パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

多数派、あるいは権力の側に属したい気持ちについて

2023年04月24日 09時47分30秒 | あれこれ考えること

今朝の新聞も選挙のせいで随分スリムな紙面だった
投票率は相変わらず低い
この国の敗者は、実は庶民なのではないか!
と分別くさく考えてしまった

人は生活する上で何かしらの不満を覚えることがある
その不満は個人的な我儘なのか
それとも解決可能な社会的課題なのかを考えてみると
ある程度は社会的な(政治的な)解決法が見つかることもある
と気づけば、もう少し投票率もあがると思われる

だが現状は、解決法はそこに存在しないと思い込んで
自己責任と受け入れたり、諦めたりして絶望感に陥り
無力感に襲われている人が多いために
この投票率になっているのではないかと想像してみた
(興味や関心がないという以上に、自分たちで何かは変えられる
 と思っていないようだ)

人が現状維持とか、権力をもっている側に寄り添う傾向があるのは
多分その方が現時点でのストレスが少ないからだ
変な喩えだが、ある人がいつも巨大な壁に向かって戦っているとする
(例えば自民党の牙城に立ち向う野党を応援するとか)
その人はいつも負けてばかりだと
負けて学ぶことが多いといったのんびりした思いというよりは
思いは叶えられない!というストレスが溜まるようになってしまう
そのストレスにいつかは慣れてしまってしまう人もいれば
そのストレスに陥らないように自己防衛のため
勝ち組に乗り換える人がでても不思議ではない

これは立候補者のことではなくて、投票する有権者にもいえることではないか
応援する人がいつも負け続けると、自分の存在(価値観等)も不安になって
それらの不安から逃れるには勝ち組に乗り換えて
多数派のなかに自分が存在する感覚を持てるようなるだけで
安心できるのではないかと想像してしまった

多数派に属することの安心感
これは想像以上に大きな力を持つのではないだろうか
ベストセラー本やCDを購入してみたり、話題になっている場所や店に出かけ
写真を撮ったりして、みんなと同じことをする、、
それは、それだけで自己肯定感が感じられるからなのだろうか

日本社会は「世界にひとつだけの花」と歌いながら
多くの人と違うことは極めて恐れている社会のように思えてしまう
そして、大きな錯覚は「多くの人が考えていることは正しい」
と思い込んでいることではないだろうか

みんなの判断は、一人で判断するより間違いの確率は少ないとする事実は
数学的な計算で求められるが(「多数決を疑う」というの中で解説あり)
そこには大前提があって、判断の際には個々が損得に関係ないとか
接する情報に偏りがないとかが必要とされる
だがこれは実社会では現実的に不可能なことで
世の中はある意図のもとの情報なり損得で回っている


ということで、あれこれ考えていると暗くなりそうだが
諦めるのが一番悪い選択になりそうなので
田舎でもできることを腐らずに行うしかないか
(さて何をすれば良いのだろうか)

相変わらずまとまらない話

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