パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

音楽の聞き方

2016年05月22日 08時27分03秒 | 徒然なるままに

車では当たり前のように音楽を聞いている
パソコンに向かっている時も
音が欲しくて、CDをかけっぱなしにしている
いわゆる、ながら聴取で音楽に心を奪われているわけではない
好きな曲がかかっていると心地よいし
特にあれこれ考えることもなく、そんなものだと思ったりする

ところが、聞き流していた音楽を
いざ集中して聴こうとすると脳に入ってくる情報量が全然変わってくる
ジャズなどはニュアンス・気合・熱気・合わせる時の微妙さなど
それだけで面白くてつい惹き込まれてしまう

クラシック音楽はまじめに聞くと聞こえていた音の数が増えてくる
単なるリズムを刻む伴奏のような音、対旋律のニュアンス
次の過程に移行する準備のような音形 、そして会話のような楽器間のやり取り
更に時間経過の芸術としての前後関係のまとまりなど
それらをなんとなく感じることができる

ベートーヴェンの音楽は田園でもまじめに聞くとシンフォニックで
イージー音楽とは違う分野の音楽
多分ベートーヴェンの曲はまじめに聴いてこそ面白さが感じられると思われる

大好きなモーツアルトはどうか
これがなかなか難しい
モーツアルトは聞き流しても良いみたいだし、時にはそうすべきじゃないか
とも感じる時がある
モーツァルトの不思議は聞き流しても、また真面目にきいてもそれなりに
いやそれなりどころではなく楽しめるが
何故かK334の嬉遊曲は、音楽だけに向かうような聴き方はしてはいけないのではないか
と思ったりする(K300台は結構傑作、好きな曲が多い)
もともとこの曲は演奏会用ではなくて、ながら、、を前提にしていた曲なのかもしれない 
しかめっ面してK334に対峙して演奏がどうのこうのいうのは
楽しみ方としては損な方法で、気楽に聞くのが一番の楽しみ方
と勝手に想像してしまう

音楽に向かう時意識を集中して聴くほうが楽しみが得られる事が多いが
現代音楽の中で好きなメシアンの場合
彼はテクニック的にリズムがどうの音色がどうのと言っているが
鳥が活躍する場面とか、鳥そのものが主役の「鳥のカタログ」などは
何も考えずなすがまま響いている音に身を任せるだけ
前後関係もニュアンスも、そんなことは考えずに自然のなかで
鳥がさえずっていて自分がその中にいるだけと想像するとこれが心地よい

今年のラ・フォル・ジュルネでは「鳥のカタログ」のプログラムがあって
興味がそそられたが、もしかして生でこの曲を聴いたら
そんな聴き方はできなかったかもしれないが、、

ブルックナーも響きに身を任せたほうがいいかもしれない
最初は8番も終楽章などは何処に向かっているのか分からないで
イライラしたりしたが、聞き慣れてくるとこの混乱ぶりも気にならなくなってくる
そして、無駄な意識的な集中はやめて音に身を委ねるととても陶酔的な気分になる

集中したほうがいい曲、作曲家
身を任せたほうが良い曲、作曲家
ながらでもいい曲、作曲家  いろいろあるものだ
そういえばつい勢いで聴いてしまうロックの分野でも
真面目に(?)聴くともっと楽しめたりすることが ある

ま、こんなことはどうでもいいことだけど
日曜の朝、毒にも薬にもならないつぶやき、、、 

 

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首長が書いた本

2016年05月21日 08時40分29秒 | 

ある人から2冊の本を借りた

いずれも首長の書いた本だ
左は現新城市長が、右側は本を貸してくれた人の出身地(今は新城市民)の
長野県の小さな村(泰阜村)の首長さんの記した本だ

左側は、自分が新城市民でもあるし、また少し理由があって
読まなければならない気持ちになっていたので(買ってまでは読みたくない)
正直なところ借りられたのは助かった

本の高い評価が、もう一度繰り返して読みたい と言うものであったとしたら
右の「安心の村は自立の村」はその例の一つだ
何も難しいことを言っているわけではない、自分のやってきたことを述べているだけ
だが、それが、その行動力、熱意、知識についつい惹き込まれて
ページがドンドン進む
そして先へ先へと速く進みたいために、つい読み方が雑になったこともあるが
それでも、何度でも読み返して勉強しようと言う気持ちにさせられる

小さな村だからこそできたということもあるかもしれない
それがそのまま、新城市に適応できるかどうかは疑問かも知れない
それでも、参考になることはいくらでもある

この本の中の内容は

現実的、しかも行動力、それも村民納得の上で!
少しばかり例をあげて紹介しようと思ったが、
いろいろ浮かんできすぎて、もう一度読み返さないとまとまらないかもしれない

