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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

官僚に関する本(一部抜き出し読んでみた)

2017年03月15日 20時16分41秒 | あれこれ考えること

官僚、あるいは職員の考え方なり行動様式が気になっている
そこで官僚に関する本(官僚の反逆・権力と支配)を読んでいたら
付箋を付けたい部分が見つかった

まずは「官僚の反逆」中野剛志著から

まず官僚は規則の拘束の下で職務を遂行し、「非人格的な没主観的目的」----つまり「だれかれの区別をせず」----に奉仕する義務を負う。こうした官僚のあり方は、封建社会における主従関係と対比すると、その近代的社会に固有の性格がよりはっきりする。

封建制度では家来が領主などある特定の一支配者との間に主従関係を結んでいたのである。これに対して官僚の忠誠心が向けられるのは、特定の人格ではなく「国家」あるいは「企業」といった非人格的で客観的な対象である。官僚は、特定の人格に仕える家来とは違って、「だれかれの区別をせずに」仕えることができる。したがってもっとも純粋な官僚とは自動化されたマシンのようなものなのである。

規則に従って事務処理をする官僚制の特徴は、その作業の迅速さと精確さである。かつては名望家が行政事務を兼務していたり、会議によって行われていたりしたために、事務処理には時間がかかり、また精確さを欠いていた。しかし近代社会では専門的に訓練された官僚が、一律の規則に従いつつ作業を分割して処理するために、事務処理は効率的で迅速に遂行される。

官僚は没主観的目的に向けて(だれかれの区別をせずに)事務作業を自動処理する。これは「計算可能な規則」に従って事務処理を行うことを意味する。この計算可能性こそ官僚制化現象の重要な特質である。さらには近代社会を支配する価値観としてウェーバーが抽出したものである。

だれかれの区別をせずに、主観的な判断を入れずに迅速に物事を処理するには客観的な判断基準が必要になる。そのためには、判断基準を定量化・数値化することである。物事を数字で判断とするということは官僚個人の主観的価値判断や感情が排除されるということである。なぜなら主観や感情は定量化できず計算可能ではないからだ。まさに官僚の採用自体が、計算可能な規則に従っている。官僚は、属人的なコネや人事担当者の好き嫌いではなく、試験の成績という定量化された中立的な判断基準に従って、公平に作業されているのである。

なるほど、分かる気がする
まだまだ気になる部分が続く 

間化こそが美徳

官僚が中立的で公平な判断基準に従っているということは一般的には望ましいものと考えられている。確かに行政が特定の政治家や政治家集団の利益追求に偏向せず国民全体の利益を考慮するという意味での中立性や公平性は、望ましいものである。しかし、もしこの公平性あるいは中立性が、官僚が一切の主観や感情を交えずに、定量的な規則に従って淡々と事務を処理することだと理解された場合には、どうか。それは官僚を「間化」するという意味になってしまう。ウェーバーが官僚制を論じた時に問題としたのは、このことだった。 

官僚制が「間化」されればされるほど、それだけより完全に、官僚制は資本主義に好都合なその独特な特質を発展させることになる。ここでより完全にというのは、官僚制が、愛や憎しみ、およびいっさいの純個人的な、総じて非合理的な、計算できない感情的要素を、公務の処理から締め出すのに成功するということなのであって、それは官僚制の特性として賞賛される固有の特質なのである。まことに近代文化が複雑化と専門家の度をくわえるにつれて、それは個人的な同情、恩寵、恩恵、感謝の念に動かされる古い秩序の首長のかわりに、人間的に中立・公平な、それ故厳密に、「没主観的」な専門家を、それ「近代文化」を支える外部的装置のために必要とするのである。

面倒な事を考える人もいるものだと思いつつ、更に付箋の部分は続く

大衆民主政治において、「民主主義」とはいうものの、大衆は実際には政治に能動的に参加しているとはいえず、自治が実現しているわけではない。大衆民主政治とは、人々の政治参加による自治のことではなく、多数派が形成する世論によって支配されるような政治なのである。大衆民主政治とは、オルテガの区分を借りれば、「古い民主主義」ではなく「超民主主義」である。この「超民主主義」に随伴する現象が、官僚制なのである・オルテガもまた大衆社会においては「生はすべて官僚化される」と述べている。

