後出しジャンケンの続き
再び偽ベートーヴェン事件について
後出しジャンケンどころか作品自体を
まともに聴いていないので
あれこれ言うのは反則かも知れないが
曲の解説によれば、そのテイストはショスタコーヴィッチや
後期ロマン派を連想させるようなものということらしい
佐村河内守氏の作曲依頼は現代音楽で
との指示があったが
出来上がったのは聴き手を拒否するような
しかしある意味時代の雰囲気を反映している
難解な音楽ではないようだ
そこで感じるのは本当に現代音楽の作曲家なら
自らそのようなテイストの音楽をつくったかということ
過去に誰かが作った音楽を、なぞるようにつくったか
同じことを繰り返すことへの羞恥心が作曲家には存在し
絶えず新しい何かを求めずにはいられない
それが創造する人間の傾向と思うのはロマンティックすぎるか?
以前小室哲哉氏の音楽が一世を風靡したことがあった
その時に感じたのはこの事、
同じことの繰り返しでこの人は満足で来ていたのか?
ということ
まるでヴィヴァルディみたいにパターン化された作曲法
確かにその時代の勢い、雰囲気を表す某らの表現力は曲に
あったかもしれないが、新しい試みに(歌い手が代わるということではなくて)
挑戦しようと思ったことはなかったのか?
ということ
もっとも商業ベースではそんなことは少しも望まれていなかっただろうし
逆に新しいことをしてハズレでもしたら損を被ることになるから
ブームに乗ったらそのブームの音楽を続けることを最優先したかも知れない
そうした意味では小室哲哉氏は創造への衝動に駆られた人物というよりは
商業的な職人だったといえるかもしれない
そしてこんどの偽ベートーヴェンの音楽も現代音楽というよりは
現代音楽を装った、周辺に物語ありきの商業的な音楽
ということになるのかもしれない
しかし、現代音楽は一部の例外を除いて聴き手のいない世界
それは曲自体に問題があるのか
聴き手の感性がまだ追いついていないのか?
ベルクやシェーンベルク、メシアンをたまに聞いたりすると
確かにバッハの音楽よりは現代の感覚、感情にフィットするように
感じることがある
新しい美の発見などと大げさなことを言うより
確かに時代が共有する気分を表現していると感じたりする
しかしそれには多少の訓練・慣れが必要
そんな訓練や慣れなんて実生活に必要ないから
実際はなかなか現代音楽の裾野は広がらないだろうけれど
再び偽ベートーヴェン事件について
後出しジャンケンどころか作品自体を
まともに聴いていないので
あれこれ言うのは反則かも知れないが
曲の解説によれば、そのテイストはショスタコーヴィッチや
後期ロマン派を連想させるようなものということらしい
佐村河内守氏の作曲依頼は現代音楽で
との指示があったが
出来上がったのは聴き手を拒否するような
しかしある意味時代の雰囲気を反映している
難解な音楽ではないようだ
そこで感じるのは本当に現代音楽の作曲家なら
自らそのようなテイストの音楽をつくったかということ
過去に誰かが作った音楽を、なぞるようにつくったか
同じことを繰り返すことへの羞恥心が作曲家には存在し
絶えず新しい何かを求めずにはいられない
それが創造する人間の傾向と思うのはロマンティックすぎるか?
以前小室哲哉氏の音楽が一世を風靡したことがあった
その時に感じたのはこの事、
同じことの繰り返しでこの人は満足で来ていたのか?
ということ
まるでヴィヴァルディみたいにパターン化された作曲法
確かにその時代の勢い、雰囲気を表す某らの表現力は曲に
あったかもしれないが、新しい試みに(歌い手が代わるということではなくて)
挑戦しようと思ったことはなかったのか?
ということ
もっとも商業ベースではそんなことは少しも望まれていなかっただろうし
逆に新しいことをしてハズレでもしたら損を被ることになるから
ブームに乗ったらそのブームの音楽を続けることを最優先したかも知れない
そうした意味では小室哲哉氏は創造への衝動に駆られた人物というよりは
商業的な職人だったといえるかもしれない
そしてこんどの偽ベートーヴェンの音楽も現代音楽というよりは
現代音楽を装った、周辺に物語ありきの商業的な音楽
ということになるのかもしれない
しかし、現代音楽は一部の例外を除いて聴き手のいない世界
それは曲自体に問題があるのか
聴き手の感性がまだ追いついていないのか?
ベルクやシェーンベルク、メシアンをたまに聞いたりすると
確かにバッハの音楽よりは現代の感覚、感情にフィットするように
感じることがある
新しい美の発見などと大げさなことを言うより
確かに時代が共有する気分を表現していると感じたりする
しかしそれには多少の訓練・慣れが必要
そんな訓練や慣れなんて実生活に必要ないから
実際はなかなか現代音楽の裾野は広がらないだろうけれど