パンセ(みたいなものを目指して)

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アメリカの宝くじ論争

2019年03月15日 08時45分55秒 | あれこれ考えること

アメリカで宝くじについての論争が起きているそうだ
無職の男が宝くじを購入したら当選確率3億分の1(?)のくじに当たり、なんと300億円を手にすることになった
この男は昨年離婚しており、離婚前の14年間も働いておらず離婚前はもちろんのこと離婚後も
元妻から生活費の補助を受けていたのだそうだ
(これはアメリカの法律に高収入者が低収入者の生活を一定期間面倒を見るといった決まりがあるそうだ)

問題となっているのはこの宝くじの当選金を(いくらか)元妻に渡すべきか、渡す義務はないか、、という点

直感的、感情的には払うべきだと思う
特に離婚後も生活費の補助も受けていたということだし、14年間も仕事もせずに養ってもらっていたのだから
細かなことを言わずそのいくらかは支払えば良いのに感じる
(当事者でないからお気楽な判断をして、いざ自分がその立場になったら違う行動を選択するかもしれないが)

ここで興味があるのは、法的にはどうなのか、、という点で、
もしかしたら静的な机上論的、あるいは解釈論的な法においては自分の感情とは異なる判断が
当たり前のように出されるのではないかと不安になる(必ずしも自分の感情に基づく判断が一般意志とは思わないが)

例えば法的には払う必要や義務は無いとされたとする
だがその結論に対してはどこかモヤモヤしたもの残る人は少なくないだろう
この場合法というものが実定法主義に依存していると、法の解釈が全てでこのようなことはありうる
一般的には確かなものとされ現在使われている実定法主義だが、それは思いの外不完全なもので
ある時法が改定されたならば以前と違う結論を導き出すかもしれないらしい
法を作成した時点では考えられないようなことが起きた場合は、法の解釈を幅を広げて無理やり結論を導き出すのではなく
その時代に合わせた法に作り直すことが必要とされるということだ
この法の変更が間に合わなかった場合の判断の基準が、単に法の解釈論に終始しないで自然法によって判断をするほうが
良いだろうとするのが多分人の知恵で、どうやらヨーロッパの方では自然法が実定法の上位に存在するとの考えらしい

以上は昨年読んだ「法の起源」団藤 重光を思い出して感じたこと
人と人の生活においては静的な明文化された法だけではなく、生身の感情を伴う判断が必要だと思われる
大岡越前のエピソード(実の子の決め方のエピソードで、子どもの腕を両方から引っ張って勝ったほうが
実の母と認めるとしたが、痛がる子供がかわいそうになって手を話した女性が当初の決まりでは負けだが
実の母ならば当然そうしただろうとの判断で反対の結果になったという話)のような、
どこかほっこりする話が最近聞こえてこないのは、人は感情をもった複雑な生き物としての考えが余りにも
希薄なせいだと思われてならない

大岡越前のエピソードは中国の古典の引用との説があるが、要はこうした感情は地球上のどの地区でも
どの時代でも人がもつある種普遍的なものだということ
その普遍的なものをもう少し大事に扱わないとイカンじゃないか、、ということ

ということで、とりとめのない話、、

コメント (1)
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