Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

25年前(5)

2022年12月11日 06時30分41秒 | Weblog
 映画版「失楽園」に行く前に、1997年の日本国内の主な出来事を振り返ってみたい。
 以下、ウィキペディア「1997年の日本」から、政治・経済面と芸能面にフォーカスして抽出してみた。

  1月10日 “聖輝のカップル”と呼ばれた歌手の松田聖子と俳優の神田正輝が離婚。長女の親権は松田が持つことに。
  1月29日  オレンジ共済組合事件で友部達夫参議院議員を逮捕。
  3月11日 警視庁、大手食品メーカーの味の素の総務課長が総会屋に現金を渡した容疑で逮捕。その後、東芝や日立製作所、三菱自動車工業など     の大手企業が総会屋へ利益供与をしていたことが判明。
  4月 1日 消費税増税実施(3%から5%に)。
  4月25日  日産生命保険が債務超過により大蔵省から業務停止命令を受け破綻。戦後初の保険会社の破綻となった。
  6月11日 参議院で日本銀行法全面改正案が可決成立。日本の失われた20年の有力な一因となる。
  9月18日  小売業のヤオハンが倒産、会社更生法を申請する。
  9月22日  X JAPAN、解散を発表。
 10月14日  京都共栄銀行が経営破綻。
 10月20日 大手百貨店の松坂屋の取締役が総会屋に商品券を提供し、不正な利益供与を受けていたとして逮捕。
 11月 2日 フジテレビ『ダウンタウンのごっつええ感じ』が、松本人志と局側とのトラブルが原因で終了。
 11月 3日  三洋証券破綻。証券会社の倒産は戦後初。
 11月17日  北海道拓殖銀行破綻。都市銀行の倒産は戦後初。
 11月22日  山一證券破綻。戦後の証券会社の倒産としては過去最大。
 11月26日  徳陽シティ銀行(宮城県)破綻。
 12月20日  伊丹十三(俳優、映画監督)が、事務所のビルから飛び降り自殺。
 12月23日 丸荘証券が自己破産申請。
 12月27日 新進党が両院議員総会で解党を決定。
 12月31日 X JAPAN、東京ドームにて「THE LAST LIVE〜最後の夜〜」を行う。


 “聖輝のカップル”の離婚で明け、X JAPANの解散コンサートで暮れた1997年という年を一言であらわすと、文句なく”破綻”、言い換えれば、”信用崩壊”ということになるだろう。
(ついでに言うと、消費税増税や日銀法改正は、まさしく最悪のタイミングであった。)
 また、銀行・証券・保険業界を含む大企業と反社会的勢力との間の「持ちつ持たれつ」の関係が、かつてないほど世間一般に明るみになった点も重要である。
 ”破綻”したのは、芸能界・政界の人間関係だけでなく、日本の信用システム全体だったわけであり、しかも、それは当然の帰結だった。
 1997年は、「Japanの信用が崩壊した年」だったのである。
 その一方で、前に指摘したように、1997年は、「日本人の生命力がピークに達した年」でもあった。
 1997年の日本の姿は、なんと、「幸せの絶頂で死にたい」と切望していた「失楽園」の凛子とダブって見えてしまうのである。
 
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25年前(4)

2022年12月10日 06時30分55秒 | Weblog
「失楽園」不倫関係の純愛を描いた小説【あらすじ・感想】
 「失楽園は閑職の久木祥一郎が書道家の松原凛子と不倫関係になり、最終的には心中を選んでしまう内容の小説です。」
 「凛子は性行為の絶頂の中で、死にたいという願望を持っています。久木はまだこの世に未練があるようでしたが、魔将の女に死の淵に引き寄せられてしまいます。
 作者の渡辺淳一は、阿部定事件を元にしてこの小説を書いたと話しています。