自治という言葉まで出てきた、この手の思考になれていないので気分だけわかった気が、、
次に「権力と支配」マックス・ウェーバーから付箋部分の抜き出し

官僚制的行政は、知識による支配を意味する。これこそは、官僚制に特有な合理的根本特徴なのである。

専門知識に由来する強大な権力的地位に止まらず、官僚制(または、それを利用する首長)は、職務上の知識、すなわち、職務上の交渉をつうじて獲得されるか、「文書に精通した」実務知識によって、その精力をいっそう増大させようとする傾向がある。

「職務上の秘密」ーーーその専門知識に対する関係は、技術的知識にたいする商業経営上の秘密に、ほぼ匹敵するーーーと言う概念は、唯一とはいえないまでも、とにかく官僚制に特有な概念であるが、それは、このような勢力をえようとする努力に由来するのである。 

専門知識、文書に精通した実務知識、、、これぞ官僚というところか
官僚にも苦手な人達がいる(みたい)

 

知識、つまり専門知識が実務知識の点で官僚制より勝っているのは、自己の利害に関する範囲内では、おおむね私的な利害関係を持つ人、したがって資本主義的企業者だけであるにすぎない。

 

彼こそは官僚制的・合理的な知識の支配の不可避性にたいして、実際上(少なくとも相対的に)免疫性を持った唯一の機関なのである。それ以外の人々はすべて、大量成員団体のなかでは、官僚制的な支配に所属することを余儀なくされるのであって、それはちょうど、財貨の大量生産において、没主観的な精密機械の支配に従属することを余儀なくされるのと、まったくことなることはない。

官僚という人々はここまで抽象化された人間なのだろうかと少し疑問を覚える
官僚個人の出世欲・名誉欲・闘争心・妬み・やりがい、、など数値化されない人間的なものが
行動のエネルギーとなっていることもありそうな気がするが、、

これらの非人間的な行動様式とハンナ・アーレントの「思考停止」と
フロムの「自由からの逃走」との関係はどうなんだろう
どうでもいいことだが、何故か気になる、、、
(ほんと、どうでもいいことだけど) 

 

 

 

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「南京事件」を調査せよ

2017年03月14日 20時24分48秒 | 

最近、大騒ぎになっている森友学園の問題
破格値での国有地払い下げとその経過の不自然さなどは
官僚出身の野党の議員さんが
自分たちが経験してきたことと大きく異ると実感を口にして
傍目にもそうなんだろうなと想像できる

ワイドショーでも扱われるようになったこの問題
へそ曲がりな自分が興味を持ったのが「財務省佐川理財局長」
考えようによっては一番の被害者かも知れない、やたらと弁の立つ人だ
(言い訳する能力のあるお役人だ)
何ごともなかったらその頭の良さを発揮して出世しただろうに
(今も充分出世している?)

だが本当に興味を持ったのは彼個人のことではなく、官僚という立場の人々のこと
彼らはどのような考えを持って日々暮らしているのか
何を守るべきものとして考えているかとても気になった
だから最近「官僚の反逆」などという本を引っ張り出して読み返している

同様に関心をもったもうひとつ別のことは、
海外のメディアがよく取り上げる教育勅語のこと
そしてこの教育勅語を良しと考える人達が、そんなものはなかったと考えたい
「南京事件」のこと

「南京事件」を調査せよ 清水潔
恥ずかしながら南京事件については、よく耳にするものの何の知識もなかった
それでこの本を図書館から見つけて読むことにした

ここでは「調査報道」という言葉が時々出てくる
発表されたことをそのまま報道するだけの「発表報道」と対立する言葉だ
この本では「一次資料」を求めて奔走する
そしていくつかの同じことの書かれた資料を目にする
そこに書かれたことは、、

正直なところ、その部分を読んでいて気持ちが悪くなった
吐き気がした
それは「シンドラーのリスト」「戦場のピアニスト」で見られた
ナチがユダヤ人を容赦なく殺していくシーンでショックを受けたのと同じだ
何の罪悪感も感じないかのように死体を製造していく 

人は何をしでかしてしまうのか
その気味悪さ
その冷酷な命令に従ってしまう人間の弱さ
後からとか外から見れば理不尽な行為でも、その現場にいれば
抗いきれないことかもしれない(そうしなければ自分の命が危ない)

