パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ブルックナーのアダージョ楽章を聴く

2015年01月17日 21時04分43秒 | 音楽

ブルックナーのアダージョ楽章ばかりを順番に聴いたら
面白いかもしれない
そんな風に思いついて、通して聴く事になったのが
朝比奈隆の全集

最初は曲ごとに違う指揮者のもので行こうと思ったが
演奏の良し悪しではなく、ブルックナーの作曲の変化を中心に
聴こうと思ったので、比較対象には同じ演奏者のものがいいだろうと
全曲が揃ったこのCDに落ち着いた

アダージョの作曲家
とは誰の評価だったかは忘れたが、自分もブルックナーの音楽は
アダージョの楽章が気に入っている
ということで、昼までに1番から6番まで
そして夜になって7番から9番まで

こうして通して聴いてみるとブルックナーの進化・深化が良く分かる
特に8番・9番となるともう別の世界のようだ

実は初期の1.2番も好きな方
ブルックナーも若々しい時があったのだと感じさせる
人間的な感情の変化というより、広々とした自然を彷彿とさせるようで
一昨年出かけた聖フローリアン付近の田園風景を連想させる

3番から6番までは、冒険的な(?)印象
4番は葬送行進曲風でイメージしやすいし絵画的
5番はブルックナーにしては流れすぎる表情的な旋律が存在する
彼も受けを狙ったのか
6番になると1番と似た感じの和音の連続ぽい

7番も抵抗感なく流れるメロディ
しかし5番のそれほど表面的ではない

だが、もう一つ感じたのが
朝比奈隆の演奏は日本人のそれだな
という点

音楽を聴いて連想する風景がヨーロッパの風景ではない
どちらかと言えば空間的に広がりのない風景
前はそんなふうに思わなくて、日本人でも素晴らしい演奏が
できると思っていた
もちろん、これらの演奏は素晴らしいと思う
しかし、本場を崇め奉る気はないが、ブルックナーの呼吸していたもの
見ていた景色とは違うことで音楽が少し離れているのでは
というような気持ちが起きた

楽譜に忠実
ヨーロッパ人ではない朝比奈隆は楽譜を徹頭徹尾読むことにより
その世界の再現を完璧にしようとした
そして丁寧な音作り、ブレンド、歩みはヴァントと通じるものがある
しかしヨーロッパにいる人間たちは楽譜に忠実と言う前に
前提としてブルックナーのみた風景を日々経験している
実は些細な事だがこれが大事な気がする

日本人の西洋音楽
日本人は楽譜に正確と言う表現方法しか無いのかもしれない

音楽を聴いて日本人の演奏だなと感じたのは今回が初めてではなくて
鈴木雅明のバッハもそうだ
一見深くて抵抗感なく思えそうだが
リズムがドイツ語とか、つまりアルファベットの言葉のリスムとは違う
それでやはり横に流れる力と広がりがイメージ出来ない

文句を言えばまだある
去年のパルジファルではなくて
ずっと昔、上野の文化会館(?)でみたパルジファルの3幕の
聖金曜日の音楽のあたりで、城に向かう時の風景が深い森ではなくて
ちいさな林に思えた時は一気に興ざめしたのだった

ところで朝比奈隆の音楽が
ヨーロッパ的でない印象を与えるとしても、音楽の表現はいろいろあって
それもまた有りなのも事実
何よりもブルックナー対する共感はピエール・ブーレーズよりはありそう
ブーレーズやシノーポリのブルックナーは1回聴いただけ

しかしこんなふうに書いたら少し興味が湧いて
明日は非ブルックナーの指揮者
ブーレーズ、アバド、バーンスタインのブルックナーの演奏を聴いてみようか

それも今日と同じアダージョ楽章を

それにしても、今日は少しはまじめに聴いたつもりだったが
そんなに疲れなかった
それは少し不思議!