 読んでいない本について語るのは気がひけるのだが、岡野・豊﨑両氏のコメントと、上に引用した感想文を読んだ時点で、私は、もうこの小説を読む必要はないように感じた。
 要するにこれは、「仕事も家庭も失った中年男女のエロスとタナトス」を描いた小説なのだ。
 この種の「死によって成就される愛」というテーマについて、わが国には、古事記以来の長い伝統がある。
 その嚆矢は、軽太子・軽大郎女の物語(『古事記』をよむ軽太子・軽大郎女の物語)であり、加藤周一氏は、これが「曾根崎心中」にまで脈々と流れてきたようだと指摘する。
 ジュンちゃんは、この伝統を踏まえながらも、わざわざ最も美しくないシチュエーションを選んで、愛欲ドロドロの小説に仕立て上げたのである。
 これが、当時の人々に大いに受けたという事実は、当時の社会全体が大きな問題を抱えていたことを窺わせるものと言える。
 実際、当時の社会には、大きな動きがあらわれようとしていた。
 自殺者の急増である。
 「自殺者数の推移」を見ると、1997年を境に、自殺者数が急増しているのである。
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25年前(3)

2022年12月09日 06時30分37秒 | Weblog
 「25年前の人々の意識を探ることによって、現在の私たちが抱える問題を明らかにする」という作業は、歴史家に近い視点を要求するだろう。
 ここでは、「25年前の人々の意識」へのアプローチが問題となるわけだが、これが容易ではない。
 横山氏は、テレビのお笑い番組、つまりサブカルチャーに着目した。
 それを受けて、私は、まず人口動態や経済データ(つまり生活全般)をざっと見たわけである(もちろん、こうしたデータが本当に当時の人々の意識と関連しているのかどうかという難しい問題はあるが、それはひとまず措く。)。
 次に、カルチャーの世界に目を転じてみる。 
 1997年のベストセラーの筆頭に挙がるのは、「失楽園」である。
 原作は日経新聞に連載された小説であるが、当時、若いOLまでもがこの小説目当てに日経新聞を買って読んでいたという。
 事実、「失楽園」(する)は1997年の新語・流行語大賞を受賞しており、このことからも、本作が社会に大きなインパクトを与えたことが分かるだろう。

百年の誤読 岡野 宏文 著 , 豊崎 由美 著
 岡野「あのね、文学のひとつの極北が現実逃避にあるとするなら、わたくしども皺ちゃくれたオジサン族にとって、これは望みうる最高の傑作ですね。窓ぎわに追いやられ、金も暇もあるというか金と暇しかない主人公の前に、美形で体がエッチで、頭が空白の女が出現。浅はか~な蘊蓄に尊敬と賛嘆を寄せつつ、「あなたのSEXは最高」と言いなり放題。もう天国です。読むのやめられません!
 豊﨑「ジュンちゃんはセックスのテクニックを美女から絶賛される主人公・久木に自らを投影して、自分を褒めたたえているにすぎないんですよ。たぶん。作品世界と自我の間に完結したウロボロスの輪を作り上げてる。問題は、その輪の中に入って楽しめるかどうか、同じ中年男性として、自己陶酔の妄想の中に入れば楽しめる、そういう小説なんですよねえ。」(p341~345。但し、ぴあ㈱による初版のページ番号)

 バブル崩壊=楽園喪失後の敗残サラリーマンにとっての”ジュンちゃん”(渡辺淳一氏)は、なんだか、かつての「モーレツ社員」にとっての司馬遼太郎氏と似ている(愛情なき辛口)。
 どちらも、「現実逃避」(これが「労働の再生産」にとって有用となる)の目的で消費される商品としてのエンタメ小説作家という点で共通しているからである。
 もっとも、「社会」(あるいは「日本」)という大きな舞台が存在していた司馬遼太郎作品とは違って、「失楽園」に大きな舞台は存在せず、それから阻害された中年男女の、密室(ホテル等)における「カイシャと家庭からの逃避」をテーマとしている。
 しかも、岡野・豊﨑両氏によれば、多くのサラリーマンやOLは、それを、(密室ではない)通勤電車という、「カイシャでも家庭でもない空間」の中で味わっていたのである。
 
 
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25年前(2)

2022年12月08日 06時30分21秒 | Weblog
横山「今現在「無感覚に受け入れていること、見えないようになっていること」を描きたいので、主人公の三桑は僕の年齢に近い世代の設定にしました。二十五年前というと、まさに僕が大学生の頃です、当時を振り返ると、誰かを揶揄して笑いを取るテレビの番組などを観て、一緒に笑っていたかもしれません。言葉をそのまま無自覚に使って誰かを傷つけていたのではないか。