こんな風に感動したものだから、自分が関与しているグループに
以前、前松坂市長を招いて勉強会をしたように、次はこの本の著者である
松島貞治氏を招いて話を聞いてみたいものだと提案してみた 

ところが、この方は自分は知らなかったが有名な人らしく
既に何かの機会で新城市にも来ているらしかった
でも、現実的な話が聞けそうだし、、
それにこの本は勉強の材料として使えそうだし

さてもう一つの本「自治する日本」
あの人の話している声をついつい思い浮かべながら読んだ
雄弁で淀みなく広範な知識はいつものようだ
(この辺りは素晴らしい才能)
でも読み返そうとは思わなかった

自分にとっては首長の実績に基づく内容と想像していたのが
彼による民主主義の講義の様に思えて仕方なかった
もちろん自分の行ったことも記している
だが、それもまるで当事者の実践からにじみ出た話というより
概念的なくくりの説明に終止していたように感じる
また、よく調べると先端を走っているような施策も
実はまだ少ないがどこかでやっていることを素早く取り上げているに
過ぎないと感じられた
急いで先端を走って取り入れるものだから、その施策に対する理解や
共感が市民間に広がっていない
現実に「地域自治区」の制度はたまたま自分が副区長の時に
公民館で組長を集めて市から説明があったが
その時の組長さんの反応といえば  何が何だか分からないというものだった
そして今は地域自治区の本質的な理解が進んでいるかといえば
どうもお金の使い方を見る限り、どの地区も前年を踏襲したり
オリジナルな各地区ごとの使い方にはなっていないようだ

文体には人間性が出るものだ
前松阪市長も泰阜村村長も、熱意とか誠実さとか感じられるが
あの人のはいくら雄弁でも心を打つものがないと感じるのは
偏見を持ちすぎているせいか
(それじゃイカンとは思いつつも、、、) 


 

 

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ひっそり(?)報道されたニュース

2016年05月20日 08時26分31秒 | あれこれ考えること

昨日、ひっそりとSTAP細胞関連のニュースが報道された
一応、新聞各紙、NHKでも報道されているから
内緒ではないだろうが、このニュースを知っている人は
どのくらいいるだろう

そのニュースとは、
理化学研究所の研究室からES細胞(胚性幹細胞)が盗まれたとして
理研OBが告発していた問題で、神戸地検は18日、
「窃盗事件の発生自体が疑わしい」として容疑不十分で不起訴処分とした。
 

という内容のもの
別に小保方さんの味方をするわけでなないが、この件で神戸地検に
小保方さんが事情聴取をするときにはメディアは、神戸地検に入っていく
彼女の映像を流している 
それは盗んだのが彼女と暗示させるもの
(もしかしたら告発者が具体的な名前をあげていた?)

しかし結果は、「窃盗事件の発生自体が疑わしい」
これは、限りなく怪しいが証拠がないだけ!というものか
それとも、そもそもこの告発がとんでもないものだったのか
正確なところは分からない

しかし、結果的、イメージ的には犯人は、、、
と植え付けられている
メディアは先走り、他社に先立って報道したいとか
どこか胡散臭い正義を語る雰囲気がある

しかし、今のメディアは優先順位が真実を伝えるというより、大衆の喜びそうなものを
(勝手に想像して)伝える方に重心を置いているように見える
慌てて報道したためにとんでもない間違いを起こした例に
松本サリン事件がある
オウムが関与したことが明らかになるまでは、河野さんが犯人扱いされていた
河野さんは、その為に不自由な生活を余儀なくされた

メディアは真実が明らかになった時、一体何をしただろうか
(お詫びとか謝罪とか)
そしてその反省を踏まえて、二度と同じようなことを繰り返さない様に
どうすべきか検討されなかったのか

話は戻って、ひっそりと伝えられたニュースがもう一つ

放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会は(4月)28日、STAP細胞論文を検証した番組「NHKスペシャル」で人権侵害を受けたと申し立てた小保方晴子氏から事情を聴いたと明らかにした。26日の臨時委員会で弁護士2人と出席した同氏から委員9人が聞き取りをした。
番組は2014年の「調査報告 STAP細胞 不正の深層」。同氏は「ES細胞を盗んで実験をしたとの断定的なイメージで番組が作られた」と主張。NHKは「人権を不当に侵害していない」と反論している

