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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

井戸の茶碗

2015年07月25日 20時41分50秒 | 徒然なるままに

ひところ落語に凝った時があった
と言っても、間(ま)がどうのとか芸の力がどうの
とか小難しいことはさておき単純に話を楽しんだ
たまたま知り合いが古今亭志ん朝の全集を持っていて
その中からおすすめの作品を貸してくれて
通勤途中、車の中で聞いた

その中にお気に入りの、何度聴いてもホッとする
好きな作品がある
「井戸の茶碗」登場人物は善人ばかり

正直者のくず屋の清兵衛さん、落ちぶれて貧乏な武士の千代田卜斎
この貧乏な武士が先祖代々の仏像を清兵衛さんに一旦買い取ってもらい
それを誰かに売れた時点で、儲かった分だけ分けあいましょうと言う事になったのだが
この仏像を購入したのが高木作左衛門と言う若い、これも真っ正直な人物

仏像を洗っていると仏像の中になにか入っているような音を感じ
腹を開けてみると50両ものお金
仏像は買ったが50両は買っていない、このお金は本の持ち主に返すべきだと
くず屋清兵衛さんに伝え返すように言う
それはいまどき良い話だと清兵衛さんは武士に50両を返そうとする
ところがこの武士は売ったものは売ったもの、売った以上は買い主のもので
たとえ先祖がもしやのために残しておいてくれたものだとしても
安易に売るようなことをした自分には50両を受け取る資格が無い
だから受け取らない

仏像は買ったが50両は買っていない
売ったものは売ったもの50両は買い主のもの
この妙な意地の張り合いで、困ってしまうのはくず屋清兵衛さん

そこで知恵者に相談したところ
千代田卜斎には何か別のものを売ってお金をもらうようにする
ということになった
その何かというのが日頃使っている茶碗
これでお金は若い武士と貧乏な武士そしてくず屋さんと3人で
それぞれお金を分けあってめでたしめでたし
となるはずだった

しかし、、、

この話は本当に後味が良い
落語に定番の見栄っ張りも出ないし
とんでもなく抜けた人物も登場しない
出てくるのは善人ばかり

武士は威張っているものという扱いではなく
武士の中にも尊敬すべき人物もいるという
珍しい捉え方なのかもしれない

自分がいちばん気になるのはテレビがまだ発達していない時代に
庶民がこうした「人情話」をきいて楽しんでいたということ 
良い人間をよい人間としておおらかに受け入れている世間の空気が
当たり前の様に存在していたということ

きっと今ならもう少しブラックユーモア的なものが
加味されるに違いない 
それを思うとどちらの時代のほうが真に豊かだったのか
と疑問を持たざるをえない

ところで、借りた古今亭志ん朝のなかでは
「文七元結」「大工調べ」「化け物使い」「芝浜」などが好きかな
おやじさんの古今亭志ん生では有名な「火焔太鼓」ではなくて
「抜け雀」とか「しじみ売り」「茶金」が好き

それにしても、豊かさとはなんだろう


 

 


 

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東庁舎の雨漏りと投票に行かなかった人の意見

2015年07月25日 09時08分37秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

市長を囲んでの討論会。昨日は富岡ふるさと会館。
市長後援会の主催で行われるために、一般参加もどうぞというもののトーンは総じて住民投票で選択肢1を選んだ人のための報告会の様相。それは仕方ないとして、少しばかり小言を!

住民投票を終えた時点での報告会かといえば、この集会はそういったたぐいの集会ではなく、まるで住民投票の活動時期の選択肢1を勧める説明会の様だった。今の時点で財政の話とか借金の話とか、そうしたものは住民投票の選挙の活動中、それぞれの立場で話されたこと。現在進行中の新たな見直しについてどうしたらよいものができるか!と言った視点は見られず、単に市民案の否定を感情的に繰り返すだけ。
でもこのくらいは人間は感情の動物だから、それはそれで理解できないことではないのでいいとして、昨日気になった点が2つ。

最初は会場の質問者からでた話の中に、東庁舎の雨漏りがあった。その人は東庁舎の雨漏りが建物の欠陥・老化に基づいていると信じきっているようだった。
ところが市民まちづくり集会で公にされた東庁舎の雨漏りは、その原因が建物の欠陥ではなく、単に落ち葉が溜まったための雨水がオーバーフローしたためで、市の職員が落ち葉を定期的に確認するようになってから雨漏りは発生していない。もちろん雨漏りのための補修費用は発生していない。これは自分が市役所に赴いて確かめたこと。
それで会の終わった時点で、雨漏りの話をした人に実情を説明しようとしたが
その人は「そのように聞いている」の一点張り、こちらの話を聞こうとしない。それでこちらが言っていることが嘘か本当か、市役所へ行って聞いてみたらどうですか!と言ってみたが、どうも行く様子はなさそう。
これはこれで済んでしまったことだが、市は市民まちづくり集会で発表された東庁舎の雨漏りの原因を公式に説明する必要があるかもしれないしその責任もあるのではないか。

そしてこの様にまだ多くの人が勘違いしているとしたら、あのまちづくり集会の説明者の責任は非常に大きなものとなる。(もっとも選択肢1を勧める立場であれば効果的な攻撃だったと言えるが)この人が分かっていて意識的にこの発言をしたのか、それとも何も知らずに無邪気に発言したのか知るすべはないが、あの市民まちづくり集会で、市民側に雨漏りのちゃんとした理由を述べる機会がなかった事はやはり問題で、あのまちづくり集会自体の総括が必要なのかもしれない。

もう一つの問題は、時々話されることのある、「住民投票に行かなかった人の意見も活かす必要がある」という点。
一見なんら問題のなさそうな話だが、その行かなかった人の意見を想像し、そうであったと判断するのは誰か、その意見を実施案に取り入れる権利があるのは誰かが大きな問題となる。
行かなかった人の気持を想像することは、選択肢1を勧めた人と2を勧めた人ではその内容に大きな隔たりがあるのではないかと思えるが、はたしてどのように取り入れるのだろうか?
市民と行政の間で、行かなかった人の思いを想像した結果が同じようなものなら問題はないが、大きく異なるとしたらどのように調整するのだろうか?

帰り際、この点について市長に聞いてみることができた。その解釈について異なることが予想されるが、行政側の判断はこうであると発表し、市民の意見をお伺いすることを考えているが答え、行政の声なき声の解釈は、公表されるのですねと改めて確認。一方的に行かなかった人の意見が解釈されることはないと言うことか。

些細な事だが自分が心配するのは、投票に行かなかった声なき声が勝手に都合よく解釈されてしまわないかということ。これが大した問題にならず、市側も行政側も共通認識で話が進められればいいのだが。

以上は新城市民でない方はわかり難いかもしれませんが
5月31日に新庁舎建設を見直す住民投票が行われたあとの
経過の一つとしてアップしてみました 

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