パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

命令に従うだけ?(個人の判断はできないのだろうか)

2020年06月03日 08時18分15秒 | あれこれ考えること

ジョージ・フロイドさんが警官に首を押さえつけられ亡くなった事件を受け
全米で抗議デモが拡大している
根っこのところはまた黒人の方々への差別的行動か、、
凝りもせず同じこと(人種差別)を繰り返すアメリカ
銃の乱射事件が幾度と起きても根本的な解決に取り組もうとしないアメリカ
いつまで経っても変わらない、、
そのように思う当事者は、デモを通じて怒りを爆発させてしまう気持ちはわからなくはない
(ただ好ましいことではないので、ジョージ・フロイドさんの弟さんは暴動を控えるように訴えている)

このデモに対して警察が過激な対抗をしている場面が報道された
車でデモ隊に突っ込んだり、手加減のないヒステリックな行動は
驚きとショックを覚えるものだった(そこまでやるか!)

この過激な行動に出た警察官
彼らはどのようなメンタリティでその場にいたのだろうか、、と疑問をもった
単に職務上の命令を守っただけ、
それとも仲間の警察が行ったことを責められることに対する反発
あるいは、現場における突発的な出来事に対するリアクション
彼らの一人ひとりは、人としてどう考えていたのだろう、、と気になって仕方ない

過激な行動の映像が多い警察官だが、同じ警察官でもデモの立場に立って
制服を着て行動している人たちもいた(ニュース動画)
やはりそういう人たちはいるのだ
警察官は全部一緒ではない

あのベルリンの壁が崩れた時、その前の確かハンガリー国境での警官(警備員)は
国境を超えるのは違反と分かっていても、それを見逃したと言われる
ベルリンの壁の越境も東ドイツの警官(警備員)はやはり見逃したと言われる
余りにも多くの人が押しかけたせいで、ストップさせることが非現実的だったのか
それとも彼ら個人の判断だったのか、、

警察官の行動(メンタリティ)に対する興味は、外国ではなく
当然ながら日本のことについてのほうが大きい
国会前のデモに参加した時、警察官は警備についていた
その時はデモも警察も過激でもなかったし、ただ単にちゃんと仕事をしてるな
ぐらいにしか思わなかった
だが少し場所を変えて、辺野古のデモとか
札幌における(安倍陣営の)選挙演説の野次に対する警官の過激な行動は
何故、彼らはその行動をしたのか、、が気になる
日本には外国で見られた個人の判断による行動は見られないのだろうか

公務員や警官は、自分の人生で育んできた自己の判断力を発揮することは
いけないことなのだろうか

公務員は前任の仲間が行ったミスや悪事(?)を
行政の連続性やら無謬性を確保するために、何事もなかったかのように
自分の気持ちを裏切ってまで行ってしまうのだろうか
(最近、そのように思ってしまう出来事が我市であるので)

確かにその立場に立ってみないと、わからないことには違いない
でも「自分の内側の声」と異なること選択するストレスは
どうやってクリアするのだろう
(一番怖いのは、そうしたステレスさえ感じない感情の劣化あるいは思考停止)

コメント
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