パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

聴く人がいるということ

2012年04月21日 21時09分57秒 | 音楽

少しずつ陽が長くなっている
仕事場から駐車場に向かう途中
豊橋向山大池町でチェロを弾く人を見かけた

弾いていたのは、ジュピター(平原綾香の曲のほう)
気持ちよさそう
しばらく足を止めて聴いていた

たまたまiPadを持っていたので
了解を得て写真と動画を撮った

撮り始めると、撮られていること、聴きく人がいることを意識してか
音楽に急に集中力が出てきた
良い意味で効果を狙った演奏スタイルになった
そして、それは聴いている方でも悪い気がしない

人は相手がいること
聴く人がいる、ということで演奏も(自分自身も)変化するものだ
(と実感した)

それは音楽の演奏に限らないかもしれない
まるで独白のような文章にしても
読む人を前提にすると多少の効果を狙って
デフォルメをすることがある

音楽の場合はその都度その都度の再現芸術で
常に同じ物を再現できる訳ではないし
そもそも再現しないことには始まらないのだから
美術品のように同じ物に対峙する訳にはいかない

楽譜通りの演奏といっても
場所の違い、ニュアンスの違い、解釈の違い、演奏に向かう時の気持ちの違い
などは当然存在するのだから
本当の演奏などというイデア論みたいなものは存在しない

あるのは、その場にあった良い演奏(音楽)合わない悪い演奏(音楽)
しかないのではないのだろうか

こんなふうに考えると、フルトヴェングラーの演奏の
聴衆の存在が不可欠な
そして即興性に満ちた演奏というものは、極めて当然の事の様に思われる

反対にグレン・グールドの音楽はどうなんだろう
録音という聴いてくれる人を前提とした音楽の有り様であっても
なにかしら人を拒絶するような(自分にはそんなふうに思える)
孤独感に満ちた音楽

音楽は楽しいだけではなく、厳しいものでもある
と考え方もあるから一概にグレン・グールドを
どうのこうの言うつもりはないけれど
音楽はやっぱり、目の前の人間を前提とした、そして実際に
目の前に聴いてくれる人がいるほうが自然のような気がする

という訳で、向山大池のチェロを弾く人を見かけたことから
あれこれ考えてみました

この後、彼は星条旗よ永遠なれ、バッハの無伴奏チェロ組曲と
演奏を続けた
なんでも家は向山大池の近所の方で
家では「うるさい!」ということで
ストリートミュージシャンみたいなことをやってるとのこと
でもこの出会いはちょっと儲けもんかな!

コメント
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