オルテガの「大衆の反逆」は、その内容を人に話すことが出来るほど理解は進んでいないが、
それでも思いのほか自分の感じ方等に大きな影響を与えている
「大衆の反逆」その本そのものではなくて、その引用が多い「官僚の反逆」
の中に、興味深い引用とか解説があって少し抜き出してみた
まずは肝心な「大衆」の定義
大衆とは、みずからを、特別な理由によって、---よいとも悪いとも---評価しようとせず、自分が《みんなと同じだ》と感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。《オルテガ》
もう少しわかりやすい解説では
彼が批判する「大衆」とはよく誤解されるように特定の階層のことではない。階級や社会的地位とは関係なく、自分の意見を持たずに大勢に流されるような人間たちの事を大衆と呼ぶのである。従って富裕層や支配者層に属していても、空気に左右されやすいような性格を持っているのであれば、その人間は「大衆」の一員なのである。
なんだか、どこにでもいそうな人間ということになってきそうだ
それこそマスコミに踊らされそうな一般大衆は全員そうだ、、、とも言えそうな雰囲気
たしか「大衆の反逆」の中にはもっと辛辣に
大衆は専門的な知識や技術が無いにもかかわらず、正統な判断力を持っていると思い込み
それを実行させようとする、、、
みたいなことが書かれていたような記憶がある
このままではまずいこと(大衆迎合社会)になりそうだと予想される
しかし救いはある、それは「エリート」という人々
その人たちの存在が、無謀な世界になることにブレーキをかける
そこで「エリート」とは
大衆の反対は「エリート」であるが「エリート」もまた、特定の階層や職業を意味するものではない。オルテガによれば、「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負い込む人」のことである。
エリートは、「自分よりもすぐれた、自分の彼方にある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、その規範のために易々として身を捧げる」のである。そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。反対に高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分に何ら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間にすぎないのである。大衆というのは「社会階級の区分ではなく、人間の区分、であって上層、下層の階層序列とは一致するはずがない」とオルテガは明言している。
つまりは「自分の内なる声」に耳を傾けるひと、それに従う人が「エリート」ということだ
この「内なる声」が果たして正しいか、自己満足に過ぎないかどうかは若干問題があるかもしれないが
この様な「内なる声」を聞くタイプの人間は、おそらく日々精神の訓練をしているタイプで
大枠でそれほど間違った判断をしないのではないか、、、という予想がつく
しかし、残念なことに現在はオルテガの危惧したとおりの世の中になっている
この国の議員さんも、官僚さんも、自分の住む市の議員さんも望まれる
「エリート」で はないような、、、
またもや要領を得ない愚痴(独り言)でした