パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

背景を知ってる人、知らない人

2019年03月03日 08時55分14秒 | あれこれ考えること

長い長い源氏物語(現代語訳)もようやく最後の10冊目に入った
後半になるに連れて心理描写が細かくなって感情移入がしやすくなってきている
書き手の紫式部の変化・進化がそこに見られるのかもしれない

現段階では筋を追うだけでゆっくり味わうとまではいっていないのが現実だが
ただ、こんな物語だったのか、、という思いと
とりあえず読むことにしたのは、自分にとっては得ることが多く正解だったな
という実感を持てている

物語の大半を眺めた今と、名前だけ知っていた以前とでは「源氏物語」という言葉に対する
反応の仕方、感じ方が違う
源氏物語絵巻をみても、どのシーンなのだろうか、、とか、お能(葵の上)を見ても
後世の人はこの物語をどう解釈したのか、、とか
浮気ばっかりする男と、性の対象・子供を生む役割でしかないような女の存在
それが良いか悪いかはさておいて、その当時はそんなもんだったのか、、とか
昔も今も変わらないものは人の心だとか、、、
つまりは本を読むという体験を通して自分の中に蓄積した何かが、それを正確に
他人に解説できるかどうかは疑問だが、確かに存在する

例えば源氏物語の話を人と話す時(あまりそんな機会はないだろうが、仮にあったとして)
その人が源氏物語を読んだり、よく知っている人と、以前の自分のように全然知らない人と
話す場合は共通認識の違いの幅が大きすぎてなかなか実のある会話は成立しにくい

このようなことが、源氏物語のようなある意味生活に直接関わり合いのないことなら
それほど問題ではないかもしれないが、これが国政だとか市政だとか、民主主義に関わることなら
それは馬鹿にできない事柄となる

先日、様々な情報の集まるところの一つとしての床屋さんに行ったときのこと
「いま問題になっている統計不正問題って、どんなことかわかる?」と聞いてみた
彼女は屈託なく「なんか難しいことで、全然わからないじゃんね、、」と答える
この答えは実は自分の家の同居人も大差ない答えで、彼女らのおおらかな答えは
批判されるというより現実はそうなんだろうと、、少しがっかりするような気持ちになってしまう

本来ならば野党が問い詰めるだけでなく、与党でさえもこの統計問題については真摯に
対応すべきなのだが、どうもそうとはならず党利党略の視点のみで進められている
その姿を少しでも知っている人間は、そこに疑問や不安を感じるし、あるときは怒りさえ感じるようになるし
「なぜ無関心層は怒りも覚えずにいられるのだ、、、いつかは自分に返ってくる問題なのに、、」
と考える
しかし簡単に理解することの容易でないこの手の問題は、自らの頭を使って考えるのが面倒な多くの人達は
無関心であってはならない、、と言われても、やはり面倒くさい、、から抜け出せないのが多分現実

しかしこの無関心層がいざ選挙とか何かの判断を下すようなことになると、少しばかり不安になる
人は無邪気に多くの人が判断することは結局は正しいと(予想される)思ってしまうとしたら
その根拠はかなり怪しいことが歴史上の事実や、多くの思索では論じられている
このところを鋭くついているのがオルテガの「大衆の反逆」
問題に対する知識や情報を十分得ていず、普段そのことについて考えることもしないにもかかわらず
自分は正しい判断をしうる、、と考える人たち(大衆)
この人たちと「大衆の反逆」を読んで大衆のポピュリズム的な行動の危険性を感じている人
あるいはあれこれ民主主義とか自由について、そのデリケートさを嫌という程感じてる人とは
源氏物語の例と同じように共通の知識が違うので共通認識が得られない
(人にはいろんな考えからがあるとのレベルを超えた違い)

議論は共通認識を前提に進められるが、最近ではこの共通認識がとてもバラバラだ
経済統計の解釈にしても、実際には少数者による専制政治になりつつある一見まともそうな
民主主義の現在の進め方への懐疑とか、いろんなことを知ってる人と知らない人とは
ある点についてはブレーキをかけるべきかどうか含めてかなり判断が違ってくる

ディベートの場面で勝ち負けをつけるのではなく
(詭弁を用いて勝ちを得ることがないと限らない)
ディベートの参加する人物への全人格的な判断力に寄せる信頼感が、実は必要なのだと思われるが
その信頼感は何によってもたらされるか、、、といえば、これは案外感覚的で
そのひとの醸し出す雰囲気とか、なんとなく感じられる精神的背景ではないか
(こんな直感的なことで良いのか、、というのが問題となるが、「ファスト&ロー」という本では
この問題がしっかり扱われていた)

ということで日曜の朝の毒にも薬にもならないグダグダ話は
物事を知ってる人と知らない人には大きな隔たりがあるということ
でも知ってる人が偉い、、、という意味ではなくて、どうしたらこれらの溝を埋めることができるか
ということ
国でも地方でも、責任を負う立場の方々がちゃんとしていてくれれば(感じさせてくれれば)良いのだが




コメント
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