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優先順位(生きること、芸術)

2015年01月15日 19時46分07秒 | あれこれ考えること

トーマス・マンは裕福になった家庭が三代目は
芸術的なものに目覚め生活力が衰えていく様を
描写したと言われる
(自分は読んでないので解説で知るだけだが)

生きるための努力が敢えて必要とされなくなった時
つまり現代社会ではそこそこの収入がキープできている家庭では
音楽やらお茶・お花などの教養、芸術関連に関心がいって
そこでは真の芸術的関心はさておき、
その芸術に触れられる環境にいるということに
満足感を感じてしまうことが多いように思われる
時に、芸術に身も心も奪われてしまう人物が出てくることがあると
その人は少し危険な人物としてみなされるかもしれない

つまりある種の家庭では芸術は心底浸るものではなく
単なる格付け・ファッションに過ぎないほうが良いものとされる

どの時代も芸術が芸術だけで存在できる時代はなかったかもしれない
しかし芸術至上主義の人物は不思議なことにどの時代にも存在する
それはとても芸術がどんな力を持ちえるのかと思われるような時代でも

最近読んだ「フルトヴェングラーの遺言」
フルトヴェングラーの「音と言葉」とか対談からの言葉を
野口 剛夫氏が自分なりの解釈で熱く述べた書籍だが
ここでは、あの世界大戦のような時代だからこそ芸術が必要とされる
と信じきっていたフルトヴェングラーの姿が描かれる

確かに芸術はお腹をふくらませてはくれない
生活が便利になるわけでもない
しかし、人間にはやはり芸術は必要、
芸術は心の栄養と続く

さて今の社会 特に日本
巷には有名であることイコール素晴らしい物
多くの支持があるものイコール偉大なもの
お金がある人イコール偉大な人
みたいな風潮があって、どこか真の芸術、それは身に付けるのも
解釈するにもそれなりの時間を必要とするが、そうしたものが
軽んじられている気がしてならない

今こそ必要なのは真の芸術、それを感じる心、それを理解する根気
説明的でないだけ自分の想像力を駆使する
その感覚、、、、そうしたものが必要なのではと思ってしまう

それはフルトヴェングラーがあの時代に今こそ必要と感じたことと通じる
いや、今はもしかしたらあの時代に似ているのかもしれない
だからこそ何よりも優先的に芸術的なものは必要なのかもしれない

 

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最後まで読めるかもしれない「21世紀の資本」

2015年01月14日 20時03分44秒 | 

思いの外読みやすい
(もっとも面倒なところまで来ていないが)
これが話題の「21世紀の資本」の第一感

なるほど著者がこの本を書く理由もなんとなく理解できた
そして、蓄積されてきたヨーロッパの知識を
自らも再現する哲学のような本の構成もさすが
というべきか

確かにこれからは難しくなっていくかもしれないが
マルクスの資本論みたいな難解な言葉遣いはないようだし
各国の数字を出しているので興味も長続きするような
気がする(と思いたい)

まだ読み始めたところで、興味深い文章に出会った
経済学者が数字を扱って特別な感覚を味わっていることへの
警鐘に通じるもので、こんな風に書かれている

経済学という分野は、まだ数学だの純粋理性的でしばしばイデオロギー偏向を伴った
憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服出来ておらず、その為に歴史研究家や
他の社会科学との共同作業が犠牲になっている。
経済学者たちはあまりにもしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、
どうでもいい数学問題にばかり没頭している。
この数学的への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、
それをいいコトに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずに済ませているのだ。

実を言えば経済学者なんて、どんなことにもほとんど何も知らないというのが事実なのだ。

この辺りは日本のテレビ画面に登場する自信たっぷりの
最終的には責任を負わない人々(評論家・解説者)への
嫌味・皮肉にも通じそう

それにしても、こうした幅広い教養に支えられ深い洞察に満ちた
根気のいる体系づけられ考察は日本では生まれないな
日本で生まれるのは時流に乗ったハウツウもの
良いとこ取りの解説書ばかり(の様に思えてしまう)

とにかく一日でも休むといきなり挫折しそうな
「21世紀の資本」
もしかして最高の睡眠導入剤となるかもしれないが
頑張ってみよう、、

 

 

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Amazonから来た!

2015年01月11日 20時41分22秒 | 
夜8時過ぎ、届いたのは「21世紀の資本」
本当はこの本が明日で、「なぜ日本は基地と原発を止められないか」が今日のはず

まあどっちが先でも良いが、それにしても厚い
読めるかな?

お金持ちは、今株高で高級品を購入すると言うが、本当のお金持ちはそこで言われるようなモノは既に所有していて、改めて買わないのでは?

そしてお金持ちは自分の資産を増やすような投資にお金を費やすのではないか?
株高で消費を増やすのは、まだ充分にモノを所有していない成金と言われる人ではないのか?
こうした意味では中間層の充実を唱えた民主党はあながちハズレではないかもしれない

そして、お金持ちのこうした傾向はピケティの導く結果と通じると連想するのは素人の発想か?

