少し変人で、いい加減な自分でも、熊本地震のニュースを見ると
さすがに気楽な投稿はできない気分になる
人の気分は天気に左右されるが、同様にこうした事件にも左右される
以前ホロコーストを起こしてしまった後に
新たに叙情詩が生まれるのだろうか?と考えた人がいたが
その気持はよく分かる
今は気になっていることがあっても、とても何かする気になれない
今起きている事実が重すぎる
そして今できることは、(申し訳ないが)せめて自分たちの地区に
地震は来てほしくないと思うだけ
祈って自然の気まぐれをコントロールできると考えるのは
科学的ではないとしても、今できることといえば祈ることだけ
昔、ということは自分が若い時
癌に侵されたご主人のためにある寺に
癌封じの祈祷をされに来た奥さんに出会ったことがあった
その方は日本人ではなかったので祈祷のランクを書いた文書が読めなかった
そこでたまたま近くにいた自分に祈祷のコースの説明を求めた
コースは朝祈祷するコースともっと頻繁に祈祷するコースがあった
(ように記憶している)
すると彼女は頻繁に祈祷するコースを選んだ
当然金額は安易に頼めるものではなかった
祈祷するだけで、癌が封じられるなんて、、、
まだ若かった自分はやりきれない思いを持ちながら
彼女の選択を見守った
しかし、いろんなことを試み、やり尽くしたと感じ
その時できる(自分が納得できる)最上のことが祈ること
としたら、それは他人からとやかく言えることなのかと
もやもやした気持ちがのこった
(だからこそ今も覚えているのだが)
最後の最後は祈ることだけ
それは科学的でないとか、効果があるとかの問題ではない
無力な人の願いであって、人はある意味この種の謙虚な気持ちを
持たなければいけないのではないかと思ったりする
しかし、これを明らかに商業的に利用しようとするのは
やっぱり納得出来ない自分もいる
世の中にはご利益、商売繁盛、無病息災のために祈ること
そして商業活動もそうやって成り立っていることも事実だ
これはそもそも人は完全に理性的な存在ではないということか
「神は妄想である」ドーキンスがこんなタイトルの本を書いた
祈りに通じる行為を無駄と書いた部分があったような記憶があるが
進化論から神の概念のいい加減さを説くのは良いとしても
人の残された最後の方法、祈ることをバッサリと否定するのは
少しばかりどうかな!と思ったりした
と、いつもの様に話は脱線したが
地震雷火事親父の例え通り一番怖いのは地震
来ないでくれ(ここだけでなく全世界中)と
祈ることしかできない
そして熊本の皆さんには、やはり言葉だけだが
お見舞い申しあげます
と発言するしかできない
(募金などについては今後考えるとして)