ブルックナーのアダージョ楽章ばかりを順番に聴いたら
面白いかもしれない
そんな風に思いついて、通して聴く事になったのが
朝比奈隆の全集
最初は曲ごとに違う指揮者のもので行こうと思ったが
演奏の良し悪しではなく、ブルックナーの作曲の変化を中心に
聴こうと思ったので、比較対象には同じ演奏者のものがいいだろうと
全曲が揃ったこのCDに落ち着いた
アダージョの作曲家
とは誰の評価だったかは忘れたが、自分もブルックナーの音楽は
アダージョの楽章が気に入っている
ということで、昼までに1番から6番まで
そして夜になって7番から9番まで
こうして通して聴いてみるとブルックナーの進化・深化が良く分かる
特に8番・9番となるともう別の世界のようだ
実は初期の1.2番も好きな方
ブルックナーも若々しい時があったのだと感じさせる
人間的な感情の変化というより、広々とした自然を彷彿とさせるようで
一昨年出かけた聖フローリアン付近の田園風景を連想させる
3番から6番までは、冒険的な(?)印象
4番は葬送行進曲風でイメージしやすいし絵画的
5番はブルックナーにしては流れすぎる表情的な旋律が存在する
彼も受けを狙ったのか
6番になると1番と似た感じの和音の連続ぽい
7番も抵抗感なく流れるメロディ
しかし5番のそれほど表面的ではない
だが、もう一つ感じたのが
朝比奈隆の演奏は日本人のそれだな
という点
音楽を聴いて連想する風景がヨーロッパの風景ではない
どちらかと言えば空間的に広がりのない風景
前はそんなふうに思わなくて、日本人でも素晴らしい演奏が
できると思っていた
もちろん、これらの演奏は素晴らしいと思う
しかし、本場を崇め奉る気はないが、ブルックナーの呼吸していたもの
見ていた景色とは違うことで音楽が少し離れているのでは
というような気持ちが起きた
楽譜に忠実
ヨーロッパ人ではない朝比奈隆は楽譜を徹頭徹尾読むことにより
その世界の再現を完璧にしようとした
そして丁寧な音作り、ブレンド、歩みはヴァントと通じるものがある
しかしヨーロッパにいる人間たちは楽譜に忠実と言う前に
前提としてブルックナーのみた風景を日々経験している
実は些細な事だがこれが大事な気がする
日本人の西洋音楽
日本人は楽譜に正確と言う表現方法しか無いのかもしれない
音楽を聴いて日本人の演奏だなと感じたのは今回が初めてではなくて
鈴木雅明のバッハもそうだ
一見深くて抵抗感なく思えそうだが
リズムがドイツ語とか、つまりアルファベットの言葉のリスムとは違う
それでやはり横に流れる力と広がりがイメージ出来ない
文句を言えばまだある
去年のパルジファルではなくて
ずっと昔、上野の文化会館(?)でみたパルジファルの3幕の
聖金曜日の音楽のあたりで、城に向かう時の風景が深い森ではなくて
ちいさな林に思えた時は一気に興ざめしたのだった
ところで朝比奈隆の音楽が
ヨーロッパ的でない印象を与えるとしても、音楽の表現はいろいろあって
それもまた有りなのも事実
何よりもブルックナー対する共感はピエール・ブーレーズよりはありそう
ブーレーズやシノーポリのブルックナーは1回聴いただけ
しかしこんなふうに書いたら少し興味が湧いて
明日は非ブルックナーの指揮者
ブーレーズ、アバド、バーンスタインのブルックナーの演奏を聴いてみようか
それも今日と同じアダージョ楽章を
それにしても、今日は少しはまじめに聴いたつもりだったが
そんなに疲れなかった
それは少し不思議!