パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

外国出身の小学生の勉強の手伝いで感じること

2019年03月06日 08時25分08秒 | あれこれ考えること

1月に行われた「日本語スピーチコンテスト」の会場で知り合いの方に声をかけられ
最近は小学校に通ってる外国出身の子どもの勉強を手伝うことにしている
火曜日は小学1.2年生、木曜日は4年生から6年生に分かれて日本語と算数の理解が進むように
数人のボランティアが集まって苦労しながら苦労しながら取り組んでいる
(下校後の一時間ほど)

自宅付近でも以前は中国人と思われる方が、最近は東南アジア(ベトナム?)の方と思われる方々を見かけ
あいさつ交わすようになっているが、新城市でもこうした日本語があまり得意でない人たちも少なからずいる
(今面倒を見てる子たちは親が南米出身者)
多様性がどうの、、と大上段に構えてなにか言う前に、多様性を認めなければうまくいかない現実は進行している

小学生くらいだから難しいことはなかろう、、と、教育の経験のない身でお手伝いすることにしたが
最初は戸惑った(今もそうだが)
それは外国出身で言葉のハンディキャップがあり理解が円滑に進まない、、というよりは
小学生が物事を覚え理解していく過程がどのように行われ、どのくらいのスピードでなされるのかが
わからないので、せっかちな大人たちが焦ってイライラしながら指導して良いのかが少し考えどころな点

自分たちが辿ってきた道とは言いながらこうして見ていると、人がものを覚えていったり理解していく
ということはとても不思議なことのように思える
脳のシナプスが増えて、、云々というような説明を受けても圧倒的に感じるのは、
覚えたり理解が可能になっていく不思議さ
科学的にも言葉を覚えるのはどうしてかは実は余り説明がつかない、、ともされるが
まさにその感覚を身をもって感じている

当たり前のように進み方・理解力は個人差がある
わからないことをよく考えて、、と言っても、わからないことを考えようがない
だから無条件にまずは丸暗記して、それを使っていくうちに覚える(理解する)ようにしていくのだろうが
この理解の進行が速い子、のんびり気味の子がいて、特に遅れ気味の子に対してそれは外国出身のせいで
言葉が不自由で理解が進まないのか、それとも単なる個人的な資質の問題なのかがどうもわからない
日本で生まれ育った子供でもきっと個人差はあるだろうから、ことさら外国出身で片付けるのは本質を失ってしまうかもしれない

でもとりあえず、今行っているのは外国人出身の子たちの勉強のお手伝い
ハンディキャップを乗り越える手助けをする

いざ体験してみると毎日のようにいろんな発見がある
左利きの子が文字を書くのはとても大変だということ
漢字は覚えても実は意味はわかっていないことが多い、、とか
足し算も繰り上がりになると小学生は苦労するが(引き算も)、それがどうしてできないかが
大人にとってはよくわからない、、
あまりにも当たり前のことで、「チコちゃんに叱られる」ではないが改めて、なんで?
とか、どういう理屈でそうなっているかを説明しようとすると、思いの外難しかったりする
この世代は、丸暗記が肝心で理屈は後でついてくる、、、というのが、教え方の基本なのか
どうかがわからないので、、少し迷うところ

このような技術的な問題以外にも勉強での集中力の問題
机に座って課題に取り組む姿が(大人にとって)「いい子」といわれるような形になって現れる子と
少しばかり困った子だと思われる子がいるが、これがこの世代ではどのくらいが標準なのかがわからない
落ち着きが無いのは良くないことだが、生命力のあふれる子どもたちにじっと勉強に集中を要求するのは
不自然ではないか、、とか、これは親とか学校のしつけ(教育)の現れだとか、、
つまりはいろいろ感じたり考えることがいくらでも出てくる

世の中に歪みは一番弱いところに現れる、、といわれる
もしかしたら、落ち着きのない(この現場だけでなく、学校の教室でも落ち着きが無い子がいて授業が成り立たないことがあると言われる)様子は
一番弱い存在の子どもたちに現れているかも知れない、、
現代の教育がどのようになっているかわからないが、どうも目の前の問題を直視していないような印象を感じれて仕方ない
(教育現場以前に社会の問題かもしれないが、、、自分らの子供の頃はこんなにややこしかっただろうか、、と対比較してしまう)



コメント
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