 25年前というと、1997年である。
 1997年(平成9年)のテレビを振り返ってみると、当時人気のあったお笑い番組の筆頭に「とんねるずのみなさんのおかげでした(フジテレビ)」が挙げられる。
 これは、横山氏が指摘する「誰かを揶揄して笑いを取るテレビ番組」の典型例である。
 もちろん、とんねるずや番組制作者だけが問題なのではなく、それを「無感覚に受け入れ」てしまう一般市民の意識が問題なのだ。
 この問題は余りにも深刻なので、いくつかの角度から少しずつ光を当ててみることにする。
 まず、人口ピラミッド(日本の人口ピラミッドの変化)を見ると、1990年代は、いわゆる「団塊の世代」が労働力人口の頂点に位置しており、この人たちが当時の社会をリードしていたのではないかと推測される(私の記憶でも、当時は「団塊の世代」が一般企業の管理職クラスを占めていた。)。
 なので、この人たちの全体的な思考・行動をよく分析する必要があるということになるだろう。
 次に、日本人全体の経済活動を見ると、1997年はわが国の歴史において記念すべき年であることが分かる。

デフレの正体 経済は「人口の波」で動く 著者 藻谷 浩介
 「おもしろいところでは財務省の統計にある国内の酒類販売量が、02年度から落ち込み続けています。・・・ビール類だけであれば97年度からです。・・・日本人の一日一人あたりの蛋白質や脂肪の摂取量も、厚生労働省の統計によれば95-97年あたりをピークに落ち込み始めました。・・・さらには日本人一人当たりの水道使用量。これは97年度がピークだそうです。」(p57~58)

 おおざっぱに言うと、1997年という年は、「日本人が史上最もたくさん飲食した年」であり、いわば「日本人全体の生命力がピークに達した年」なのである。

 
 
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25年前(1)

2022年12月07日 06時30分35秒 | Weblog
“過去と現在を旅して”、横山拓也×大澤遊「夜明けの寄り鯨」開幕
 「新国立劇場の2022 / 2023シーズンにラインナップされている「夜明けの寄り鯨」は、日本の劇作家の新作に焦点を当てた【未来につなぐもの】シリーズの第2弾。作劇を横山拓也、演出を大澤遊が手がける本作では、和歌山県の港町を舞台に、25年前に傷付けたかもしれない男性の面影を追う、とある女性の物語が描かれる。
 「横山は「演出家・大澤遊さんが、すごく面白いものを作りましたよ。自分の戯曲でこんな感覚になった舞台ははじめてです」と大澤を絶賛。一方の大澤は「ふとしたことがキッカケで急に過去が蘇り、心がざわつくことがあります。まさに登場人物の三桑もそうで、皆さんもご一緒にそんな過去と現在を旅してもらえたら嬉しいです」とコメントした。

 公演パンフレットには、
 「和歌山県の港町。手書きの地図を手に女性が訪れる。その地図は25年前、大学の同級生が作った旅のしおりの1ページ。彼女は昔自分が傷つけたかもしれない、その同級生の面影を追って旅に出たのだ。地元のサーファーの青年が一緒に彼を探すことを提案する。
とあるが、隠れた主役は「鯨」である。
 題名になっている「寄り鯨」とは、死んだり弱ったりして海岸に漂着した鯨のことを指す。
 理由は分かっていないが、地震、ソナーによる誘引、はたまた個体数を調節するための集団自殺などが挙げられている。
 誰しも、過去の(抑圧されていた)出来事や人物などの記憶が、「寄り鯨」のように突如現在の生活に立ち現れて、対応に苦しむことがあるだろう。
 主人公の女性にとっては、しおりを作った同級生がまさしくそうであり、彼は25年前に旅先で行方不明になったのである。
 彼女を含む同級生たちは、しばらくは彼を探したものの、翌日には東京に戻ってしまい、結局彼は行方不明者として処理された。
 同級生たちは、その彼のことを忘れたフリをして、日常を送ってきたのである。
 この種の、「解決不可能な問題などを意図的に「行方不明」化する」ことは、フロイトであれば「抑圧の一種」と説明するかもしれない。
 これは、いわば生きるための知恵であり、私たちが日常的に行っていることである。
 例えば、本作にも出て来る例を挙げると、
・クジラショーを観て感動した後に、クジラの刺身や竜田揚げなどを食べる。
・ふだん小鳥を可愛がっている人が、チキンを食べる。
・地元の漁民たちは、ほかの魚を獲るだけでも生活できるのに、「日本の文化だ」と強調して捕鯨を正当化する。
・クジラの保護を訴える動物愛護団体のメンバーが、牛肉を食べる。
などなど。
 人間は、こうした矛盾・アポリアに直面しながら、それを解決しようとすることなく、知らないふりをして日常生活を送っているのである。
 ところが、ふとした拍子に、この抑圧された矛盾・アポリア(行方不明の同級生)が、「寄り鯨」のような形で蘇ってしまい、パニックを引き起こす。
 ・・・劇場で私が感心したのは、観客に学生さんが多かったことである。
 私などは、常々こういう若い人たちが増えて欲しいと願っているのである。
 
