パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

良き目的と悪しき手段

2022年06月05日 09時35分11秒 | あれこれ考えること

「カラマーゾフの兄弟」の有名な大審問官のエピソードの前だと記憶しているが
子どもが虐待を受けて、その子どもに寄り添う無神論のイワンが
熱心なキリスト教徒のアリョーシャに
この残酷な虐待を行う人物はどうしたら良いか?
と尋ねるシーンがある
アリョーシャは勢いづいて、つい
「殺すべきです(記憶が曖昧なので罰するべきですかもしれない)」
と答えてしまう
彼はすぐさま自分の失言に気づくが、イワンは
「お前がそれを言うとは、、、」
と嫌味を言う

イワンは子どもの悲惨な境遇を見れば、その状態を許している(かもしれない)
あるいは神の意図は人間にはわからないとする教義とか神の存在などは
「御免こうむる」と宣言する

プーチンが始めたウクライナ戦争
一時期、不思議な空気が当たり前のように流れたことがあった
それはプーチンの暗殺だ
ロシア国内のその兆しの有無よりは、半ばそれを期待するような空気が
日本国内にもあるいは世界の中にも(メディアの中にも)漂った
そしてそれは良い方法だとの認識も共有されたような気がする
(戦争をやめられるのはプーチンだけ)

それは条件反射的に答えてしまったアリョーシャの答えに似ている
人が人の死を願う
これは常識的には異常な世界だ
だが戦争とはそういうものだ!が現実で、
だからこそ人を狂わせる戦争は避けなければならない

ところがその方法として、一時的に一種の悪の方法(暴力的な方法)を
用いざるを得ない場合が出てくる(良き目的と悪しき手段)
それを悪の方法というか、仕方ない方法というかは微妙なところだが
それを決断する立場なのが政治家という存在


たまたま読み返したウェーバーの「職業としての政治」には
今読むと切実感をもって感じられるこのようなことが書かれていた
ひとの判断を左右するのは倫理観だが、倫理観には心情倫理と責任倫理があって、
心情倫理は自分の信ずるものに正直に従って結果は神に委ねるというもの
責任倫理は、心情倫理に基づいて行ったとしてもその結果が悪いものだったならば
それを行った責任はあるというもの

このあたりになると、言葉の限界というか
何が正しいのか良いのかがわからなくなってくる

ただ言えるのは、何事も早めに問題の兆しは摘み取っておくことだ
ことが起きてしまってからでは遅すぎる
だがその兆しを不安感を持って感じられる人が多数いるかとか
その人たちが政治的な力を持っているかは、、これまた問題だが

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