これと同じことが官僚の世界でも起きていないかと想像してしまう
抗いきれない力とか何か
ハンナ・アーレントが「思考停止」と名付けたものに通じるかもしれない

南京事件はその人数がどうであれ、虐殺の事実は否定できないようだ
日本人だけが虐殺をしていたのではない、他の国も同じようにしているから
日本人だけを目の敵にするのは間違っているという人々もいる
しかし、間違いを起こさないために「歴史から学ぶ」というのは
辛いことも甘んじて受け入れる覚悟も必要だ
今の自分達には罪がないかもしれないが、未来の人たちに対する責任がある
と言ったのはワイツゼッカーだった
それに悪いことをしでかしたのは自分とは違う変な人達だったと考えるのは
想像力の欠如で、いつ何時自分が悪魔のような人物になってしまうかもしれない
たまたまそういう境遇にいないだけのことかも知れない


人は何をしでかしてしまったのか
人は何をしでかしてしまうのか

決して楽しい本ではないが、読むべき一冊だ
 

 


 

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それを誰がやるのか

2017年03月11日 08時57分15秒 | あれこれ考えること

市の活性化については現状分析が基本となる
これは誰がどのような視点から行ってもだいたい同じ結論となる
難しいのはここからで、「何を行動したら良いか」という点と
「誰がそれをやるのか」という点だ

特に後者の「誰がそれを行うか」を考えてみると
いきなり諦めのような感じに陥ってしまいそうだ
各種分析は結局「誰かがやってくれるとか、やるべき」
(行動する組織づくり)に終止している

だが具体的に「誰がそれを行うか?」
をイメージするといきなり目の前は暗くなる
結局は当事者が何かに頼らずに行動しないことには何も解決しないのだが
この踏ん切りがつくまでには長い時間を要する
重い腰をあげるのは実害としてひどい目に合わないと
行動に移せないのはよくあることで、気がついたときには手遅れ
みたいな可能性がないわけではない

人は他人に言われたことをすることは、なかなか素直に聞けない
自分で思いつきでも考えたことはとりあえず行動しようとする
その意味では「自分で考える」ことが大事となるが
それすら面倒と感じるのも事実
自分のすることは誰かに指摘してもらって、気が進まなくても
とりあえずやっておこうというのが楽でいいと考える

いつも地域の活性化の話を聞く度に感じるのは素朴な疑問
「それを誰が行うか」 
馬鹿みたいに情熱と執着心をもって活動する人が出てくること
それはその地区の「運」とさえ思えてきてしまう
「よそ者、わか者、ばか者」が出てきた場合、
地域は上手に活用しないと、、、もったいない 

土曜の朝、得意の毒にも薬にもならないお話!

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読みかけの本ばかり

2017年03月10日 20時24分31秒 | 

図書館に本を返しに行った
レヴィ=ストロースの「月の裏側」をとりあえず最後のページまで
たどり着いたので 少し誇らしげな気分があった
図書館に行くとそのまま帰るのはもったいない
そこでついまた借りてしまった

「サピエンス全史」は話題の本らしい(目次だけ見たがかなり面白そう)
「善と悪の経済学」「あなたの中の宇宙」「生物はなぜ誕生したか」
と通じるような広範な知識・視野・考察からなされた本のようだ
「「南京事件」を調査せよ」はいろいろな説が存在する南京事件の
ひとつの見方として自分が納得するために読むことにした

しかし気張って借りながらも、きっと返却期間までには読み終われないと
感じているのは紛れもない事実
なぜなら先日購入した本が読み終わっていないからだ

「江戸の家計簿」は読みやすく、特に記憶力を必要としないで
読み進めていけるので、とりあえず読み終えたが、あとの二冊は
読みかけのままだ
面白そうなのだが「応仁の乱」は登場人物が多すぎて閉口するし
「入門!進化生物学」はところどころ慣れない用語が出てくる
夜に寝転んで読もうとするが、目が情けないことにしょぼくなって
読み進めないでいる

おまけにまたまた興味深い本を見つけた

「官僚の反逆」
これは森友学園事件で国会質問に立った財務省の官僚の振る舞いを見て
官僚とはいったい何を考えているのだろうか?どういう人物たちなのか?
と興味を持ったところ、片付けた日用品の下にあって目に入った本だ
そう、実はこの本は一度読んでいるはずだった
しかし悲しいくらい何も覚えていない
それでペラペラと眺めてみると官僚の姿をマックス・ウェーバーの
洞察力の富んだ考察が紹介されている
「もう一度読まねば!」
ということで、これもまた読み始めた

一つ一つ片付けていくタイプの自分がこんな風に同時進行で読み進めると
結局は全部が読み終えられないことになってしてしまいそう
なのだが、今のところ読書欲が萎えていないので、頑張れるところまで
頑張ることとしよう、、、
それにしても老眼と白内障気味とかすみ目は、年令を重ねると出るものと
予想はしていたが、、予想外に厄介だ、、

お得意のどうでもいい話!