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虚言癖

2022年12月06日 06時30分18秒 | Weblog
仲道郁代 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全曲演奏会第Ⅱ期 第3回 〈テンペスト~飛翔する幻想〉
 「※【11/18更新】出演者の希望により、当初より曲順を変更し、休憩を2回といたします。よって、終演予定時刻は16:10となります。予めご了承ください。
ソナタ第6番 ヘ長調 op.10-2
ソナタ第17番 ニ短調 op.31-2「テンペスト」
――― 休憩 ―――
ソナタ第22番 ヘ長調 op.54
ソナタ第23番 ヘ短調 op.57「熱情」
――― 休憩 ―――
ソナタ第28番 イ長調 op.101


 曲順変更の理由は明快である。
 仲道さんの説明によれば、ソナタ6番1楽章の主題が「問い」であるのに対し、ソナタ28番の主題は、「テンペスト」や「熱情」を経た後における「答え」だからである。
 さて、個人的に面白かったのは、「テンペスト」に関するパンフレットの解説である。

 「この作品のタイトルは、弟子のアントン・シントラ―がベートーヴェンに曲の解釈について尋ねた際「シェイクスピアのテンペストを読め」と言われたとされることに由来しているが、シントラ―のベートーヴェンに関する証言はほとんど虚偽であることが判明しており、このベートーヴェンの言葉も本当にあったものなのか、かなり疑わしい。

 シントラ―には虚言癖があったというが、意外にも、仲道さんはシントラ―の証言の信用性を肯定する。
 その決め手は、同じ時期にベートーヴェンが書いた、かの有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」の内容にあった。

ベートーベンの苦悩とハイリゲンシュタットの遺書!遺書全文を紹介!
 「お前たち、弟のカール、そしてヨハンよ。私が死んで、シュミット教授がまだ生きていたならば、彼に私の診断書を書いてもらうように頼んで欲しい。そしてその診断書をこの私の手紙に添えてほしい。できるだけ多くの人が私の死後、私と仲直りできるように。
それと同時にお前達には、わずかながら私の財産を残したい。これを財産と呼んでよいのであればだが・・。二人で正直にそれを分け合ってほしい。互いに仲良く助け合ってほしい。お前たちには、自分達が私になにをしたのか分かっていると思うが、私はもうそれを許している。


 弟たちに虐待された病身(難聴)の兄:ベートヴェンは、弟アントーニオによってミラノ大公の地位を追われた老いさらばえたプロスペローに対応しており、いずれも最後は弟(たち)を「許す」という内容になっているのである。
 ソナタ第17番=「テンペスト」という説は一応信用してよいようだ。
 
 

 
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マニピュレーター(6)

2022年12月05日 06時30分33秒 | Weblog
 「第10章 相手方との関係を改める」は、マニピュレーターへの対応の仕方を論じたもので、この本の最大のポイントと思われる。
 
・人間の本性や行動に関して、危険を招くような誤解から自由になる。
 ・相手の性格を正しく評価できる方法を知る。
 ・自己認識力を高める。自分の性格のうち、つけこまれやすい弱点となる部分についてはきちんと把握しておく。
 ・相手がどのような手口で操作しようとしているか、そのかけひきの手口を見極め、それにふさわしい方法で対応する。
 ・負けが避けられない争いには手を出さない。
」(p193)

