竜安寺関連の本を図書館から借りて読んでいると
誰もが感じる感覚について書かれていた
それは、想像したより小さかったと言う感覚
実は自分も初めて見た時はそう思った
こんなものか、と
ところが先日何十年ぶりの対面は全く別の感覚を持った
意外に大きい
特に手前の白い部分が
なぜそんな風に感じたのだろう
普通は二度目は感動が薄くなる
二度目と言ってもずいぶん間隔が開いているから
初めてみたいなものなのかもしれないが
思いの外大きいと言う感覚は
ずっと眺めているとますます大きなものとなるような
幻覚に襲われそうだった
寝転がって読んでいた本の中に
西行のあの有名な歌
「願わくば花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」
のことが書かれていたが、その刹那
月の光に照らされた石庭が頭に浮かんだ
何年か前に月光浴と言う写真集があったが、
そこで見られたような神秘的な風景、
特に白い石を月が照らしておぼろげに岩のカタチを浮かびう上がらせている
月は真上から照りつけているが音はしない
なんという迫力のある美しさ、
本物よりも美しいかもしれない
と思ったりした
イメージの中の美しさ それはほかにもある
古池や蛙飛び込む水の音
この俳句は、ポチャンとかわずが飛び込んだ後の静寂は
日本人ならなんとなく分かる感覚だし
西行の
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ
これはやはり、パタパタと飛び去った後の静寂を想像すると迫力がある
そしてこれらはイメージの中にこそ美しさが存在するように感じてしまいそう
などと、どうでもいいことを(?)
あれこれ頭に浮かべてはいたが、
それにしても月に照らされたイメージの中の竜安寺の石庭
きれいという言葉では追いつかない何かがある