長らくウィーン・フィルのコンサートマスターを務めたライナー・キュッヘルさんは
「音楽を理解することは難しいが、感じることはできる」とあるインタビューで答えた
確かに具体的な内容を伝えることのできない音楽は、感じるという人の感覚に頼って
その存在意義を保っている
その感じるという行為は、それを言語化しようとすると、とてつもなく難しい
感傷的なメロディーに酔うなんてのは、わかりやすいパターンだが
バッハの音楽と対峙した時の精密な構造物のような感覚とか
ベートーヴェンの32番のピアノソナタの第2楽章の音楽は
全てを経験した上での澄んだ境地のような音楽は、
単なる感じるという行為以上の聞き手の能力を要求される
つまりは、経験によって聴き方は変わってくるということだが
感じ方は、今まで聴いてきた演奏との比較によって際立つことがある
キュッヘルさんは演奏家に重点が置かれすぎるのは良くないことで
あくまでも作品のもっている何かを追求すべしとしている
ところが、再現芸術である音楽は同じ楽譜でも時代背景や、演奏者の感覚、切り取り方によって
そのニュアンスや、訴えるものまでも変わってくる
そんなことを思いながら聴いたのが、購入したまましばらくほったらかしにしていたこれだ
大好きなブルックナーの2番と8番のセットで、オーケストラはゲヴァントハウス管弦楽団
この指揮者アンドリス・ネルソンスという方は知らない人だ
だがゲヴァントハウス管弦楽団がどんな音を出すのか気になった
(それはウィーンフィル、ベルリン・フィル、シカゴ管弦楽団独自の音の比較となる)
この比較をするのにはよく聴き込んでいる音楽が良いということで、
まずは2番のアダージョの楽章から聴き始めた
この楽章は本当に好きで、瞑想的な沈潜する8番のアダージョについで好きかもしれない
この音楽で感じることは、オーストリアののどかな風景だ
ブルックナーの生まれ育った田舎の平原のような風景で
それはブルックナーがオルガニストを務めた聖フローリアン修道院に行くまでのバスから眺めた風景だ
そしてイメージするのは、他にもは雨に濡れたバス停をイメージがある
このイメージピッタリの演奏がアイヒホルン指揮のリンツブルックナー管弦楽団の演奏で
巷ではさっぱり評判は聞かないが、個人的には大好きな演奏だ
何よりもアイヒホルンがブルックナーを好きで仕方ない、、という気持ちが感じられる
さて今回のゲヴァントハウス管弦楽団の演奏は、第一感、地味な音色だなと言う点
ベルリン・フィルのような底力のある音ではなく、ウィーンフィルのような色彩的な音でもない
ただ指揮者の要求するフレーズとか金管楽器の地味なパートの部分もよく聞こえる演奏で
こういうのは最近の傾向かもしれない、、と思ったりした
これを聴いたあと、直ぐにアイヒホルンのCDを取り出して同じ楽章を聴いた
ああ、やっぱりこの音、この空域感
感じたのはそのことで、そこは安心感と懐かしさを覚えるものだった
と言っても、今度のCDが不発だったというわけではなく、
いろんな表現の仕方があると再認識したのは事実で、2番、8番の組み合わせをするあたりは
自分の好みと近い気もするし、失望とまではいかなかったので、
この組み合わせもう少し付き合ってみるか、、という気分
(だがもう少し涼しくなってからだな)