「古い歌だ。どうしてあんなものに目が覚めたのだろう」
刀傷で重い症状になっている男がベッドで呻く
色彩のない暗い舞台は、冒頭の重い鎮痛な弦を主体とした音楽が
その場の雰囲気を決定づける
後に続くイングリッシュホルンのメロディも、まるで骸骨の歌のようだ
(初めて聴いた時、何故かそう思った)
45年前の昨日の8月23日
バイロイト祝祭劇場で二回目の「トリスタンとイゾルデ」を見た
その当時でもめったに取れないチケットを手にできたのは偶然だったが
初めてナマで見ることになった舞台が本場での「トリスタンとイゾルデ」
だったのは少し変わった部類に入るだろう
ドイツ南部の地方都市、バイロイトでは毎年ヴァーグナーの作品のみを
上演する音楽会が開催される
昨年は新型コロナ感染症の流行のため中止になったようだが
今年はなんとか開かれている
いつか、生きている間にもう一度現場で、、、と、
願いだか夢だかわからないが漠然と思ったりする
確かに、この舞台の印象は強烈だった
「前奏曲と愛の死」だけはレコードで知っていた
だが、パルジファルほど好きなわけではなかった
自分が見たのはホルスト・シュタインが指揮したもので、当時評判となった
カルロス・クライバーの指揮したものではなかった
だが、トリスタンとイゾルデが例の媚薬を飲む寸前の緊張感にあふれる音楽とか
媚薬を飲んだ後、あの有名なトリスタンとイゾルデのメロディーがハープの伴奏を伴い
ヴァイオリンで奏される時の、二人の間の劇的な時間の変化とか
二幕では逢瀬でまったりとした時間経過を過ごす二人に、ブランゲーネが警告をする場面
そして重いにもかかわらず、どこか聞く人を魅了してやまない三幕の前奏曲などは
今でも聴き比べをする時に使う部分だ
この公演が終わった時、劇場入り口でお手伝いをしていた若い女性が
(彼女らはどこかで公演を見ることができたようだが)涙を流しているのが見えた
彼女らにとって外国語ではない物語をじっくりと味わうことは
自分のような意味もわからずただ舞台を見ているだけとはかなり違う感じ方をしたに違いない
少し前、人は食べたものからできている、、と広告コピーがあったが(味の素だったかな)
人は経験したものからできている、、と言えるようだ
経験したものとは仕事の上でしたものだけでなく、本を読んだもの、音楽を聴いたもの
舞台を見たものなども含まれる
そしてその影響の度合いは、直接的な仕事の経験だけが強いだけでなく、何故かある一部の人には
非現実的な経験すらも重要なものとなる
このトリスタンの影響は実生活には役立たっていないかもしれないが、
それでも何かを判断しなければならない時の判断基準の一つにはなっているような気がする
(つまりはリベラルアーツ?)
過去を振り返るのも許されて良いのではないか、、と書いたのはヘッセだった
過去を振り返ると心が諦めと同時に、その時の自分を認めるような気持ちになって
そしてそれはもう繰り返すことができないゆえに切ない気持ちになれる
8月23日、、
実はもう一つこの日には思い出がある
それは小説「利休にたずねよ」と同じ類の少し秘密にしておきたいことだ
これは永久に自分だけの秘密だ
だが不意にトリスタンのように「古い歌だ」と思い出すようなことがあったならば
無理やり思い出さないようにしていた自分には、、美しい過去として現れるのだろうか
大好きなフルトヴェングラー指揮のトリスタンとイゾルデの第三幕の音楽はこちらから
Wagner: Tristan and Isolde (Act 3), Furtwängler (1952) ワーグナー トリスタンとイゾルデ第3幕 フルトヴェングラー