本を読んでて、思わず付箋を付けたくなる部分にでくわした
一部の人には当たり前過ぎることかもしれないが、これを見つけてなんとなくスッキリした
その文章とは
有権者と代表の関係は「信託」と「代理」に 分類できる。
有権者が代表を選出する際に、候補者の諸問題への判断力を規準として選ぶのが信託
自分の利益を増進する代弁者として選ぶのが代理 である
(多数決を疑う 坂井豊貴 岩波新書の一部から)
選挙の場合、ごっちゃに考えられているが、後援会とか支持母体というのはこの「代理」をメインとした考えで、
普通の人は自分で仕事で忙しく、面倒な知識なんぞは持ち合わせず、その為にこの人なら間違った判断はしないだろうから、、
との判断で選んでしまうのが「信託」(選んだ本人はそんな自覚はもっていないかもしれないが)
建前は、一部の利益よりは全体の利益を優先すべきで、総合的な判断力をもった人々による「信託」とすべし
となっているが、現実には「代理」の機能の方が力をもってしまいそうだ
選挙に勝つには利益団体の支持が大きな力を持つ
利益団体の利益が社会全体の利益となればそれは問題はないが、それは必ずしもそういうことにならないのは
いろんなところで見かける(国も地方でも)
方針の決断は「数の力」でその正当性が確保される
しかし、その数の力を得るための方法(選挙)といえば、直接現実的な利益に結びつく方々の力の入れ方のほう(応援のほう)が
あまり直接利益には結びつかず「信託」を規準に選ぼうとする人よりも、熱の入ったものとなる
結局、自分の生活が第一、全体の秩序はもう少し余裕がある時に、、、といったところになりやすい
(どことなくトランプさんのアメリカファーストの世界に近い)
こうして選ばれるとき、本当に数で決められることは民意の反映か?
と言えば、ちょっとばかり怪しくなってしまうかもしれない
(多数決が数学的に民意の反映ではないかもしれないことが「多数決を疑う」では細かく書かれている)
結局のところ、人が下した判断とか行為は、
その都度その都度チェックして、変だなと思えるようなことに気がついた人たちが
声を上げるしかないのかもしれない
(でも、オルテガの定義する大衆の反逆の概念も念頭に入れなければならないが)
この秋の新城市の選挙、市民は「信託」すべき人物を選ぶのか
それとも「利益」の代表を選ぶのか、、、果たして、、、