、そういう人たちはごく少数に留まっており、目立った動きをしようものなら志げたちのグループからからイジメを受けた。
 ところで、志げは、もちろん大松先生を心から尊敬していたが、もう一人尊敬する先生があった。
 それは、司馬遼太郎先生である。
 司馬先生の授業は、1科目を受けるだけで日本史と現代文の2科目の単位を取れるというので、生徒たちに人気だったのだ。」

 
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台所からキッチンへ(9)

2022年03月02日 06時30分45秒 | Weblog
 こういう風に見てくると、戦前戦中の「軍事化」の亡霊は、戦後もかなりの力を保っていたということが出来そうだ。
 これを仮に、「『強い父』復権志向」と名付けてみる。
 他方、この志向とは別に、一見すると無関係に見えるようだが、実際には密接な関係にあるもう一つの志向が出現していた。
 そのことは、「東京物語」(昭和28年(1953年))を観ればすぐ分かる。
 私の見る限り、このことを示す象徴的な場面は2つある。
 一つは、老夫婦が泊まった熱海の旅館で、若い宿泊客たちが夜通しで麻雀をするため、老夫婦が余りの騒がしさに宿から逃げ出してしまう場面。
 もう一つは、亡き母の棺を囲む子供たちのやり取りの場面。

東京物語
志 げ・・・「でも何だわねえ-
 そう言っちゃ悪いけど どっちかって言えば お父さん先のほうがよかったわ ねえ」
と 言う志げ。
幸 一・・・「ウム」
志 げ・・・「これで京子でもお嫁に行ったら お 父さん一人じゃやっかいよ」
幸 一・・・「ウーム まァね え」
志 げ・・・「お母さんだったら東京へ来てもらっ たって どうにだってなるけど
 ねえ京子 お母さんの夏帯あったわね? ネズミのさ-
 露芝の……」
京 子・・・「ええ」
志 げ・・・「あれあたし 形見にほしいの
 いい? 兄さん」
幸 一・・・「ああ いいだ ろ」
志 げ・・・「それからね-
 こまかいかすりの上布 あれまだある?」
京 子・・・「あります」
志 げ・・・「あれも欲しいの しまってあるとこ  わかってる?」
京 子・・・「ええ」
志 げ・・・「出しといてよ」
京 子・・・「ええ」


 母の遺体を囲んだ(京子を除く)3人の子供たちは、形見分けの話に興じながらご飯をおかわりし、「仕事があるから早く帰らなきゃ」などと話している。
 小津監督は、夜通し麻雀に興じる若者たちと同様に、この3人の子供たち(特に杉村春子の演じる「志げ」)を批判的に描いている。
 彼ら/彼女らの共通点は、自身の生活(仕事と娯楽)への没頭・あくなき執着である。
 この思考・行動を仮に「生活(力)至上主義」と名付けてみる。
 この「生活(力)至上主義」が、「『強い父』復権志向」とは車の両輪と言うべき関係にあるのだからなんとも怖ろしい。
(ちなみに、私が父=大松監督、母=「志げ」という家庭に生まれていたとしたら、おそらく幼いうちに家出していたと思う。)
 

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