つまり、これも後になって、あれはどうだったのか?
と考えなおすというもの
しかし、多くの人は情報はその時その時で消費していき、詳しい内容というよりは
おおよその内容だけ記憶にとどめる傾向がある
その意味では、後から反省や修正がされようが、出来上がってしまったイメージを
覆すのはほとんど無理に近い
だからこそ、メディアは正確なことを伝えなければならないうのだが
それができていないとすると、、、

どうも、最近のメディアはいまいち信用できなくなっている
それは安倍さんの圧力と言うよりは、もっと別の要素
報道に携わる人達の人間力、モラル、教養の欠如ではないかと思える
こんな情報を大衆は喜ぶ!と判断する、その人間性に問題はないか

しかし勝手に想像されて提供された情報を喜んでいる
多くの人がいるのもこれまた事実 だ
世の中が、反論の余地もない正論ばかりの真面目な情報では息が詰まって生きにくいが
それでも、もう少し良いバランスの報道を望みたいものだ
今は本来ならアンダーグランドで扱われるべき話題が大手を振って表に出ている
と思うのは歳のせいか


 

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上司の命令

2016年05月18日 08時51分47秒 | あれこれ考えること

ある人の書いた本を借りて読んでいる
その90ページに

地方自治法で行政職員は首長の「補助機関」と位置づけられていて、
選挙で選ばれてきた独任官たる市町村長の手足となって働くことが
期待されいます。もちろん以前は国の事務も指示されていたので、
代行機関の面も持っていたわけですすから、国ー地方を貫く「お役人」
の総称の中に括られていたことにもなります。
つまりは統治機構の末端を担う役割ですが、国ー地方の関係が変わっても、
あくまでも首長の指揮下で行政事務を執行するのが本務です。 

の一文がある
なんてことはない、ごく当たり前のように思われるこの一文だが
少し気になったのが、職員は首長の手足となって働くと言う下り

もし、首長が職員の個人の判断と違う命令をした時
あるいは職員が普通に考えて無理筋と思われることを首長が要求した時
行政職員は手足となって、上司の言うとおりにしなければならないか?
拒否したり、指示を考えなおすように要求したりすることができるか
それに対する法的な縛りはあるか
ちょっと気になった

いくら首長でも間違っているものは間違っている
と職員が勇気を持って正せばいいと簡単に部外者は考えてしまったが、
もしそれが法律的にできないとすると、それはどういう法的な縛りなのか

新城市は新たに職員になった時に宣誓書に署名することになっている
「わたくしは、主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し、かつ、擁護することを誓います。
わたくしは、地方自治の本旨を体するとともに公務を民主的かつ能率的に運営すべき責務を深く自覚し、
全体の奉仕者として誠実かつ公正に職務を執行することを誓います。」 

これもサラッと読めば、なんてことない
しかし国家公務員の宣誓書を読むと、少し印象が変わる
私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。

国家公務員の方は「上司の職務上の命令に従い」の言葉が入っている
ところが新城市の方は「上司の、、、」の言葉は入っていない
調べてみると、地方自治体はみんな新城市と同じようなもので 上司の言葉は
入っていないようだ

ところが、地方公務員法と言う法律は、国家公務員法とそっくりな法律で
第三十二条  職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

ここには、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならないと書いてある

しかし現実は地方公務員である職員の宣誓書には、この上司からの言葉は入っていない
こうなると、なぜ入っていないかが気になる
普通は右に倣えで、国家公務員の地方公務員版の様に安易にコピペみたいに
進められていくそうなのに、ここでは意図的かどうかわからないが入っていない
となると、入っていない何らかの理由がありそうと考えてしまう

細かいことをごちゃごちゃと述べてきたが、自分の一番の知りたいことは
上司の指示が市民感情、生活者の感情として受け入れられないものだった時
職員は何ができるかということ

気の強い人なら、特に考えもせずに誰に向かっても「それは違う」と言い切ることは
できるかもしれない
しかし、大半の人はきっとそうではない
まして法律上(地方公務員法)では上司に従わないといけないとなっている
だが、宣誓した内容は少し地方公務員法の内容と少し違う

これは単に法律上の不備のせいだけなのか
それとも何か意味あることなのか

一般市民感情とすれば、なんとなく公務員は上からの命令によって動いている
ことは想像がつく(公務員だけじゃないが)
でも、その命令が間違っているときは間違っていると言えばいいのに
と思ってしまうし、それを期待してしまう
そしてそのことこそが全体の奉仕者の役割とも考えてしまう