それにしても厚い、厚すぎる
読めないだろうな、きっと

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読まないかもしれないが

2015年01月10日 22時15分39秒 | 
Amazonに注文してしまった
ピケティの「21世紀の資本」

高くて厚い本 読み終える気力と体力に不安と疑問が残るが、まずはトライしてみよう
(マルクスの資本論も読み終える事が出来なかったが)

ついでに購入したのが
なぜ日本は「基地」と「原発」を止められないか

こちらの方は多分一気に読めそうだ

それにしても最近は小説類が全然読めない
ヘッセの「知と愛」は再読できたが、三島由紀夫の「金閣寺」は途中で脱落
ル・カレの「誰よりも狙われた男」もダメだった

どうも想像力が鈍ってきたのか?
何かきっかけとなる興味深い作家が見つかれば良いのだが

こういう時はAmazonではなくて、大きな書店でブラブラするのが良いかもしれない
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とりとめもない連想

2015年01月09日 20時15分28秒 | 徒然なるままに

先日読み終えた「幻影(イメジ)の時代」
ダニエルJ・ブーアスティン著 星野郁美・後藤和彦/訳
かなり面白かった 

本を読んで充実した感じを得るのは
新しいことを吸収できる時と
今までモヤモヤしていたことを
スッキリと手際よく解説される時

この本は後者の方
そうだそうだと思いながら読み終えた

現在は擬似のイベントに囲まれて
幻影(イメジ)の中から全てを判断せざるを得ない
環境になっていて、残念ながらそれすらも気がついていない

しかし、この手の話はなにかに似ているとフト考えてしまった
「色即是色 空即是色」
この解釈に似ていないか
いやいやショーペンハウエルの「意志と表象の世界」
にも似ているかもしれない 

もっともどちらも読み終えたわけでもないし
理解しているわけでもないから
単なる思いつきなのだが、、、

それでも、同じように感じている人はいるということは
なんとなく実感できた

最近読んでいるのが「フルトヴェングラーの遺言」
野口 剛夫著
この本にはフルトヴェングラーの言葉からインスパイアされた
野口氏の思いが吐露されている 
真面目なロマンティックな芸術至上主義的な
これも小林秀雄の「美を求める心」を不意に思い出してしまった

内容は一致するところは無いが
感性はどこか似ている気がする

本は読んでいる最中に不意に次に読む本を探してしまうことがある
そこで本棚から引っ張りだしたのはベルクソン
しかし、読むには大変すぎるか、、、
本当はピケティの「21世紀の資本」も読まなきゃと思いつつ
少しばかり体力・気力不足と老眼がしんどそう

本は読んでも自信を持って覚えていない
ということができるが
それでも何か役に立っているに違いない
と言う感覚があるのは何故なんだろう
そう思いたいだけか、、、 

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年賀状

2015年01月07日 19時59分27秒 | 徒然なるままに

入社試験の面接に届いた年賀状の枚数を尋ねる
という手を使った企業があった
たくさん来ている人は人望がある
ということなのだろう

とすると、自分は人望はなかった
もっとも出す方も全然書かなかったから
そんなものだと思い大して気にしてはいなかったが

ところがここ数年案外まじめに出すようになった
急に大学時代の先輩から来たのもあれば
会社の女性陣から義理堅く来ていることもあり
その人達にも書くことにすると自分としては
たくさん出すことになる

年賀状は必ずしも元旦に来ているわけではない
元旦に来る人はだいたい毎年決まっている

問題は少し遅れ気味になっている人のこと
毎年一言自筆で書いて送ってくれる大学時代の友人が
今年は5日過ぎても来なかった

自分くらいの年齢になると
こういう時ふと頭に浮かぶのは
生きているのかどうか?
ということ

彼の家族は自分のことは知らないから
何かあってもわざわざ知らせてくれることは無いと
思っているが、それだけに来ないことは不安が募る

年賀状は徐々に挨拶というより
まだ生きている
ということの連絡のためになりつつあるのかも知れない

もっとも80歳を超えた人も珍しくないから
60ちょっと越えたくらいでこんなふうに思うのは
心配しすぎなのかもしれないが、、、

それにしても、先のことはわからないから、、

 