 私見では、最初と最後の鉄則が大事だと思う。
 まず、攻撃が自己目的化している、もっと言えば「人の心を傷つけることに快感をおぼえる」タイプの人間が存在するという事実を認識する必要がある。
 このことは、「モラル・ハラスメント」の中でも、「精神の連続殺人」、「他人の人生を自分のものにして生きていく」(p25)という言葉で表現されている。
 「他人の心を肉食動物のように傷つけ、自身の養分にして生きる人間」がいるのである。
 これについては、プーチン大統領を挙げるだけで十分だろう。
 最も重要なのは、最後に挙げられた「負けが避けられない争いには手を出さない」ということである。
 端的に言えば、「相手の言動を変える」ことはしないということである(p201)。
 サイモンは、そんなことをしても無駄だし、かえって攻撃が激化するだけだと指摘する。
 モラハラやパワハラの事案においては、加害者は他者を何らかの手段として利用している。
 「娘にオールAを求める父」、「社長にライバルの欠点を告げ口する社員」は、構造は異なるが、娘あるいは社長(ないしカイシャ)を自分の自己愛を満たすための手段として利用しており、(カントが言うような)「目的としての他者」という発想をおよそ持っていない。
 サイモンは、こういう人間と正常な関係を築くことはあきらめた方がよいという。
 実際、通常の(法的手続に至らない)モラハラ・パワハラ事案の圧倒的多数は、別居ないし離婚、異動ないし退職で解決している。
 前述した西武ライオンズの選手間のトラブルも、「トレード」によって一応の解決を図っている。

「妻がSNSトラブル」山田遥楓が日ハムへ スキャンダル選手を続々受け入れ“球界の更生所”と呼ばれるまでに
 「「2022年9月、『週刊文春』が山田の妻について報じています。当時のチームの主将であった源田壮亮(そうすけ)内野手と、その夫人である元乃木坂46・衛藤美彩を、SNS上で誹謗中傷していたことが明るみとなったのです。
 “野球選手の妻”はライバル心から、いがみ合いが起こりやすいともいわれますが、この一件はファンを震撼させました」(週刊誌記者)
 報道後、一軍を外れていた山田。そのためネット上でも、
《まあ普通に考えたらこうなるよな》
《このまま西武にいても居心地が悪すぎて、野球に集中できない状況になってしまうしね》
《嫁さんには北の大地で更生してほしいが、性格的に都心から離れたくないタイプにも見えるから、ついて来るんだろうか》
 と、移籍についてやむなしの声が寄せられた。


 ちなみに、アメリカでは、近隣紛争の約7割が「回避(avoidance)」、つまりお互いに距離を置く・離れることで終わっているそうである。
 ただ、こういう対策を続けるだけでは、被害の発生を食い止められないということであり、やはり、最終的には何らかの手段で”小さなプーチン大統領”を止める必要が出てくる。
 そこで、弁護士と、場合によっては警察の出番となる。
 結局、パッチワーク的な対応にならざるを得ないのである。

 
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マニピュレーター(5)

2022年12月04日 06時30分18秒 | Weblog
 「潜在的攻撃性パーソナリティ―」の持主のことを、サイモンは「羊の皮をまとう狼」と表現する(p73)。
 日常生活で出くわすのは、「友を装う敵」、いわゆるフレネミーで、これは女性に多いとされているようだ。
 相手に攻撃を悟られないことに意を用いる彼ら/彼女らは、SNSなどでは匿名性が利用できることから、ネットを利用して攻撃を行うこともある。

西武・源田の元乃木坂妻を誹謗中傷した、同僚選手の元タレント妻「キラキラSNSへの逆恨み」が動機か
 「結婚後も芸能活動を続けていた彼女のインスタグラムには、匿名アカウントからの誹謗中傷メールが届くようになった。
 「文春報道によると、身の危険を感じた夫婦は弁護士を通じて裁判所に発信者情報を開示請求。そして浮上した“犯人”というのが、ライオンズのチームメイト・山田遙楓(はるか)選手の妻だったというのです」

 「この時の山田選手の年俸は、源田選手の10分の1にも満たない額。すでに1億円プレーヤーとして大金を稼いでいたライバル選手夫婦と、自分たちを比較していたのかもしれない。そして2022年1月に男の子を出産したことをインスタで報告した衛藤は、幸せそうに寄り添う母子の写真を投稿する。
 前出のスポーツ紙・野球担当記者は「それこそ、A子さんの中で取れていた“マウント”が崩れていったのかもしれない。年俸に大きな差が出るプロ野球選手の妻は、“格差”がハッキリとでやすい」と事情を明かす。