でも現実はできないということが、この一年の経験でものすごく
よく分かった
職員は自主規制か法的な縛りか、またそういうものだと言う空気のせいか分からないが、
もしかしたら思考停止の状況で作業を続けているだけなのかもしれない

仕事が作業ということになった時、アウシュヴィッツ収容所が「死体製造工場」という
作業所になった時、思考停止でルーチンワークができたという事実はある意味怖い
法に則って行動しているだけ、そこに個人の判断の入る余地がないとすると、、、

と言っても、みんながみんな勝手なことを考えて行動すればまとまらないし
う~~~ん、自分の頭ではまとまらない

くどいけど、なぜこんなことをグダグダ繰り返しているかといえば
単純におかしいと持ったことは、おかしいと職員のひとにも
声を上げて欲しいということ  それだけのこと!



 

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過去(太平洋戦争と戦争)に学ばなければ!

2016年05月16日 11時43分35秒 | あれこれ考えること

今は少し落ち着いたが、先日から読んでいた「太平洋戦争と新聞」は
読んでいくうちに気分が落ち込んでいくものだった

(現在は付箋は画像よりもずっと多い) 

大事な昭和史を自分が殆ど知らなかった
ということもその理由の一つだが
それにもまして、新聞という一種の権力が、結局は何もできたかった事実を
思い知らされるからだ

新聞というものは「戦争」によって販売部数が伸びたという事実
「新聞は商品である」 という開き直りは、現在我々が、わずかに期待している
新聞の信頼性とか権威が、実はそれほど当てにならないものかもしれない
と言う考えに結びつく

ただ新聞も可哀想な面もあった
不買運動や紙の支給の制限、テロへの恐怖、そして法的な数々の制限
その中で働かなければならない新聞社社員が、家族を持った一庶民と考えると
彼らを特別な人間として扱うことが、少し無理なのかもしれない
しかし、どうしてもその立場の人に対しては我々は期待してしまう
彼らは何か使命感を持った特別な人達であると、、、 

もちろん骨っぽく生き抜いた人もいた(桐生悠々)
しかし世の中は一旦その流れになってしまった勢いはどうにもブレーキがかからない

国際連盟脱退を役割を果たした松岡祐介を日本は大喜びで迎えたり
中国に対しては、「懲らしめる」といったような上から目線に同意したり
力的には完全に勝ち目はない、現実的ではないのに、
精神力で乗り越えようとする方針に安易に乗ったりする国民
国民に蔓延する空気はどうだったか
(空気がどのように作られたか、新聞の力だったか?) 

この時期の新聞のトーンは、現在北朝鮮がやたら大げさな表現をしている姿とそっくりだ
自国を守るためにという理由付けも、悲しいくらい似ている
誰かが言った「戦争は自国を守ると言う理由で始められる」 

現在、戦前と同じことが繰り返されそうな不安が湧き上がってくる
だが少なくとも今の時点なら、まだ何を言ってもいられる
のんきに見えるかもしれないが、言えるうちに言っておかないと
緊急の事態を作らないように(それを想定したとしても)ブレーキをかけなければ
そのうち何も言えない状況ができてしまう

日本人は結局忘れっぽくて、過去から何も学んでいないのではないかと思ってしまう
自分は心配性すぎるか?

 

 

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エレーヌ・グリモー ピアノリサイタル

2016年05月14日 18時34分08秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

きれいな人だな

別に言い訳する必要はないのだけれど
今日名古屋芸術劇場コンサートホールに
出かけたのはエレーヌ・グリモーが美人だからではない
この人の指向性が面白いと思っていたから
機会があったら聴きたいと思っていた

指向性?なにそれ!
フランス人なのにフランス音楽でなくドイツ・オーストリー音楽に
共感を感じていること、それにオオカミと暮らしているという
ちょっと変人ぶりは興味をそそる
それにYoutubeでみると音楽に陶酔している姿が半端地じゃない
ということで、自分に言い訳して、お顔が見えない席で聴いた

でもリサイタル終演後にサイン会があってCD購入者と握手できるんだったら
間違いなくCDを購入していただろうな
どうも自分は国はドイツが好きなんだが女性はフランス人が好きみたい
ジュリエット・ビノシュもなんか好きだし、、、

プログラムはかなり変わったもの

最近発売のCDをメインとしているらしいが、演奏の曲順は変わっているとのお知らせがあった
曲順が変わっても変わらなくても、この中の曲は殆ど知らない
僅かにドビッシーの「沈める寺」を知っているくらい
(知らない曲ばかりでチケットを買ってしまうとは、やっぱり美人の力か)

