相変わらず気分は源氏物語モード
先日は少しこの世界から離れて、実生活(の政治関連)に興味が移ったと思ったが
ずっと頭の中で気になって仕方なかったことを思い出して、結局のところ
またどっぷりと浸かったままになっているかのよう
それまで思い出そうとして思いだせなかったのは、読んだはずのある小説のことで
確か源氏物語のある章が書かれていたはずなのに、何故か現在まで表に出ていないことが扱われていた
覚えているのは初めて女性と関係したなら、一回目は丁寧に書かれるのが普通なのに
それがない不自然さをごちゃごちゃ言ってた小説だった
(それ以外覚えていることはないのは情けないが)
その対象となった女性が誰だったかもすっかり忘れていた
紫の上の場合は、男(光源氏)は早起きしたが女はぐっすり寝て起きるのが遅かった
との表現だったから、この女性は紫の上ではない
誰だったかな、、、
作者の名前は、、丸がついたような、、
検索して調べようにも適切な検索ワードが見つからない
ということで、ずっとイライラしたままだった
ところが、やっと見つかった
その本は
「輝く日の宮」丸谷才一 だった(図書館で借りてきた)
そして、最初の関係が書かれていない女性は、母に似た義理の母(父の妻)である藤壺と
年上で嫉妬深い六条御息所だった
高校時代に習う源氏物語は「桐壷」で、これは光源氏が生まれた時のこと
「桐壺」の次の「箒木」の巻では、もう藤壺と六条御息所とは関係ができていることになっている
経過を省略して場面転換をしているわけだが、これはあまりにも不自然で「箒木」の前に
その人たちとの最初の関係を記した「輝く日の宮」なる巻が存在したという説が本当にあったらしい
ただ自分としては、最初の関係の濃密なところへの関心はないとは言えないが
それがなくて急激な場面転換の現在の姿になっていても、それほど悪くないな、、とも思う
丁寧な描写が無い分だけ想像力が働いて、それで十分とも感じる
多くの人も似たような考えのようだ
この小説は昨日読み終えたが、記憶に残ったのはやはり源氏物語に関することで
主人公の女性(杉安佐子)の生活に関しては何ヶ月かすれば忘れていまうような話だった
ところで、更に新たに知って驚いたのは、源氏物語は紫式部が一人で書いたものではないとの説があること
光源氏が亡くなるまでは紫式部で、後半は(宇治十帖)は紫式部の娘の大弐三位の作の可能性があるというもの
なるほど、これは少しあるかもしれない、、とも感じる(読んでいて)
確かに文体と言うか描写が宇治十帖は濃厚でその前の巻とは違う印象を受ける
若菜(上・下)も細かな気合の入ったものだが、どこか客観的な視点があるが宇治十帖のは
物語ではなく小説というジャンルと感じさせる
宇治十帖の表現は紫式部の作家としての成長と見るか、別人の作と見るか
結局は答えの出ない話で、それぞれが勝手に想像するのが楽しい
ということで、相変わらず毒にも薬にもならない話
(専門家はものすごく大事なテーマなんだろうが)