車では当たり前のように音楽を聞いている
パソコンに向かっている時も
音が欲しくて、CDをかけっぱなしにしている
いわゆる、ながら聴取で音楽に心を奪われているわけではない
好きな曲がかかっていると心地よいし
特にあれこれ考えることもなく、そんなものだと思ったりする
ところが、聞き流していた音楽を
いざ集中して聴こうとすると脳に入ってくる情報量が全然変わってくる
ジャズなどはニュアンス・気合・熱気・合わせる時の微妙さなど
それだけで面白くてつい惹き込まれてしまう
クラシック音楽はまじめに聞くと聞こえていた音の数が増えてくる
単なるリズムを刻む伴奏のような音、対旋律のニュアンス
次の過程に移行する準備のような音形 、そして会話のような楽器間のやり取り
更に時間経過の芸術としての前後関係のまとまりなど
それらをなんとなく感じることができる
ベートーヴェンの音楽は田園でもまじめに聞くとシンフォニックで
イージー音楽とは違う分野の音楽
多分ベートーヴェンの曲はまじめに聴いてこそ面白さが感じられると思われる
大好きなモーツアルトはどうか
これがなかなか難しい
モーツアルトは聞き流しても良いみたいだし、時にはそうすべきじゃないか
とも感じる時がある
モーツァルトの不思議は聞き流しても、また真面目にきいてもそれなりに
いやそれなりどころではなく楽しめるが
何故かK334の嬉遊曲は、音楽だけに向かうような聴き方はしてはいけないのではないか
と思ったりする(K300台は結構傑作、好きな曲が多い)
もともとこの曲は演奏会用ではなくて、ながら、、を前提にしていた曲なのかもしれない
しかめっ面してK334に対峙して演奏がどうのこうのいうのは
楽しみ方としては損な方法で、気楽に聞くのが一番の楽しみ方
と勝手に想像してしまう
音楽に向かう時意識を集中して聴くほうが楽しみが得られる事が多いが
現代音楽の中で好きなメシアンの場合
彼はテクニック的にリズムがどうの音色がどうのと言っているが
鳥が活躍する場面とか、鳥そのものが主役の「鳥のカタログ」などは
何も考えずなすがまま響いている音に身を任せるだけ
前後関係もニュアンスも、そんなことは考えずに自然のなかで
鳥がさえずっていて自分がその中にいるだけと想像するとこれが心地よい
今年のラ・フォル・ジュルネでは「鳥のカタログ」のプログラムがあって
興味がそそられたが、もしかして生でこの曲を聴いたら
そんな聴き方はできなかったかもしれないが、、
ブルックナーも響きに身を任せたほうがいいかもしれない
最初は8番も終楽章などは何処に向かっているのか分からないで
イライラしたりしたが、聞き慣れてくるとこの混乱ぶりも気にならなくなってくる
そして、無駄な意識的な集中はやめて音に身を委ねるととても陶酔的な気分になる
集中したほうがいい曲、作曲家
身を任せたほうが良い曲、作曲家
ながらでもいい曲、作曲家 いろいろあるものだ
そういえばつい勢いで聴いてしまうロックの分野でも
真面目に(?)聴くともっと楽しめたりすることが ある
ま、こんなことはどうでもいいことだけど
日曜の朝、毒にも薬にもならないつぶやき、、、