今回のアメフトについてあえて言えば、関心があるのは選手自身の判断について
およびテレビ報道のあり方であって、今騒がれているような監督の権力集中の弊害とか体質ではない
第一アメフトの選手が何人で、どんなルールで戦われるのか知らない
テレビ画面で見るとやたら大勢の人数が並んでいるので見かけるので
随分多くの人がグランドで戦うのだと思っていたら、ネットで調べると
グランドで戦っている人数は1チーム11人
選手交代ができるので予備も含めて大勢の選手が必要だとのこと
そして、この競技は作戦(戦術)がキーポイントで各人がそれぞれの立場
役割をきっちり果たすことで成り立っているとされている(よくわからないが一般的にはそうらしい)
そこで考えることは、どうしても自分が過去に経験したサッカーと比較になってしまう
サッカー(多くの国ではフットボールと言われている)は、日本では〇〇ジャパンとか
監督名チーム名みたいに、監督のコントロール(意向)のものに規律正しく連動して
活動すれば良い結果が得られて、試合に負けた場合は作戦が悪かったとされやすい
確かに試合中、弱いところをつかれて幾度となくピンチに陥ることとか
同じパターンで攻撃にさらされる、それは相手方の戦術がハマっていると考えることもできる
しかし、その場面に晒されている選手たちはそこでもなんとかしようと考える
パニックに陥ることもあれば、時間経過によって慣れてきて自然と対応できるようになることも珍しくない
これがハーフタイムになれば外から見ていた監督の指示で打開策を授けられ
より効率的に対応できることがあるので、監督の力は大きいとも理解される
でもこれはうまく行った時の場合
今度は対応してくるから相手チームがその先を読んで別のことをやってければ
作戦上の戦いは負けてしまうかもしれない
だが、これはかなり観念的な感じ
代表レベルでは頭がチンチンになってはいずに一試合をトータルで見て
そのように(作戦上のこと)感じることができるかもしれないが、昔プレイを経験した身としては
やりにくい相手だな、、と感じたのは、まずは基本プレーの正確さが自分たちよりも
遥かに上回っている場合とか身体能力が大きく違った場合
特に基本プレーの差で負けたな、、と感じるのは多かった
今の代表の試合でも、トラップの際のボールの位置、パスの正確さ(タイミング・右足左足・スペースへの選択の正しさ)
相手からボールを取られない体の使い方、相手の裏を取るフェイント、自分からボールを前に運べるドリブル
最終目的であるシュートの際のキックの正確さでFIFAランクングの上の国と差が見られて
そこが最後は決め手になっていると感じることが多い
相手のほうが上手いとか速いとか強いと前提の上でどのように対応するか
というのが、戦術・監督の腕の見せどころとなるのだろうが
さて戦いの現場のほうはどうか
結局のところ相手側も工夫をして試合に臨んでいる
だからどんなにいい作戦を立てたと思っところで、評価は相対的なものとなる
戦いの現場とはそういうもので、突き詰めるところ
「事件は現場で起きている」のと同じで「現場で選手各人が」対応するしか無い
しかも適切に瞬時に
サッカーにはハーフタイム以外に監督の指示を聞く機会はない
選手交代時にわずかにその選手が監督のメッセージを伝えることができたり
プレーでその意図を表すことができるかもしれないが、基本的には
試合が始まったら選手個人が判断するしかない
判断などと大げさな言葉は使わないとしても、普段のプレイというのは選択の連続だ
この選択を自分自身が行う(当たり前だが)のがサッカーというゲームで
ヨーロッパとか南米、その他多くの国は、多分自分の選択の自由さ(自由な発想によるプレイができる〉
故に楽しいと感じることができると思われる
昔少年サッカーのコーチをしていた時、運動神経の良い子で野球とかソフトボールでも
子供会とかで引っ張りだこになった子が、野球・ソフトは自由に判断できないからおもしろくない
サッカーならポジションを崩しても(怒られるかもしれないが)相手のキーマンをしつこくマークする
といったプレイも選択できるから、なにかやったという感じになれる、、それがいい、、とこぼしたことがあった
つまりは自己の選択、オートマチックに今まで訓練したことをチーム全体で行うか
それとも選手個人の一瞬のひらめきで個の力で何かするのか、、は常に個人に任される
というか、任せるしか手はない(野球のようにタイムは取れないので)
この個人の判断という行為自体を重要視するのが、西欧的な(アメリカ的ではなく)思考方法ではないか
(と感じてしまう、、)というのが、今回の一番のテーマ(思っていること)
アメリカ発祥のスポーツは、タイムというシステムでゲームが途切れ、
その都度作戦なり戦術の変更を他人から指示される
しかしサッカーとかラグビーは始まってしまったら、もう現場の人間が腹をくくってやるしか無い
教えられた通りのこと、訓練してきたこと、頭には入っているはずのこと、、それをするしか無い
でも想定外の状況になった時、、、そのときは耐えるとか自ら考える(考えると言うより感じる)しかない
この残酷なタイムのない時間をどうにか耐えるという経験は、ゲームの流れというのが存在して
いつかこちらの流れになるはずだという確信を持つようになる
こうした経験はとても大きく、大の大人が真剣に気合を入れて行えばジャイアントキリングといったことも
可能だとの思いを持つことができる
話はそれたが、そこで個人の判断の問題
これはアメフト・サッカーにとどまらず普段の生活の中でも、特に公務員の立場での判断にも通じる
極論を言えばあのアイヒマンも「自分で考えればどうようなことになるかはわかっていたはず」
「いくら断りきれない状況、自分がしなくても誰かがやった」としても、結果として判断したことは
間違いと裁定されざるを得ないのが人間社会、、
これは例の日大の選手の記者会見の言葉とつながる
官僚システムは無謬性というより責任の所在がはっきりしない、判断を誰がしたのかわからないシステム(のように思える)
そしてこのような考え方が広く日本の社会に広まっていないだろうか、、
もしそうだとしたらそれで良いのか、、考え直してほしいと思う
しかし日本人は本質的に命令されて動くことを好む傾向があるのかもしれない
いや、そう教育されているのかもしれない
野球の思考システム(監督の命令に従い個人の判断はない思考システム)が
広く社会に蔓延し過ぎているかもしれないと思ったりして、、、
少しばかり独断の、、、思いつき、、、しかもまとまっていない、、
でも、ま、いいか!