パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

個人の判断について(ラグビー日本代表 ヘッドコーチの言葉)

2015年10月23日 19時24分26秒 | あれこれ考えること

公務員、社会人が自分の意に沿わない指示・命令を受けた時に
どのように考えるべきかと 、ささやかながら考えてきたが
スッキリしたレポートが目に止まった

関口宏のサンデーモーニングにラグビー日本代表ヘッドコーチ
エディー ・ジョーンズが残した言葉がそれで
ラグビーの世界から日本社会一般ににも通じそうな話

先ずはその発言と日本社会に関する考察

ジョーンズ氏は「ラグビーワールドカップ2015」からの帰国後の記者会見でチームの健闘を称える一方、「規律を守らせ従順になるためだけの指導が行われている」と語り、こうした日本のラグビー文化が選手たちの能力発揮を阻んでいると指摘していた。

VTRにはジョーンズ氏を取材した経験のあるスポーツライターの生島淳氏が登場し、「集団主義」「目標に対して従順に勤勉に頑張っていく姿勢」が日本ラグビーを支える価値だったとコメントした。生島氏によると、ジョーンズ氏がそうした不合理な精神性を離れて「自分の判断・表現力を磨いていかないとダメだ」と選手たちを指導していたというのだ。

ここからVTRはラグビーの話題を離れ、日本社会一般についての問題提起へと移る。不満があっても会社のために頑張り通すという日本人の精神性が、高度経済成長期の日本を下支えしてきた、というのだ。

ここで登場した一橋大学大学院の山岸俊男特任教授は、日本社会は上から与えられた規則に従うことでしか社会秩序を構築できなかったと語り、その「典型が(戦前の)軍隊」だと指摘。ジョーンズ氏の苦言は日本社会全体に通じるとし、これからは自分たちで創意工夫する生き方が必要であると訴えていた。

なるほど、痛いところをつかれてしまったと言う感じ
これはサッカーでも言える事

いつも違和感を感じることがある
ハリルジャパンとかザックジャパンとかジーコジャパンとか
つまり監督さんの名前が大きく全面にでて
瞬間瞬間の判断がすべてのようなサッカーの様なゲームでも
選手の責任よりは監督の采配がどうのこうのと言われるし
そうした話をするのが大好きな日本の当たり前の風景
これが自分にとっては不思議でしょうがない
どうも野球の監督の指示・サイン・作戦に基づく持って行きように
あまりにもどっぷりと使ってしまっているために
なんら変と感じないのかもしれない(あるいは自分がへそ曲がりか)

しかし、よくよく考えるとそもそもの個人の役割とか個人の価値とか
個人の責任とか、そういった個人に関する考え方自体が欧米と日本とは
違っているのではないかとさえ思ってしまう 

日本人が規律に従うのは従順な民族、我慢強い民族というだけでなく
責任を伴う判断をするのを嫌う傾向にあるからではないのか
スポ根の教養小説的な物語や漫画でも必ずと言っていいほど
師匠にあたる絶対的な人物が主人公の成長の手助けをする
つまり自分の判断ではなくここでも誰かの意見に従っている?

エーリッヒ・フロムの自由からの逃走にあるように
責任を伴う判断なんて御免被りたい
誰か偉い人(?)が決めたことを粛々と行っていくのが
ほんとうの自由という面倒くさいものを手にしているより
楽でいい
と心のなかで思っていないか

そんな低次元のことは無いと信じたいが
どうもそうばっかりとは言えなさそうで、、

しかし、最近デモなどで自分の声を上げ始めた若者は
従来のまず反対から始まる若い日の反抗とは違う気がする
やっと精神のスタート時点が欧米の価値観と似てきたというか、、

物事が変わるには残念ながら他人の経験ではなく
自らの経験でないと変わることが出来ないようだ
それが個人であれ国家であれ
願わくば良い方向に早く変わってほしいものだが、、、 


 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若者に政治・市政に興味を持ってもらうのは難しい

2015年10月23日 09時13分55秒 | あれこれ考えること

先ほどのお気楽な投稿とは少し違って
今度はすこしばかり真面目な(?)話

新城市は若者議会という全国に先立って若者の
政治参加を促すシステムがあるが、この若者議会の
説明会が先日近くの防災センターで行われた
当日は地域の問題の意見交換がメインでこの話題は
冒頭に紹介されただけだった

そこで気になったのが、若者会議に参加している人たちの
職業のこと(若者の定義は義務教育を終えた年齢から29歳までとのこと)
詳しく把握していないが、どうも学生さんが多そうな雰囲気
そのせいか提案された内容が少し生活感がないものと感じられた
これは批判しているのではなく、
若者議会に積極的に参加しようとした人と比べると
自分が若い頃は何も考えていず、こうした提案すら出来なかったと
思えるし、正直彼らのほうが優秀な意識を持っていて尊敬すべきと思える
しかし、にも関わらず、少しばかり幼い感じがするのは
社会人と言われる実生活をしている人たちの参加が少ないのではないか
と想像した

