新鮮な気持ちで聴きたいがために敢えて予習をしなかった
名フィルの定期演奏会のブルックナー8番
結局のところ、大好きな曲であるために頭のなかにはたくさんの記憶が残っていて
ついつい比較してしまう事となってしまった
ヴァントならここのところの響きは、もっとフワッとした感じだったとか
メータなら静寂の中の掛け合いはもう少し空間の(広さ)を感じたとか
朝比奈隆ならこの部分は必然性を感じるような繰り返しだったとか
フルトヴェングラーなら速度をあげるとこだったとか、、、
だからと言って不満だったわけではない
大曲、1時間20分を要する曲を退屈せずに聴くことが出来た
この日強く印象に残ったとと言えば
すべての楽器(多分)で大音量となるところの気持ちよさだ
やかましいとかうるさい、というのではなくて
特に人間の苦悩とか叫びを表現しているのではなく
ただ単に音響として濁りがなくて、子どもが音を出しっぱなしにして
喜ぶような、そんな感じで聴いていて疲れない
大音量のファンファーレ、
それは彼にとっては神に対する姿勢とか彼の作曲の傾向で
この音量の印象はチャイコフスキーなどの生々しい音色とは随分違う
ただこの日少し不満があるとすれば、豪快な演奏は良かったが
もう少しデリケートな部分があっても良かったのではないか
と感じられた部分がところどころあった点
もう少し他の楽器の奏する音楽を聞いて、自分のパートの音量や音色を考えるような
ところがあってもいいのではないかと
多分この曲を名フィルが感動的なものとするのは、あと何回もの演奏経験が必要な気がする
楽譜上を卒なく演奏できるととと、フレーズの持つ意味を感じ取ることとは違って
演歌歌手が歌い込んで自分のものとするように、何回も弾き込んで自分のものとする時間が
必要なように
まったく8番とは関係ないがフィナーレの楽章で、コーダの部分
全部の楽章のテーマが奏されるものすごい効果とかフォルテッシモの心地良さは
9番の未完の交響曲もブルックナーはこうやって終わりたかったんだろうな
と頭に浮かんだ
だからこそブルックナーは未完の場合には、「テ・デウム」を演奏して欲しいと言葉を残した
サイモン・ラトルのブルックナーの9番のアルバムには補作された4楽章が録音されている
一度聴いただけでは、てんでバラバラなよくわからない印象をもつが
慣れてくると、こういう表現をしたかったブルックナーの気持ちを
なんとなく分かるような気がしてくる
この日、予想に反して女性の方々も比較的多く見かけた
「不機嫌な姫とブルックナー団」の小説にもあるようにブルックナーの音楽は
男向け!と思っていたが、この日はそうではなかったのかもしれない
コンサートの前には、同じ建物で行われていたゴッホとゴーギャン展を見て時間を過ごした
大変な人出で落ち着いて見られなかったが、
こうした絵画展もかなりエネルギーを必要とする
それで全部を気合を入れて見ようとするのではなく、フト心に語りかけてきた作品を
じっくり見ようとする
この日一番記憶に残ったのはゴッホの地味な「靴」という作品
何か拡大鏡で(望遠レンズで拡大したような)語りかけるモノがあった
それは「すごいぞ」とか、少し「怖い」と言うものに通じる何かだった
昔、ミュンヘンで見た「ひまわり」を見た時に感じた迫力に通じるものがあるような
そんな感じ
この感じは暗い色調の「自画像」でも少し感じられた
その目が怖い
鋭いというのではなく、何か別世界の何かを見てるような、、、
この様に生に接することは、録音や印刷されたものとは感じる何かが違う
都会に住みたいとは思わないが、こうした機会に容易に触れられる都会人
を少し羨ましいと思ってしまう