メキシコではジャーナリストの暗殺が頻発しているらしい
(昨日のTBSの報道特集によると)
特に政権に批判的な人が対象で
暗殺を恐れるジャーナリストは自主規制に舵を切る恐れも懸念されている
(日本では現時点でここまで極端ではないとしても、記者会見の出席者の限定とか
質問者の選別とかで、政権批判ができにくい状況にあるように思われる)
それは現大統領の考え、方針、法的な制度が拍車をかけていたかららしい
そこで不思議に思うのは、何故そんな人を国民は大統領に選んでいるのか?
といった素朴な疑問だ
だが、世の中には「国民は何故そんな人を政治的なトップに選んでいるのか?」
の疑問はいたるところで見られる
アメリカでも、トランプさんは自分の視点からは嫌悪感すら覚えるものだったが
彼も大統領に選ばれた
ベラルーシのルカシェンコ大統領も、フィリピンの前の大統領のルテルデ氏も
トルコのエルドアン大統領も、そしてプーチン氏も外から見れば
とても選ばれるべき人ではないように思える
でも選挙で彼から選ばれている
国内にいる人と外にいる人の思いとか優先順位は一致しないとか
国内ではそもそも報道の質量とも政権よりに偏っているから
との分析もあるようだ
よく民主主義の根幹の選挙と言われるが、選挙と民主主義は
実は別物なのではないか、、とさえ思える今日このごろだ
国民は(市民は)正しい選択をなしうるか?
短期的な利益のみを追求せず、長期的な視点に立って政策を支持し続けられるか?
そもそも、一般人に精緻な討論や考察ができるほど情報は行き渡っているか?
一般人は自らの生活に追われているので、面倒なことを考える余裕や意識があるのか?
こう言った現実の問題が思い浮かぶが、こうしたことを考える度にハンナ・アーレントの
「全体主義の起源」にあった文章を思い出す
全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。
その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。
ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。
全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。
このような民主政の統治原理は、実態としての少数者の支配、
政治的に非積極的な分子(無関心層)の存在によって成り立っている
とするシビアな分析は、今は痛いほどわかる
それにしても、内外の空気は、何か変な方向に流れている気がしてならない