パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

個人の判断(アメフトの記者会見から連想したこと)

2018年05月23日 09時30分58秒 | あれこれ考えること

昨日、日本大学のアメフトの選手の記者会見が記者クラブであった
悪質なタックルで関西学院大学の選手に怪我を負わせてしまうことになったが
その選手・家族・チームに謝罪する意味で、顔を見せない謝罪はないとの思いで会見に臨んだのだそうだ
その覚悟は評価に値する

世間の関心は、監督・コーチの具体的な指示があったか、どうか、、
そして、選手の会見と日大側からの発表が、まるで最近の国会答弁を連想させるものだから
そうした比較も混じえて議論されている

だが自分の関心は、若干の人も取り上げているが「選手個人の判断」のこと
選手個人も「命令・指示されたが、よく考えればよくないと分かることをしてしまった自分が悪い」と述べている
そうせざるを得ない環境にあった、断る選択肢はなかった、、状況下で、人は自分の判断の良し悪しを決められるのだろうか、、
あとになっていろいろ言うのは簡単だ

例えば先の大戦、戦争は良くない、、と、どれだけの人がこのことを言えただろう
そんな雰囲気ではなかった、言えば仲間はずれになり、まして犯罪者扱いになる、、
これが経験者の声だ

思うに極限状態になってしまうと人は正常な判断はできなくなる
これは受け入れがたくても何となく分かる
(理解はできるかもしれないが許されないことはある、、アイヒマンの例のように)

人が生きているということは、判断の連続だ、、というのが
昨年読んだ心理学関係の本だが、わざわざ読んで確認しなくても、そんなことは分かる
肝心なのはその時々の判断を間違えないようにするのはどうしたら良いか、、という点だろう
と言っても人間のすること、間違えた選択をする可能性はないとはいえない

小さな選択ミスは、大きな選択ミスをしないための反省材料として冷静に振り返る癖が
人にできていれば、人としての被害は少なくなるだろう
しかしいつもそんなことを考えて生きているわけでない
大半の場合は、直面する事態に「さあどうするか?」をいきなり問われる
この判断を「自分で行い、自分の責任と覚悟する」態度とか行動様式に
人は(特に日本人は)慣れているのだろうか、、というのが一番の関心事

生きていることは判断の連続というもの、人は自らの責任を負うような判断の現場から逃げ出したくなる
どう選ぼうとお前の自由だ、、と言われても、そう言われた方は途方にくれてしまう
誰かが自信有りげにすべきことを指し示してくれたら、それに従うほうが楽で自分自身にも言い訳がつく気持ちになる
これらの細かな考察はエーリッヒ・フロムの「自由から逃走」ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の「大審問官」の章にある
人はそもそもそれほどの自由は望んでいない、自由は重荷になってしまう、、
さあお前は自由だ、なんでもできるぞ、、そのかわり全部お前が責任を負うのだ、、よりは
奇跡だろがなんだろうが従うことによって簡単に食物が手に入ったり病気が直ったり
またあの世の幸せを約束(?)してくれるのだとしたら、人はその方が楽で良い

でもそれで良いのか、、と考える人も存在する
どうしようもなく自分の中から湧き出てくる感情とか思い
そうするほうが楽なのだが、果たしてそれで良いのか、、という声
この声との対話・対決を常々経験しているかどうかが最終的な判断を間違えないためのポイントになるのではないか

これを簡単な言葉で言ってしまえば「個の確立」
個とは多に対する概念ではなく、西欧的な概念からすれば「神と向かい合った時の自分の立場」
誰彼がどうのというより絶対者との関係において、自分の拠り所となるもの

話は飛んでこの日大の選手の追い込まれた状況での判断
彼は「自分の内にある声に背いた心苦しさをずっと負い続けるのは嫌だ」と判断した
比較するのは佐川さん・柳瀬さん・福田さんたち官僚の内面はどうかということ
職務上の上司の命令には逆らえない、、という法的なものも有るかもしれないが
果たして彼らのなかに自分の内側から湧き上がってきた感情があって、
それを無視するという選択を覚悟を持ってしたのだろうか、、
彼らには業務上のミスをしないスキルはあるかもしれないが、
全人格的な間違いのない判断をするスキル(敢えてスキルとする)があるのだろうか

全人格的な、間違いのない判断をするために、その立場の人には昔中国では四書五経
古代ギリシア・ローマではリベラルアーツに通じる学問の知識が必要とされた
そんなもの役に立つか、、と短絡的には思えるかもしれない
しかし、これらの教養がある人と、ない人を比較した場合、、
その人から感じられる安心感や信頼感は、どことなく違う

ところで、この判断を間違えないための何か
それがこの国の大事なポジションにいる人に有るか、どうか、、
さて

アメフトの話から随分それてしまったが、とにかくあの日大の彼の放った
「個人の判断」の言葉が気になったので、
思いつくままダラダラと、、まとまりもなく、、、




 

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