パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

歩きながら思い出したこと(人の一生とは、人にはどれだけの土地がいるか)

2020年06月10日 08時18分15秒 | あれこれ考えること

青春ドラマや歌のタイトルになりそうな「夕日に向かって走れ!」
ではなく、「朝日に向かって歩け!」が毎日の日課となっている
この時期、マスクをしての運動は朝でも少しばかり辛い
それで鼻だけ出して、すれ違ったり、追い越し追い越されるときは
急いで隠すようにしている
3キロちょっとのウォーキングが終わり家に着く頃は
太陽はだいぶ高いところにある
朝のウォーキングは「心にうつりゆくよしなしごと」との対話の時間

アスファルト舗装された道路のひび割れを見ると亀の甲羅に似ている
この形は遺伝のせいではなく、物理的な力の作用によるものとする
チューリングの理論がなんとなく説得力を持つように思えてくる

不意に高校時代の英語の教科書(多分リーダー)に出てきた話を思い出した
ある王様が、部下に「人の一生とはどういうものか?」
との答えを提出するように求めた
部下は王様のいろいろなエピソードを必死になって集めて本を作り王様に見せた
すると王様は「長すぎる」との一言
そこで部下は印象的なエピソードだけを選んで、少し短くした
ところが王様はまた「長すぎる」
これが何度か繰り返されて部下の記録はどんどん短くなっていった
王様も歳を重ねもう次回の報告を待てないくらいになった時
部下の提出した最後の答えは「生まれた、生きた、死んだ」となった
王様は「それでよい!」と満足した、、、確かこのような話だった

そうかもしれない
何か特別の目的があるわけじゃなく、ただ単に時間の経過があるだけかもしれない
悲観的に見たり、虚無的に見るのではなく、素直にそうかもしれないと思うのだった

するとこれに触発されて思い出したのがトルストイの民話集「イワンのばか」
に収められた「人にはどれほどの土地がいるか」の物語
農夫は引越しをするたびに大きな土地の所有者になっていった
ある時農夫は引越市先の土地所有者に
「日が昇り日が沈むまでに歩いて囲った土地をお前に与えよう」
との提案を受けた
農夫は誰もが行うように必死になって歩いた(走った)
もう少し行けるかもしれない、、もう少し、、
農夫はどんどん歩く(走る)
そのうち太陽は沈みかけてくる
まだ間に合うはずだ、、だがしんどい身体が、あと少しだ、、頑張らねば、、
しかし農夫はスタート時点に戻る手前で息を引き取った
結局のところ人に必要な土地とは、遺体を埋葬するだけの面積!
というのがこの物語のオチ

幸か不幸か、田舎にいると他人と比較したり、競争心を煽られたりすることは少ない
上昇志向も年齢のこともあり縁がない
昨日と同じことが今日もつづく退屈な毎日
でも、些細なことに驚きを感じることはできる
若い日に経験したことや読んだものを思い出すことができる
そういう毎日は、、悪くない、、と思う

だが、それでも時々、言いようもない焦りとか怒りとかは襲ってくる
仕方ない、生きる(生活する)というのはそういうものなんだろう

コメント
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