 この事件からも分かるように、この種の”ステルス攻撃”が行われやすいには、「”マウント”を巡る争い」である。
 言い換えると、「『勝つ』ことに強い執着を持ち、他者に対して常にマウントをとろうとする人物」(家族や恋人も含む)には要注意ということであり、サイモンも、具体的な事例を挙げて分かりやすく解説している(p76~191)。
 「娘にオールAを求める父」や「社長にライバルの欠点を告げ口する社員」のくだりを読むと、私などは具体的な事件や人物の姿が目に浮かんできてしまう。
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マニピュレーター(4)

2022年12月03日 06時30分09秒 | Weblog
 原著の「In Sheep's Clothing: Understanding and Dealing with Manipulative People」(「羊の服:操作的な人々の理解と対処」)は1996年発刊で、マリー=フランス・イルゴイエンヌの「モラルハラスメント」(1998年)に先行しているが、いずれも「人格障害」を対象としている点では共通している。
 すなわち、前者は「攻撃性パーソナリティ―障害」、後者は「自己愛性パーソナリティ障害」である。
 この2つは似通っているが、ジョージ・サイモンによると、「攻撃性パーソナリティ―」と「自己愛性パーソナリティ―」を区別することよりも、「攻撃性パーソナリティ―」を分類することに意義があるという。

 「五つの基本タイプは次のとおりだ。
・非抑制的攻撃性パーソナリティー
・疑似適合型攻撃性パーソナリティ―
・加虐的攻撃性パーソナリティ―
・略奪的攻撃性パーソナリティ―
・潜在的攻撃性パーソナリティー
」(p52~53)

 現在では、「非抑制的パーソナリティー」障害は「反社会性パーソナリティ障害」、「略奪的攻撃性パーソナリティ―」障害は「サイコパス」や「ソシオパス」などと呼ばれている。
 もっとも、この種の人たちは見分け方が比較的容易であり、また、幸いなことに「最強のマニピュレーター」であるサイコパスはその存在がまれとされているため(p57)、それなりに対処が可能である。
 サイモンが注意を喚起するのは、「潜在的攻撃性パーソナリティー」障害であり、いちばん対処が難しいという。
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マニピュレーター(3)

2022年12月02日 06時30分55秒 | Weblog
 「一人ひとりに対して、「あなたは神経症タイプ」「あなたはパーソナリティ障害だ」と単純に振り分けることはできるものではないが、人格の軸線上では神経症からパーソナリティ障害を両極にして、どんな人であろうとこの線上のいずれかの地点に位置付けられる。神経症とパーソナリティ障害のふたつに分けて、どちらの傾向に属しているのか比べてみるのもとても有効な方法だろう。」(p42)
 「とりわけ顕著なのは、パーソナリティー障害の場合、一般の人たちとは根本的に異なる思考法を抱えている点にある。」(p47)
 「所有的思考とは、他者を自分が思いどおりに扱える所有物と考えたり、また自分を満足させるために存在していると見なしたりする発想だ。他人をモノ(あるいは単なる対象物)と考え、威厳や価値、権利や欲求を抱えたひとりの存在として認めようとはしない。こうした発想の結果、自分は他者を支配し、所有して当然だと考えるようになり、やがて人間性を喪失していく。」(p49)

 サイモンの主張はフロイトの「神経症偏重主義」批判に始まったけれど、「所有的思考」(カントであれば「手段としての他者」と呼ぶかもしれない)のくだりでは、期せずしてフロイトに接近している。
 自我を対象である他者に拡張しようとする思考こそが、「所有的思考」だからである。

自我論集 ジークムント・フロイト 著 , 竹田 青嗣 翻訳 , 中山 元 翻訳
 「自我は、提供された対象が快感の源泉である限りにおいて、、みずからの「自我」の内部に取り入れ、みずからの内部に<取り込み>を行う(フィレンツィの表現による)。他方では、みずからの内部で不快の原因となるものは、外部に追い出してしまう(後に取り上げる<投影>のメカニズムを参照されたい。」(p40)

 この、「外部に追い出してしまう」行動(言い換えると「憎しみ」)を、サイモンは「攻撃(性)」と呼んでいるように見受けられる。
 これが他者に「投影」されてしまうとモラル・ハラスメントが生じるというのが、マリー=フランス・イルゴイエンヌの説明であり、彼女によれば、不快の原因の最たるものは「死の欲動」だというのである(死の欲動)。
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