何年か前ピカソ展に出かけて、不意に感じたことがあった
それはピカソがきわめて若い頃描いた自分の肖像画を見たときのことで
何よりも鮮烈に覚えているのは、その目の力だ
子どもでもなく大人でもない
なにか何か遠くのものを見ているような、この世ではない何かを見ているような目
まさに天才の雰囲気を感じさせるものだったが、不意に感じたのはこのことではなくて
「モーツァルトの目に似ている」と連想したことだ
モーツァルトの有名な肖像画も、よく見るとその瞳はどこか遠くのものを見ている気にさせられる
大きな瞳、その瞳の奥の脳にははどんな感情やら思考が収められているか、、
そんなふうについつい感じてしまう
この何処か遠くを見ているような瞳の持ち主をもう一人知っている
それはフルトヴェングラーだ(カラヤンの前のベルリン・フィルの指揮者)
彼の若い時の、ジョンレノンに似た風貌の写真は、その瞳は夢見がちの
やはりこの世ではない何かを見つめているかのよう(探しているかのよう)
そんなふうに感じるのは全く個人的なことだが、そのように感じられる自分が
実は少し気に入っている
(思い込みが激しいタイプってことかもしれないが)
ところでこの目の力ということでは、確認したいのが京都太秦の広隆寺に収められているある像
広隆寺と言えば国宝の弥勒菩薩半跏像が有名で、それはとても美しくてその神秘的な微笑みは
眺めている時を忘れてしまいそうな気にさせるが、確認したい像はこの像ではなくて「秦河勝」の像
秦河勝は「秦氏」の親分というか代表的人物
渡来の秦氏の基礎を作り上げた人物(多分)
秦氏一族を異国のこの国でなんとかしようとするような気迫とか迫力がこの像から感じられた
もう一度見たならば同じように感じるか、、とちょっと確かめたい感じ
でも、二度目はそんなに感動しないかもしれない、、
ゴッホのひまわりも、フルトヴェングラーのお墓の前でのことも、がっかりすることのほうが多かったから
だが今度の京都いくときは、広隆寺へは脚を伸ばそう
そして、蚕の社の三柱鳥居ももう一度見てみよう、、
毒にも薬にもならない話、、