入口で配られた曲の説明のパンフもあまり真剣に読まず
演奏を聞いて感じることを大事にしたい

前半の部
ベリオは現代の作曲家と記憶していたが
最初の2つの音は現代音楽というより、あれっ!と思うほど素直で聴きやすい
が、それでも時間が経つとやっぱり複雑な感情のこの時代の音楽を感じさせる
(おおらかな旋律もあったが)
曲を知らないので、続く楽章があるのかないのかわからない

休みがあるかなしで違う曲が始まった
低音の使い方が、日本っぽいと言う感じがしたから武満?
なにか船に揺れてる感じだから舟歌っぽい(フォーレ)
キラキラ水面を感じさせる曲だ(ラベル)
そういえば、グリモーさんのアルバムは「水」をコンセプトにしたもの
なにかロックのコンセプトアルバムみたいな感じ

この辺りになるとプログラムにどんな作曲家があるか頭になかった
でも、どこかラテンぽいぞ  きっとスペイン絡み?(アルベニス)
これまた水のたわむれを感じる  でもオクターブをいっぱいに使うから
リストっぽい (リスト)

これはわからなかった(ヤナーチェック)
やっぱり知っている曲は聴きやすい(ドビッシー) 
ドビッシーは独特の音色というか特徴がある

でもこれだけ知らない曲が続くと、不意にキース・ジャレットの
ソロライブを思い出した
何十年も前、やはり名古屋の千種でソロコンサートを聴いた時も
演奏されたのは知らない曲、
というよりその時初めて演奏される曲、
その時と同じように初めての曲を楽しむことにした

でも集中が続いたのはライブだから
CDだときっと無理かなという気持ちは拭い切れない

15分の休憩の後はブラームス
エレーヌ・グリモーさんはブラームスが好きなのかな
Youtubeでもブラームスのピアノ協奏曲を演奏しているのがアップされている
自分はブラームスはそれほど好きじゃない
(3Bはバッハ・ベートーヴェン・ブルックナーでブラームスじゃない)

まずは聴いてみようと耳をすませる
勝手な連想が浮かぶ
ブラームスはかわいそうだな
いろんな可能性は全部ベートーヴェンがやってしまった
あとに残された彼は何をすれば良いのか、、、

なにか男らしい迫力のある音形と音響が続くが
なぜかブラームスはあまり男っぽくないな
モーツァルト・ベートーヴェンは男っぽい
でもその風貌と音形の割にブラームスは弱々しいところがありそうな、、
何の根拠もない勝手な連想、、

プログラム終了
グリモーさんは丁寧にお辞儀をする
それはゆっくりと柔らかく、まるで柔軟体操のよう
残念ながら(本当に残念ながら)お顔をよく見れなかったが
あのお辞儀が心打って、拍手をちょっと力を込めてした

アンコールはあった
あるとしたら何かなと考えたが
勝手に連想するより聞けば分かること
最初は、、、ピアニスティック  しかも幅広い音程
ラフマニノフかな  が第一感
もう一曲も同じ印象
次は、ひらめきのないもやもやした、
しかし男っぽく表現しようとしているからブラームスかな

最後は、妙にピアノが鳴るというか音が出やすくキラキラしてるから
多分ショパン

そんな風に予想したが、帰りのアンコールの曲名がかかれたものを見て
 

 大当たり!
なんか嬉しかった
昔はNHKFMで演奏途中から聞いた音楽の演奏者・年齢・国籍を
想像して後で答え合わせをするのが楽しみだったが
その時のことを思い出した

で、帰る時、CDは買わなかった
サイン会がないためじゃなく、最近はCDの音が
なぜかきつく感じられて仕方ないので 、、、

 

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元気な樫の木

2016年05月12日 08時46分12秒 | 徒然なるままに

自分の生まれた季節が好きな人が多いという
冬に生まれた人は寒さに強いとか
根拠はないが、ついそんなふうに思ってしまう

自分は5月生まれだからこの時期が一番好きだ
風光る、とか薫風とか、そういった言葉に代表される季節感
湿気の少ないくっきりした、まるで高原にいるような感覚の光
本当に気持ち良い

庭は冬眠からさめて一気に葉が勢いを取り戻している
元気な木のシラカシ(多分)

常緑樹で一年中健気に頑張っているが、この時期は
何かムチを入れたような元気さだ
後から後から出てきて、すこしむさ苦しい感じがしないでもない
同じ常緑樹でもソヨゴ、カクレミノは我が家では元気が今ひとつ