実はこの若い社会人の政治参加とか
市政に関する興味を持ってもらうことは 
思いの外難しい

現実に新城市の住民投票になった案件についても
中心となって活動したのは年配者が圧倒的に多い
本当はもっと若者に関心をもってもらいたがったし
現実に困る事態を経験せざるを得ないのは若者だと
少しばかり脅しながら(?)説明しても
残念ながら広がりを得ることは難しかった
(住民投票の結果は望むようになったが)

確かに歳をとらなければわからないことがある
社会の構造、矛盾、人として置かれた立場で何をするか
人間自体の矛盾した存在など
だが多分、政治・市政に興味が持てないのは
もっと別の理由によるのではないか

若い人たち、その多くは生活費を稼ぐために仕事についている
彼らの頭のなかの多くを占める話題は望む望まないにかかわらず多分仕事のこと 
期限のこと、トラブルのこと、解決すべき問題のことなどなど
その他に彼女・彼氏のことも頭を支配しているに違いない 
つまり人の興味のある分野には優先順位やその総量には限界があって
若い人には、特に仕事で追われている人、しかも優秀な人でも
関心は持ちにくいのが実情ではないだろうか
若い人でも創業者とか経営者は、自分の仕事を進めていく内に
何がしか政治とか社会システムの矛盾に感じざるを得なくなって
興味をもたざるを得なくなるが、大半のサラリーマンは
社会常識の範囲で政治をニュースで知るだけで
自分のこととして考えるところまで行かない 

これは日本だけのことか、それとも欧米の民主主義が発達している
とされる国ではどうなっているのか比較してみたことがないので
一般化できるかどうかわからないし
仮に日本だけだとしたら、そのシステムに多少問題ありということ

本当に現実のところ、若い人に興味を持ってもらう事は難しい

と言いつつ、自分もいい加減な無関心な人間だったからな
興味を持てと言われても持てないし、、、 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気ままに思いついたこと(サボるのは脳と同じ?)

2015年10月23日 08時27分03秒 | あれこれ考えること

変な、どうでもいいことを考えることが好きだ
本を読む時、最初はまるで頭のなかで声を
発しているような気がするが、読み込んでいくうちに
声は聞こえず(感じず)内容と同化するような気分になる

この最初に聞こえる声は、自分が普段人と話している時の声を
思い出しているのか、それとも脳が作り上げている別の声なのか
ほんと、どうでもいいようなことだが、これは「意識は傍観者である」に
刺激されて再び思いついたこと

自転車に乗る時、練習時はそれこそいろんなことを考え、感じて
体全体のバランスをどうしようかなどと考える
しかし、一旦乗れるようになったら無意識で出来ているので
わざわざどうバランスをとっているかは本人にはわからない
こうした例は数多くあって、自分では毎朝の般若心経を唱える時も
覚えるときは文字を追って意識はそれでいっぱいいっぱいだったが
今は不謹慎ながら般若心経を唱えながら別のことを考えたりできている

どうも脳は横着したがっているようだ
一旦可能となった出来事には脳をフル活動させないで
ある部分を休ませて、必要な部分だけで機能させるようだ
そのほうが生物学的にも効率的にも良いらしいが
これを拡大解釈して、社会に当てはめたらどうなるかを想像してみると、
働かない蟻、どうも仕事をサボる傾向のある人
これらは、特にサボる人を弁護するわけではないが、ある面
仕方のない事かもしれないと思ったりする

どんなグループ分けをしても同じような確率で
サボったり横着したりずるいことをする個体が存在する
ずるいことといえば、生物の中でも人間の基準からすれば
とてもずるい虫(だったと思うが)がいて
雄は雌に気にいるプレゼントすることで交尾ができるようになるのだが
ずるい雄は雌に化けて雄のプレゼントを横取りして
今度はそのプレゼントを雌に与えて交尾に至るらしい
自分の子孫を残すための一つの技術として、これは単純に良い悪いは
判断しづらい

そもそも生物は本当に多種多様な能力を持っていて
人間においても運動神経、記憶力、指先の器用さ、計算能力、包容力
論理力、説得力、芸術に関するあるあらゆる技術など
本当に能力が分化しているが、これはあらゆる可能性を想定したほうが
生物として生き延びる可能性が高いからということらしい

こうなると、生物としての人間のすることの良し悪しの判断基準は
なかなか難しくなってくる
サボることもなにか必然の事のように思えてくるし
ずるい人間が存在することも、半ば仕方ないことのように、、、

しかし、それでは困るのが現実の世界
こうした現実や理解を踏まえて、どうしたら
住みやすい世界をつくることができるか?
それは、一部の考えることに特化した人たちのつくり上げる
世界観に従うことになるかもしれないが
その上位の人びとが果たして人びとにとって良いひとかどうかは
これがまた問題となってくる

こんなことをきっと我々の祖先は考えながら
今できる最上の方法を考えてきているのだろうけれど
とりあえずのその一つの手段としての民主主義がある

しかし、これもある面で制度疲労している(日本)ように感じられるなら
なかなか難しいが、これは当事者が真剣に考えなおすしかないのかもしれない

と言いつつも、みんなで同じことを考えることの難しさ
危険性、、
ホント世の中は難しい

相変わらずのどうでもいい?思いつき
暇だな!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする