ゴッホの有名な「ひまわり」は連作で
一枚だけでないことを知らなかった時
そのうちの一枚を見て、人にその印象を話したいと思うほど
興奮したことは覚えている(メモ帳に書いている)
見かけたのはミュンヘンのノイエ・ピナコテークで
自身が疾風怒濤の時代の出来事
最初から凄い絵だとの暗示がかかっていたのかもしれないが
その絵の前に立った時、ひまわりの葉とか茎から
何やらモニョモニョと気味悪いものが伸びてくる
幻影のようなものを感じた
正直なところ気持ち悪いくらいだった
でもその迫力はすごかった
(人に伝えたいのはそのことだった)
その衝撃的な絵を、時間が経過したのちもう一度見て
自分がどう感じるか試しにでかけたのが10年前
だが、その結果はなんとも情けないものだった
何にも感じない
ただその一言だった
するとあの時感じたのは何だったのか?
あの気持の悪い生命力に満ちた絵と感じたのは
若さゆえの感受性の為せる技だったのだろうか
感じやすさは、年々衰えていくようだ
初めて見たときと印象が変わってしまうのはこの「ひまわり」
だけでなく、京都の広隆寺の弥勒菩薩のときもそうだった
始めてみた時は、弥勒菩薩の周りの空気がとてもきれいで
特別なものと思えたのだった
しかし、2回目に見た時は、、仏像がそこにあるだけだった
この印象が変わることを小説に残しているのが辻邦生の「夏の砦」
グスタフ候のタペストリを始めてみた時に感じたことと
後に見たときの違いを追求していく話で
他人事ではないと夢中になって読んだものだった
ところでミュンヘンのノイエ・ピナコテークのひまわりは
写真撮影が許されていた
なんで許されているのか分からないが、せっかくなので撮影しておいた
それにしても若い日、メモしておくほど興奮したのは何故だったのだろう
その時の記憶は、時間の為せる技で美化されているのだろうか