昔、家族から聞いた話で世間では当たり前のことらしいのだが
庭に樫の木や花梨の木を植えるのは
「貸し」と「借りん」を連想させるかららしい
お金は貸すけど借りない!
お金に困らないことを願ってのことらしい 

我が家には、昔から花梨の木もある
実はこの木、個人的には 好きじゃない
木肌がケロイドみたいですこい気味悪く感じる
でも、今は葉がいっぱいに繁っているせいで気にならない 
 

葉が茂る、木陰ができる、花が咲く、実がなる
そうすると虫達がゴソゴソと活躍しだす
蜂や蜘蛛が、そして蝶も 
もっと気をつけるとまだまだいろんなものが見られるかもしれない
鳥くんたちにも来てもらって、そこでくつろいで鳴き声を聴かせて欲しいものだ
(もしかして、今でも早起きすれば鳥くんたちの活躍も見たり聴いたりできる?)

 

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メディアリンチ

2016年05月11日 08時44分38秒 | あれこれ考えること

朝の時間はなんとなくテレビをつけている
そこで、「ゲスの極み乙女」の川谷絵音氏が離婚したと 
報じられていた(昨日)
ゲスの極み乙女というバンド(?)は知らないし、
音楽も当然そのメンバーである川谷絵音氏も知らない
このニュース関連で知っていることといえば僅かに
ベッキーというタレントが川谷氏と不倫関係にあったらしいということだけ

でも正直なところ、そんなことは自分にとってどうでもいいことで
そんなニュースは見たくも聴きたくもないのでチャンネルを変えたら
別の局でも同じ様な川谷氏の画像が目に入った
少しイラッとしてまた別のチャンネルに変えたら、すると今度も同じテーマで
騒いでいる

結局呆れてテレビを消して、自分のやるべきことに移ったのだが
同じ時間帯に、民放が同じような話題を取り扱っている
しかも同じようなトーンで 
こうしたシーンが幾度と無く節操無く繰り返されている現状
少し異常ではないか

難しい政治や経済の話よりはこの程度のことで騒いでいる方が
平和だということを現しているという考え方や
芸能レポーターという職種の人たちのそれなりの苦労や努力、実力を
認めていないわけではない
でも、やっぱりそれはどうでもいいこと

どうでもいいことか、いいことでないかは
テレビ局は視聴率という物差しで判断する
視聴率が取れそうな話題や伝え方は良いことで
そうでないものはどうでもいいこととなるようだ
そしてそこには、正しい報道がありやなしやはあまり関係のなさそうだ

テレビ局のどこか分別くさい他人を批判する姿勢は
今までにもたくさんあって、それはメディアリンチというらしい

このメディアリンチの最たるものの一例がSTAP細胞騒動

昨日久し振りに大きめの書店を覗いたら、やっぱり本屋は良いな
世の中には、本当にいろんなことを考え、表現する人がいるものだ
と実感する
そして、ブラブラと背表紙を眺めながら読む候補を探す
小説ではウンベルト・エーコの「プラハの墓地」
オルハン・パムクの「黒い本」(どちらも厚すぎるし高すぎる)
それから先日の読書でその存在を知り気になったホッブスの「リヴァイアサン」
それから今になって微分積分の意味を知ってみたいと思って
おさらいのようなその手の本

しかし結局購入したのは「STAP細胞はなぜ潰されたのか」
渋谷一郎氏がビジネス社から出版されたものと別の分野の一冊
STAP細胞関連の本は、これで4冊目「あの日」「捏造の科学者」
「STAP細胞残された謎」そしてこの本

さすがに4冊ほど読んでいくとそこで扱われている概念や現象、考え方などが
少し分かるようになる
昨日の求めた 「STAP細胞はなぜ潰されたのか」は結局一気に読み飛ばしてしまった

これは「あの日」が書かれた後に出された書籍
そして内容は科学の分野というよりは、この騒動のおかしさの方に力点がある
自分が意外に(こんなふうに言っては失礼だが)面白かったのは
「あの日」よりも先に発行された「STAP細胞残された謎」
この本は、科学的な要素を事細かく説明していく
それを読むと一連のテレビ報道が事実だったのかという疑問が起きてくる

知っている人は知っていいるが、
知らない人は第一印象で間違って覚えていることに
若山さんの「自分自身が作成したSTAP幹細胞を解析したところ
自分の研究室にないマウスだった」という言葉から類推される
なんとなく小保方さんが違うマウスを使ってインチキをしたような印象をあたえる事柄

実は、若山さんが分析を依頼したのは友達関連の人で
この解析自体が信用できるものではないと理研は答えているし
後に若山氏も自分ところのマウスの管理が乱雑だったので
はっきり自分が渡したものと違うとは言えない
と訂正している

