他人を支配したがる人たち ―― 身近にいる「マニピュレーター」の脅威 ジョージ・サイモン 著 /秋山勝 訳
「フロイト派の古典的人格理論は、きわめて抑圧的な時代意識を背景にして発展してきた。
「あれのことは夢のなかでも考えてはいけない」」
この理論が誕生した十九世紀ビクトリア朝時代の雰囲気をひと言で表すのならこんな感じになるだろう。そのような時代だっただけに、神経症がいかにはびこっていたかは容易に想像がつくはずだ。」
「専門医のなかには、攻撃性全般や潜在的攻撃行動に対する知見を深め、こうした情況に対応できるようになるために、古典的人格理論という先入観を克服していかなければならない者がいる。それは療法士も例外ではないだろう。いかなる攻撃性もそれ自体を問題と考えず、攻撃性の背後になんらかの障害や不安感、無意識の恐れを抱えているのではないかと、攻撃性をある種の兆候としてとらえてはいないだろうか。これでは、患者は”葛藤”を抱えているという仮定に目を奪われ、問題を引き起こしている元凶の攻撃性の存在を見落としてしまうことになる。」(p34~35)
なんだか、精神疾患における「生来性犯罪者」の発想のようだが、それなりに説得力がある。
サイモン氏によれば、「心の暴力」の源泉は「攻撃性」であり、「攻撃性」は、
「人間が日々の生活でなにごとかを成しとげるために費やす力、エネルギーに満ちたその力」
と定義される(p21~22)。
もっとも、ここで多くの人が「おや?」と思うはずである。
さんざんフロイトを批判しているけれど、彼のいう「攻撃性」は、広義のリビドーの一種ではないか?
「フロイト派の古典的人格理論は、きわめて抑圧的な時代意識を背景にして発展してきた。
「あれのことは夢のなかでも考えてはいけない」」
この理論が誕生した十九世紀ビクトリア朝時代の雰囲気をひと言で表すのならこんな感じになるだろう。そのような時代だっただけに、神経症がいかにはびこっていたかは容易に想像がつくはずだ。」
「専門医のなかには、攻撃性全般や潜在的攻撃行動に対する知見を深め、こうした情況に対応できるようになるために、古典的人格理論という先入観を克服していかなければならない者がいる。それは療法士も例外ではないだろう。いかなる攻撃性もそれ自体を問題と考えず、攻撃性の背後になんらかの障害や不安感、無意識の恐れを抱えているのではないかと、攻撃性をある種の兆候としてとらえてはいないだろうか。これでは、患者は”葛藤”を抱えているという仮定に目を奪われ、問題を引き起こしている元凶の攻撃性の存在を見落としてしまうことになる。」(p34~35)
なんだか、精神疾患における「生来性犯罪者」の発想のようだが、それなりに説得力がある。
サイモン氏によれば、「心の暴力」の源泉は「攻撃性」であり、「攻撃性」は、
「人間が日々の生活でなにごとかを成しとげるために費やす力、エネルギーに満ちたその力」
と定義される(p21~22)。
もっとも、ここで多くの人が「おや?」と思うはずである。
さんざんフロイトを批判しているけれど、彼のいう「攻撃性」は、広義のリビドーの一種ではないか?