パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

読みかけの「太平洋戦争と新聞」

2016年05月08日 16時34分32秒 | あれこれ考えること

午前の投稿があまりにも幼稚で情けないものに思えてきた
「太平洋戦争と新聞」
これを読み進めると、すごい迫力というか、空恐ろしい感じがしてくる
迫り来る重々しい何か嫌なものが心を暗くする
満州事変、リットン調査隊の報告に対する新聞の報道、
五・一五事件に対する大手新聞の行動
ご都合主義の報道のこれらを読んでいると、現在の北朝鮮の姿を連想する
何の事はない、かつて我が国も今の北朝鮮と同じだったのかと
(もっと怖いのは、今も知らず知らずその方向に向かっているのではないかと思えること)

五・一五のテロの効果が世界を一変させてしまった
(このテロについてはハンナ・アーレントの全体主義の起源のなかにも
 豊富な資料の中から扱われている)
しかし、すごい人物はいるもので大手の新聞が「新聞は商品である」
と開き直ったと思える状況下で、福岡日日新聞の菊竹六鼓という人物は
完全に軍部に批判的な記事を書き続けている
この人は完全なリベラリストというわけでないが信念として
自分が正しいと思うことを伝えようとする意志が強い
(左翼に批判的な言を書くなら同様に右翼にも批判的な記事を書くべきとも言っている)
軍部からの脅迫や不買運動の圧力もあった
しかし、会社も大したもので新聞発行の意味を覚悟を持って
実行している
(不買運動や弾圧で会社が潰れそうと心配し穏便な記事を依頼した社員に、
馬鹿なことを言ってはいかん、日本がつぶれるかの問題だと一蹴したという) 

少し関係ないかもしれないが、この菊池六鼓という人物の後輩の若い記者に対する口癖が
「ウソは絶対書くな。新聞がウソを書けば、多くの読者が本当と思うので影響は大きい」
と記されている
この本の本質とは離れるかもしれないが、記憶に残るフレーズだ

自分の中学・高校時代も昭和史は丁寧には扱われなかった
時間切れ!のような扱いで、ただ表面をなぞっただけで終わってしまった
ところが、今こうして改めて、ほんの少しだが興味を持ってみると
これは次に活かすべき事柄が、本当に反省して二度と繰り返さないための
ポイントがいくらでも見つかることに驚く
歴史に学ばない国家は滅びる
日本は(と地方都市の小市民が大げさに取り上げても意味は無いかもしれないが)
本当に痛い目をして何を学んできたのだろうか

読みかけの本は、まだ半分位に達したところ
はやく読み終えたい気持ちと、じっくり頭に入れるように読みたい気持ちが両立している
読みながら付箋をつけるようにしているので、とりあえず速く読み終えるようにしようか
 

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「太平洋戦争と新聞」

2016年05月08日 08時10分28秒 | 

ここでは新聞のことが主に、そして一部雑誌のことが書かれている

内容はタイトルそのまま 
なぜこんな本を読み始めたかと言えば、実は最近の政府のメディア規制ではなくて
自分が実体験として感じたメディアの違和感とか最近の報道のあり方への疑問からだ

具体的に言えば、新城市の住民投票から市長リコールにつながる一連のメディアの報道は
正確だったか?という点と
それに基づいた市民の考え方はどのようになったかということ 

もう一つは以前にも取り上げたが、STAP細胞の報道の仕方と世間の雰囲気のこと
これがどちらも一方的で、正しくは伝えられていなかったのではないかという疑問が
拭えないでいるからだ

つまりはメディアの役割はどうだったのかということ
そしてその結果作り上げられた空気はどんなものだったのかということ 

もちろん、もっと大事なことは時々聞こえてくる「現在は戦前の雰囲気に似ている」
という指摘に対して、何か参考になることはないかと思ったこともある

戦前、メディア(この当時は新聞・雑誌)は戦争反対の報道をしなかったのか?
一般の人は戦争反対の運動をしなかったのか?
できないとしたら、その当時はどんな空気が支配していたか 
これらは、単純に疑問だった

読んでいる部分はまだ序の口の部分だが、
メディアは最初からイケイケの調子ではなかったようだ
それが変わったのは満州事変以後
この時期でも肝っ玉の座った言論人がいて、勇気・信念をもって批判した人物はいた
しかし、新聞発行と言うのは一企業の営利の行為で
不買運動や言論統制や蔓延する庶民の空気には弱い

一般的に物事が始まってしまったら、どうせなら決めた方向に
うまくいくように努力すべきとの考えが支配するようになる
(フォルクスワーゲンも三菱も一旦不正をするという判断をしてしまったら
 バレないように、整合性のあるようにしようとする
 そして多分、官公庁でも計画に矛盾のないような
 数字をつくりだそうとしたり、解釈の定義を変えようとする
 もしかして、警察も検察も?)


現実には庶民に蔓延する空気はメディアによって醸しだされることが多い
そして庶民はどうしても正しい情報よりは自分のお気に入りの情報を
求めたがる傾向がある
(野球の試合でも贔屓のチームが勝った翌日の新聞は繰り返し読んでも、
  負けた時は見たくもないと言った傾向はごく普通に存在するのではないか)

つまりは庶民という存在は、正しい判断をしない可能性があるということ
この事実は踏まえておかないといけない

ドイツでは憲法改正に関して、日本と違って国民の総意を
確かめるということはないらしい
なぜなら、集団の暴走のリスクを身にしみて経験したからで
昔の人は、ドイツに限らず大衆の暴走の可能性を認識していて
あるときはポピュリズムといったり衆愚政治といって
その危険性を指摘している

主権は国民にある
その主権の持ち主、国民は常に正しい判断をするか
実はこれが問題
この判断の基準となるのが情報となるのだが
この情報が既に何かの方向性を持った味付けがなされているとしたら、、、

一番危険なのは、人は無条件に新聞の報道していることは正しい
テレビの行っていることは正しいと思い込んでしまうこと
それが特に自分の気持ちとフィットするような(他人の悪口を言うような)場合
なおさらだ
その時は新聞記事や放送されたことが、まるで既成事実のように引用されたりする
(単なる報告に過ぎないのに) 

今でも自分の中で整理できていないことは
民意が正しいかという点
本当に民意に寄り添って進めていって良いものかという点

自分がいい加減な人間だから、自分の判断などは自信を持って正しいとは
なかなか言えない
だから誰かの意見に従うほうが楽なのだが、今度はその人が正しいかといえば
その正しいという根拠は大勢の人が支持しているからということになりそう
しかし、この大勢の人の意見というのは、、、

結局、なにか堂々巡りしそう

ま、こんな面倒なことをあれこれ詮索しないでも
大概大概のところで、気持ち的にまあまあうまくやっていてくれてる
といった状況であれば一番いいのだけれど

話は最初に戻ってこの本「太平洋戦争と新聞」は
メディア関連の人には読んでおいてほしいものだ
「過去から学ぶ」 ということは、どういうことか
これから起きる可能性のあることを予め予想して対処する
それができなければ、また失敗を繰り返してしまう

連休最終日というのに、いつもの訳の分からない話になってしまった
ま、いいか!


 

 

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