パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

国際人になるには

2012年04月19日 21時15分17秒 | Weblog

外国語ができるに越したことはないが
それができたからと言ってインターナショナルな人間になれるわけではない
おそらく外国に行った人の多くは、外国にいることによって
自分が否応なしに日本人であるということを感じざるを得ないし
また外国の人々も日本人としての扱いを、特に最初はするに違いない

そして国際人というのは、実は自分の国のことを、文化を、特質を
また欠点すらも知った者だと言えるのではないだろうか

しかしながら、残念なことにこの国は日本古来の文化を大切にしようとしない
なにも国粋主義であるべきだというのではない
ただ、昔の人が、たとえ最初は外国のモノマネだったとしても
次第に工夫を重ね完成したものを、あまりにも安易に捨て去りすぎる

建築はどうだ
太い柱、梁による伝統構法の家づくりは
現行法の概念とは違った方向から耐震について考えられている
そして、それは実際に地震に耐えた例も数多く見られる

なのに、
そう、なのにこの国の人(役人は)簡単に
過去の人達が蓄積してきた技術・工夫を何故あっさりと捨ててしまうのだろうか?

伊勢神宮の建築は釘・金物を使わない建築
それは伊勢神宮などの特殊なものだけに許されるものなのだろうか?

自分の国の文化についての愛情が感じられない人々
極端な言い方をすれば、アメリカの文化を無条件によしとする社会
経済成長・消費社会の観点から社会を眺めようとする社会
それらは少しヤバイんじゃないだろうか

できることなら意地になっても
自分の国の固有な文化は守って欲しいくらいなのに
それらの是非すら考える壇上に登らない

どうなんだか!
ブータンがアラブの春、ファイスブック革命の話題で盛り上がっていた時
日本では市川海老蔵のあの事件がテレビを占めていた
それは平和でいいね!
と言ったレベルではなく、国民の知識・興味、それは翻って国民のレベルまで
現しているのではないのか

一年ごとに代わる首相
他人ごとのような原発騒動
相変わらずの天下り
それらは当事者だけの問題ではなく
国民力の欠如に違いない

それはどこか自分の国の文化を大事にしない
ところにも通じているような気がする

それにしても、なぜ国は(役人は)日本固有の文化を
大事にしないのだろう

コメント
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