ひところ落語に凝った時があった
と言っても、間(ま)がどうのとか芸の力がどうの
とか小難しいことはさておき単純に話を楽しんだ
たまたま知り合いが古今亭志ん朝の全集を持っていて
その中からおすすめの作品を貸してくれて
通勤途中、車の中で聞いた
その中にお気に入りの、何度聴いてもホッとする
好きな作品がある
「井戸の茶碗」登場人物は善人ばかり
正直者のくず屋の清兵衛さん、落ちぶれて貧乏な武士の千代田卜斎
この貧乏な武士が先祖代々の仏像を清兵衛さんに一旦買い取ってもらい
それを誰かに売れた時点で、儲かった分だけ分けあいましょうと言う事になったのだが
この仏像を購入したのが高木作左衛門と言う若い、これも真っ正直な人物
仏像を洗っていると仏像の中になにか入っているような音を感じ
腹を開けてみると50両ものお金
仏像は買ったが50両は買っていない、このお金は本の持ち主に返すべきだと
くず屋清兵衛さんに伝え返すように言う
それはいまどき良い話だと清兵衛さんは武士に50両を返そうとする
ところがこの武士は売ったものは売ったもの、売った以上は買い主のもので
たとえ先祖がもしやのために残しておいてくれたものだとしても
安易に売るようなことをした自分には50両を受け取る資格が無い
だから受け取らない
仏像は買ったが50両は買っていない
売ったものは売ったもの50両は買い主のもの
この妙な意地の張り合いで、困ってしまうのはくず屋清兵衛さん
そこで知恵者に相談したところ
千代田卜斎には何か別のものを売ってお金をもらうようにする
ということになった
その何かというのが日頃使っている茶碗
これでお金は若い武士と貧乏な武士そしてくず屋さんと3人で
それぞれお金を分けあってめでたしめでたし
となるはずだった
しかし、、、
この話は本当に後味が良い
落語に定番の見栄っ張りも出ないし
とんでもなく抜けた人物も登場しない
出てくるのは善人ばかり
武士は威張っているものという扱いではなく
武士の中にも尊敬すべき人物もいるという
珍しい捉え方なのかもしれない
自分がいちばん気になるのはテレビがまだ発達していない時代に
庶民がこうした「人情話」をきいて楽しんでいたということ
良い人間をよい人間としておおらかに受け入れている世間の空気が
当たり前の様に存在していたということ
きっと今ならもう少しブラックユーモア的なものが
加味されるに違いない
それを思うとどちらの時代のほうが真に豊かだったのか
と疑問を持たざるをえない
ところで、借りた古今亭志ん朝のなかでは
「文七元結」「大工調べ」「化け物使い」「芝浜」などが好きかな
おやじさんの古今亭志ん生では有名な「火焔太鼓」ではなくて
「抜け雀」とか「しじみ売り」「茶金」が好き
それにしても、豊かさとはなんだろう