パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

(森有正の著作の中から)書き留めておいた文章

2023年09月05日 09時32分28秒 | あれこれ考えること

人は何かを考える前に何かを感じる
その感じる何かとか方向性が、その人の生きてきた反映で
個性と言われるようなものでは収まらないもっと全体的なものだ

図書館から借りてきた森有正の本を読んでいると
「経験」という言葉が何度でも出てくる
この経験はよく似た体験とは若干違うニュアンスの使い方をしていて
もっと大きな意味を持っているようだ

急に何かを思いつくというのは、おそらく誰にもあることだと思われるが
森有正の本を読んでいるせいではないが、昔、きっとそうに違いないと
頭に浮かんだことを思い出した

それは「孤独」についてのことで
昔、パリの屋根裏部屋に泊まって数日間過ごした時
不意にこの地域の人の孤独は、日本人の感じる孤独とは違う
と頭に浮かんだ

日本の孤独は秋の夕暮れでイメージされるどこかゆるい孤独感
(自然に包まれている感覚?)
だが建物が石でかっちりと建てられ、部屋自体も厳しく区切られた空間に住む人は
人との交流もどこか緊張感を持ったものとして想像される
そして個人の思考は自分自身に沈潜していく、、そんなことを思ったのだった
(「嘔吐」のロカンタンの孤独を想像してしまった)

住んでいる環境によって感じ方、考え方が違うのは当たり前で
また世代が違えばやはり同じような考えには行き着かないかもしれない
だが、不意に自分の考えてきたのと同じだ、、との場面に出くわすこともある

その一つが、森有正の「遥かなノートルダム」の中の「滞日雑感」にあった以下の文章

森有正  遥かなノートルダム  滞在雑感から 221ページ
 
私のいうのは、平和主義とか民主主義とか言うことを1つのイデオロギーとして立てて、これを人々の頭に叩き込むと言う野蛮なことではない。 自分の日々の勤労に営々として従事し、その仕事に喜びと誇りと感ずると言うこと自体が平和と民主主義との実態であり、それを脅かす恐れのある一切のことに対して抵抗する心構えが平和を守るということであって、それが政治の上に反映されたものが、民主的な政治である。 こういう至極当たり前のことが閑却され、平和主義とか民主主義とか言うものが、一部の専門家の仕事のようになっているように見えるのは誠に残念である。現実が複雑きわまりないものであり、ものにはさまざまのいわくがあり、そういう当たり前のことがすぐに実現されるものでないくらいのことは、私もよく心得ているつもりである。
私の言いたいのは、平和や民主主義ががスローガンではなく、また日常生活からは手の届かないところで、誰かがいじくっている装置のようなものではなく、我々の日ごとの十分に組織された生活の感情、それ自体だ、と言うことの自覚である。

自分の考えてきたことと同じだ、、というのは言い過ぎかもしれないが
とにかく漠然と感じてきたのはこうしたことだった
生活するということ、その中で少しづつ工夫して昨日より過ごしやすい日を作り上げること
誰かとの関係性の中で、様々な感情を味わい、その中で妥協点を見つけていく
人間の脳が大きくなったのは、他人とのコミュニケーションを図る能力を必要としたからだそうだ
その脳をうまく生かした生き方
誰かに指示されるのではなく、自発的に生活の中で何かを感じて行う
それらが、地についた形で実現されると良いな、、

学者でも政治家でもない、単なる田舎のおっさんでも
こんなことは思いついたり感じたりする

でも、それはもしかしたら厳しい孤独への道に通じているのかもしれない
と思ったりもする
いつものようにまとまらない話!

コメント
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