パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

何故、こうした空気が生まれるのか?}(方法論の問題ではなく)

2024年11月10日 09時41分36秒 | あれこれ考えること

後の時代の歴史家や社会学者、あるいは知識人はこれらのことを
同じ根本から生まれている現象と指摘するかもしれない

東京都知事選の石丸氏の意外な人気
(安芸高田市長時代の動画を見ると異様に対立しているものが多い)
兵庫県知事選の県会議委員から全会一致で不信任案を受けた斎藤氏の
再度の知事選で、彼は本当は少しも悪いことはしていなくて
政敵にはめられたとする意見がそれなりの数字を持っていること
(兵庫県人はどのような判断を下すのだろう)

ダウンタウンの松本人志氏が訴訟を取り下げたことについて
その解釈が大きく別れていて、これで芸能界へは復帰できるとする意見に
賛同する人がそれなりにいるということ
(取り下げの実態を都合よく解釈している)

そして海外でも人格的には不安を覚えざるを得ないトランプ氏が
あれだけの人格攻撃とかデマを飛ばしても受け入れられたこと

これらは一つはネット、SNSの活用がその結果を生み出したと言われる
だが、それはツールとか戦術の問題で、肝心なのは
「なぜそんなことが現在通用するのか?」ということだ
(あるいはなぜそんな空気が蔓延したのか?)

人は他者との関係で社会を生きていく
と同時に自分との対話に折り合いをつけて生きていく
おそらく人が一番対話をするのは、パートナーでも家族でも友人でもなく
仕事仲間でもなく個人としての自分だろう
その自分が、自分を表す姿としての判断が簡単に世の中の空気に
乗ってしまうというのは、自分には少し違和感を覚える

もしかしたら「自分との対話」という言葉とか概念がしっくりこない人がいるかも知れない
一部の人(知識人)には当たり前の概念だが、それを一般化するのは簡単ではないかもしれない
その概念を活用する人に対しては、「難しい」とか「上から目線」という言葉で
否定的な感情をもち、つまりは反知性主義を正当化する

話は飛ぶがアイヒマンの裁判において
「自分は組織の中の人間で与えられた仕事をしたに過ぎない、
 あの立場にいた人間なら誰も同じことをする」として責任が無いと主張した
ところが、人としての個人を裁く裁判は
「あなたは自分が行っていることを知りながら、何故それを止めようとしたり
 そこから離れようとしなかったのですか?」
との反論で、彼は個人として判決を受けた

つまりは人は個人の判断は社会に影響を与えているのだが
その影響力をあまりにも過小評価していないかということ
そして今の世の中は個人の判断力を磨くとか、その元となる内なる自分との対話の
絶対量が少なすぎるのではないか!と思ってしまう

嘘に騙されないコツは、個人としての背景にいろんな社会的な知恵とか常識を
持っていることだとされている
騙されやすいのは何も知らない人ということだ
数の多寡で言えば何も知らない人のほうが
ちょっとばかりいろんなことを知ってる人より多いのかもしれない

それ故に世間の(自分が思う)変な空気は、そっれなりの数字を確保してしまう気がする
日本もアメリカも、要は「個の確立」とかが十分になされていないのではないだろうか
その実態が、上記の現象を生み出しているように思えてならない


ところで関係のない話を一つ
選挙結果を受けて国会の各委員会の委員長に野党の人物が任命されるようだ
国会中継を見た人ならわかるが、この委員長の役目はかなり大きくて
今までは、答える側が抽象的な言い回しとか、同じことを繰り返したり
あるいは全く答えなかったりしてもスルーして
野党が抗議しても質問時間の時計は止めず(衆議院の場合)
いつも煮詰まった議論ができなかったが
これからはシンプルに「言われたことに答えて下さい」というのが増えそうだ
(イギリスの国会ではこのような委員長の采配が珍しくないようだ)

与野党伯仲というのは権力闘争だけの問題ではなく
こうした現場の出来事にも影響があるから、人はこうした選択をするのも
一つの知恵だと思ってしまう

日曜日らしくない、まとまりのない話

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