問題はこの部分、違うマウスで作られた
と一般の人には印象付けられた
しかし、その後に、「あれは必ずしもそうだはなかった」と言っても
今度はメディアは扱わない(扱っても最初の印象を覆すほどの扱いはない)

話は飛ぶが湾岸戦争の油まみれの水鳥
これはフセインが油田の口を開いて原油を垂れ流したせいで油まみれに
なったと印象付けられたが、その実態は全然違う別の場所で撮影された
映像で、最初の報道は違うことを一応伝えたが、広く一般の人までには伝わっていない
つまりどんな時も最初のインパクトの有る印象をを覆すことは難しいということ

STAP細胞騒動のきっかけは、理研の発表からすぐにインターネット上で指摘された
画像の不正流用等だが、この発表からあまりにも速い指摘に疑問を感じたのは
武田教授だけではないようだ
そのインターネット上の指摘は「Pubpeer」という研究者向けの匿名投稿サイト
だったようだが、それ以外にも猛烈な一方的なリークが行われ
メディアはそのリークを信じ、その路線で物事の解釈報道を進めていき
反論の機会、立場を与えることなく批判した

いったいメディアは本当のことを伝えているのだろうか
メディアを本当に信用していいものか
ここの部分がどうしても気になる

このメディアへの疑問が、今読んでいる「太平洋戦争と新聞」につながる

メディアは人の求めているのもを伝えているだけなのか
それとも、人が求めそうなものを報道しているだけなのか
ひとの作り出す空気は自然発生的なのか
それともメディアによって作られるものか

ところで話題になりつつあるパナマ文書
メディアの伝え方の方向性は、いろんな視点からあってしかるべきだろうが
きっと日本は、誰かが口を開いたら 
それに追従のような伝え方をするんだろうな、、 
と予想するが、、果たして
 

 




 

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読みかけの「太平洋戦争と新聞」

2016年05月08日 16時34分32秒 | あれこれ考えること

午前の投稿があまりにも幼稚で情けないものに思えてきた
「太平洋戦争と新聞」
これを読み進めると、すごい迫力というか、空恐ろしい感じがしてくる
迫り来る重々しい何か嫌なものが心を暗くする
満州事変、リットン調査隊の報告に対する新聞の報道、
五・一五事件に対する大手新聞の行動
ご都合主義の報道のこれらを読んでいると、現在の北朝鮮の姿を連想する
何の事はない、かつて我が国も今の北朝鮮と同じだったのかと
(もっと怖いのは、今も知らず知らずその方向に向かっているのではないかと思えること)

五・一五のテロの効果が世界を一変させてしまった
(このテロについてはハンナ・アーレントの全体主義の起源のなかにも
 豊富な資料の中から扱われている)
しかし、すごい人物はいるもので大手の新聞が「新聞は商品である」
と開き直ったと思える状況下で、福岡日日新聞の菊竹六鼓という人物は
完全に軍部に批判的な記事を書き続けている
この人は完全なリベラリストというわけでないが信念として
自分が正しいと思うことを伝えようとする意志が強い
(左翼に批判的な言を書くなら同様に右翼にも批判的な記事を書くべきとも言っている)
軍部からの脅迫や不買運動の圧力もあった
しかし、会社も大したもので新聞発行の意味を覚悟を持って
実行している
(不買運動や弾圧で会社が潰れそうと心配し穏便な記事を依頼した社員に、
馬鹿なことを言ってはいかん、日本がつぶれるかの問題だと一蹴したという) 

少し関係ないかもしれないが、この菊池六鼓という人物の後輩の若い記者に対する口癖が
「ウソは絶対書くな。新聞がウソを書けば、多くの読者が本当と思うので影響は大きい」
と記されている
この本の本質とは離れるかもしれないが、記憶に残るフレーズだ

自分の中学・高校時代も昭和史は丁寧には扱われなかった
時間切れ!のような扱いで、ただ表面をなぞっただけで終わってしまった
ところが、今こうして改めて、ほんの少しだが興味を持ってみると
これは次に活かすべき事柄が、本当に反省して二度と繰り返さないための
ポイントがいくらでも見つかることに驚く
歴史に学ばない国家は滅びる
日本は(と地方都市の小市民が大げさに取り上げても意味は無いかもしれないが)
本当に痛い目をして何を学んできたのだろうか

読みかけの本は、まだ半分位に達したところ
はやく読み終えたい気持ちと、じっくり頭に入れるように読みたい気持ちが両立している
読みながら付箋をつけるようにしているので、とりあえず速く読み終えるようにしようか
 

