今は少し落ち着いたが、先日から読んでいた「太平洋戦争と新聞」は
読んでいくうちに気分が落ち込んでいくものだった
(現在は付箋は画像よりもずっと多い)
大事な昭和史を自分が殆ど知らなかった
ということもその理由の一つだが
それにもまして、新聞という一種の権力が、結局は何もできたかった事実を
思い知らされるからだ
新聞というものは「戦争」によって販売部数が伸びたという事実
「新聞は商品である」 という開き直りは、現在我々が、わずかに期待している
新聞の信頼性とか権威が、実はそれほど当てにならないものかもしれない
と言う考えに結びつく
ただ新聞も可哀想な面もあった
不買運動や紙の支給の制限、テロへの恐怖、そして法的な数々の制限
その中で働かなければならない新聞社社員が、家族を持った一庶民と考えると
彼らを特別な人間として扱うことが、少し無理なのかもしれない
しかし、どうしてもその立場の人に対しては我々は期待してしまう
彼らは何か使命感を持った特別な人達であると、、、
もちろん骨っぽく生き抜いた人もいた(桐生悠々)
しかし世の中は一旦その流れになってしまった勢いはどうにもブレーキがかからない
国際連盟脱退を役割を果たした松岡祐介を日本は大喜びで迎えたり
中国に対しては、「懲らしめる」といったような上から目線に同意したり
力的には完全に勝ち目はない、現実的ではないのに、
精神力で乗り越えようとする方針に安易に乗ったりする国民
国民に蔓延する空気はどうだったか
(空気がどのように作られたか、新聞の力だったか?)
この時期の新聞のトーンは、現在北朝鮮がやたら大げさな表現をしている姿とそっくりだ
自国を守るためにという理由付けも、悲しいくらい似ている
誰かが言った「戦争は自国を守ると言う理由で始められる」
現在、戦前と同じことが繰り返されそうな不安が湧き上がってくる
だが少なくとも今の時点なら、まだ何を言ってもいられる
のんきに見えるかもしれないが、言えるうちに言っておかないと
緊急の事態を作らないように(それを想定したとしても)ブレーキをかけなければ
そのうち何も言えない状況ができてしまう
日本人は結局忘れっぽくて、過去から何も学んでいないのではないかと思ってしまう
自分は心配性すぎるか?