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BGMと真面目な第9

2015年01月04日 19時58分21秒 | あれこれ考えること

年末のこと、あるスーパーに買い物に入ると
日本中ではクリスマスソングよりもポピュラーと思える
第9の喜びの歌のポップスヴァージョンが流れていた

完全にBGM風のアレンジで購買意欲を喚起するような味付け
ベートーヴェンの求めた音楽の意味は
そこには見つけられない

これもありというものの、少し1770年生まれの音楽馬鹿が
かわいそうな気がした

自分は第9はそう簡単に聴かない
いや聴けない
気分がのって集中して聴けそうと思った時だけ 
スピーカーの前に座ることにしている
そしてやはりフルトヴェングラーの神聖な儀式を
間接的に体験する 

こうして体験するインパクトは
言葉で表すのが難しいくらいのもの
音楽だからこそできる印象を人に与える

それがBGMとなると何と軽く響くことか

このBGMの演奏している人もそれなりの音楽経験の
持ち主に違いないだろうが 
それでも聞こえてくる音楽から判断する限りでは
粗製乱造の音楽にしか聞こえない

果たしてそれは豊な世界なのか 

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値段と価値

2015年01月04日 19時36分07秒 | あれこれ考えること

先日、中古レコードを新譜の時とは大違いの価格で手にしたが
ありがたいはありがたいが、この価格で購入することの不思議
を感じざるを得ない

5枚組、3枚組、普通のアルバム2種類で1,860円
1枚あたり186円

需要と供給で価格は決まるというものの
果たしてこれでいいのか?
とついつい思ってしまう

例えば今回は求めなかったがバッハのマタイ受難曲
この充実感に満ちた音楽が とんでもない価格で扱われたりすると
何故か音楽も軽いものに思えてしまいそうになる

書籍でもカラマーゾフの兄弟の中古本が安いと
同じような印象を持つ 

反対に何でも鑑定団で出てくるような美術品ではないもので
破格の値段がつくものには違和感を感じる
あの番組の値段は実際に購入する人がいることの前提があるはず
本当にあの価格で求める人はいるのかは
少し疑ってもいいかもしれない 
そしてこのような状態は落語の「みかん」のバカバカしさに似ている

本当に価値あるものは人生をかけて心血を注いで
作り上げたものが多く
それを鑑賞・理解するにも同じような苦労が必要の場合が多い

しかし、そうした苦労を要する作品を味わう能力は年々低下して
需要というものは低下し、必然的にそれらの作品は低価格となる

人類の宝かもしれないものが安いと言うより
雑に扱われることの違和感
現代人はこうした何か変と思う心を
どこかに置き忘れてしまったのだろうか 

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読書初めは「幻影(イメジ)の時代」マスコミが製造する事実

2015年01月03日 18時50分25秒 | 

最後のページで確認すると初版は昭和39年10月1日とある
ということは50年以上前の書籍ということになる
しかしその内容の今日性はどうだ
思い当たるフシがいたるところにあって、本質的な人間の
傾向や心理は変わっていないことがつぶさに見て取れる

「幻影(イメジ)の時代」マスコミが製造する事実
ダニエルJ・ブーアスティン著 星野郁美・後藤和彦/訳

今年初めの本はアマゾンで購入したこの本
字が小さくて上下2段のキチキチに詰まっているのは
老眼にはしんどいが、それを補ってもなおかつ面白い

1.ニュースの取材からニュースの製造へ

2.英雄から有名人へ

3.旅行者から観光客へ

今のところここまで読んでいる

続くのは

4.形から影へ

5.理想からイメジへ

6.アメリカの夢からアメリカの幻影へ?

その内容は、擬似イベントと言う言葉に表される様々なこと
ニュースはいつのことからか出来事を報道するものではなくて
製造・演出するようになっているまでになっていること
政治家の発表すら記者の誘導に導かれる可能性があったり
漏洩という手法を使ってのニュースの製造

また英雄と有名人との違い
評価されるべき英雄はその時代の
すぐに忘れられる有名人に取って代わられている

そしてその有名人を知らす知らず評価してしまう人々

旅は本来苦労したり現地の人と直接に触れ合うことにより
自らの体験(トラベル)となるのだが、今は普段の生活を確保した上で
窓越しに風景を眺める観光(ツーリスト)となっている

これらは現代にもそのまま流用できる
いあや現代こそ、そのままではないかとさえ思えてくる

この著者はどんな人かは知らない
しかし大変な知識・教養の持ち主であることが分かる

昔はこういう人がまだ多くいた
しかし現代は専門家はいるかもしれないが
この手の教養人は見つけにくいのが現実だ
特に日本では

日本における知識人
御意見番、かつての小林秀雄みたいな存在の人間は
今なら誰が該当するのだろう

それを自分が知らないだけならいいのだが
いないとしたら、、、、

 

 

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