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「太平洋戦争と新聞」

2016年05月08日 08時10分28秒 | 

ここでは新聞のことが主に、そして一部雑誌のことが書かれている

内容はタイトルそのまま 
なぜこんな本を読み始めたかと言えば、実は最近の政府のメディア規制ではなくて
自分が実体験として感じたメディアの違和感とか最近の報道のあり方への疑問からだ

具体的に言えば、新城市の住民投票から市長リコールにつながる一連のメディアの報道は
正確だったか?という点と
それに基づいた市民の考え方はどのようになったかということ 

もう一つは以前にも取り上げたが、STAP細胞の報道の仕方と世間の雰囲気のこと
これがどちらも一方的で、正しくは伝えられていなかったのではないかという疑問が
拭えないでいるからだ

つまりはメディアの役割はどうだったのかということ
そしてその結果作り上げられた空気はどんなものだったのかということ 

もちろん、もっと大事なことは時々聞こえてくる「現在は戦前の雰囲気に似ている」
という指摘に対して、何か参考になることはないかと思ったこともある

戦前、メディア(この当時は新聞・雑誌)は戦争反対の報道をしなかったのか?
一般の人は戦争反対の運動をしなかったのか?
できないとしたら、その当時はどんな空気が支配していたか 
これらは、単純に疑問だった

読んでいる部分はまだ序の口の部分だが、
メディアは最初からイケイケの調子ではなかったようだ
それが変わったのは満州事変以後
この時期でも肝っ玉の座った言論人がいて、勇気・信念をもって批判した人物はいた
しかし、新聞発行と言うのは一企業の営利の行為で
不買運動や言論統制や蔓延する庶民の空気には弱い

一般的に物事が始まってしまったら、どうせなら決めた方向に
うまくいくように努力すべきとの考えが支配するようになる
(フォルクスワーゲンも三菱も一旦不正をするという判断をしてしまったら
 バレないように、整合性のあるようにしようとする
 そして多分、官公庁でも計画に矛盾のないような
 数字をつくりだそうとしたり、解釈の定義を変えようとする
 もしかして、警察も検察も?)


現実には庶民に蔓延する空気はメディアによって醸しだされることが多い
そして庶民はどうしても正しい情報よりは自分のお気に入りの情報を
求めたがる傾向がある
(野球の試合でも贔屓のチームが勝った翌日の新聞は繰り返し読んでも、
  負けた時は見たくもないと言った傾向はごく普通に存在するのではないか)

つまりは庶民という存在は、正しい判断をしない可能性があるということ
この事実は踏まえておかないといけない

ドイツでは憲法改正に関して、日本と違って国民の総意を
確かめるということはないらしい
なぜなら、集団の暴走のリスクを身にしみて経験したからで
昔の人は、ドイツに限らず大衆の暴走の可能性を認識していて
あるときはポピュリズムといったり衆愚政治といって
その危険性を指摘している

主権は国民にある
その主権の持ち主、国民は常に正しい判断をするか
実はこれが問題
この判断の基準となるのが情報となるのだが
この情報が既に何かの方向性を持った味付けがなされているとしたら、、、

一番危険なのは、人は無条件に新聞の報道していることは正しい
テレビの行っていることは正しいと思い込んでしまうこと
それが特に自分の気持ちとフィットするような(他人の悪口を言うような)場合
なおさらだ
その時は新聞記事や放送されたことが、まるで既成事実のように引用されたりする
(単なる報告に過ぎないのに) 

今でも自分の中で整理できていないことは
民意が正しいかという点
本当に民意に寄り添って進めていって良いものかという点

自分がいい加減な人間だから、自分の判断などは自信を持って正しいとは
なかなか言えない
だから誰かの意見に従うほうが楽なのだが、今度はその人が正しいかといえば
その正しいという根拠は大勢の人が支持しているからということになりそう
しかし、この大勢の人の意見というのは、、、

結局、なにか堂々巡りしそう

ま、こんな面倒なことをあれこれ詮索しないでも
大概大概のところで、気持ち的にまあまあうまくやっていてくれてる
といった状況であれば一番いいのだけれど

話は最初に戻ってこの本「太平洋戦争と新聞」は
メディア関連の人には読んでおいてほしいものだ
「過去から学ぶ」 ということは、どういうことか
これから起きる可能性のあることを予め予想して対処する
それができなければ、また失敗を繰り返してしまう

連休最終日というのに、いつもの訳の分からない話になってしまった
ま、いいか!


 

 

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