 

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議会改革検討会議 6日目

2017年03月10日 20時22分58秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

時間が変わっていた
自分のスマホのカレンダーでは議会改革検討会議は
3月10日、15時から開催となっていたが
実際行われたのは10時からだった

たまたま、白井市議のブログでの開催時間を見て
変更に気づいたのだが、気づかなかった人も多かったようで
いつもの傍聴者はいなかった

今日の会議はメンバーに欠席者なし
鈴木真、丸山、滝川、鈴木達、中西、白井、長田、村田、小野田、柴田市議が席について
傍聴議員は、菊池、打桐、下江、加藤議員
(一度も来ていない議員は山崎議員だけとなった)

この日のテーマは
議会改革とPDCAサイクルについて
丸山議員からざっくりとしたパワポを使った報告があり
その後で事務局からより詳細な説明・解説が行われた
それが終わったのが10時50分
ここまではずっと映し出された画面を見てお話を聞いている状態
(先進事例として所沢市などが紹介された)

話を聞くうちで自分がメモし印象に残ったのが
PDCAサイクルが機能しているか、、、と判断する指標として
具体的な計画に落とされているか
という点が指摘されていたこと
少しニュアンスが違うかもしれないが、まるで空論のような抽象的な
専門家にしか通じない条例いじりをしたところで
市民生活にどのように関わってくるかがイメージできなければ
それは身のあるものにならないのではないか
と常々思っていたことと被る

ただ報告によると、この具体的な計画に落とされているか!
を実行できている自治体は2%くらいらしく、具体的計画の目標すらない状態らしい
確かにいざ具体的なものに落としこむのは容易ではないとは思うが
ここが踏ん張りどころ、、頑張って身のあるのもにしてもらいたい
(具体的な数字は手元に資料がないので違っているかもしれない)

新城市の議会条例には検証することが書かれているが、それをどのタイミングで行うか
書き込んでいないので、各地の例を聞きながら行う時期の提案が2.3あがった
またこの検証とは具体的には、議員個人の自己評価・第三者による評価(多分有識者)・市民の評価
からなるものとなると解説されたが、ここで難しそうなのは市民の評価
条例の達成度の評価を市民に求めても多分市民は何が何だかわからない
市民に分かるのは、議会が市民の意見を真に聞く耳を持っているか
真剣に議員としての仕事を行っているか
議会の情報をわかり易く、こまめに伝えているか  くらいなもの
(素人の視点をプロはどのように解釈するのか)

だがこの日はより突っ込んだ話はされず、この日総意として決まったのは
何があったのかと少し疑問を覚えた
確かに検証のスケジュールの話、提案はあった
選挙があった時に行うのが良いとか、毎年見直しをしたほうが良いとか
2年に一度が良いとか、、いろいろあった
しかし決めなかった 
一通り先進事例等の勉強を終えた後、まとめて検討するのだろうか

話を聞いているうちに、先進事例を勉強の材料とするとその方向性から抜け出せなくなって
真似さえすれば良くなってしまわないか、、と余分な心配をしてしまった
もしかしたら、先進事例の情報無して今ある自分たちの条例の検証を徹底的に
行って条例の追加や変更したほうが良いのではないかとも思ったりする
しかし、目指す方向性を具体的に提示されないと難しいかもしれない

今日の会議は前回よりは内容が少し具体的になった分だけ内容は濃かったかもしれない
しかし残念ながら今回も一番盛り上がったのは、
ずっと続けて検討されている録画撮影のことが話題となったときだ
結果から言えば、市民が録画を2月6日に申し出て、総意は賛成の雰囲気を漂わせながら
撮影管理は議会がすることで各種の不安材料は取り除き あとは配信の問題だけ
と進んだ、、、と思いきや今回も結論は出ずの結果に収まった

いつまでも前に進まないとか決断が出来ないとガッカリしたり呆れる前に
前にも書いたが、ここでのやり取りを市民の方々に見てもらいたかった
(それが新城市議会の実力を示すものとしてわかりやすいから)

そこで見られるのは感情を伴った大声でのやり取り
せっかく進んだ議論を全くスタート時点まで戻そうとする議員
(一体何を議論してきたのか)
それでも冷静に大半は着地点を見出して進めようとしていた(?)が
反対者2名(柴田議員・村田議員)のために
全員一致の方向で進めたい中西委員長の意向は実現されす、またもや持ち越しとなった

抽象的な議会改革云々をいうより、この姿を見たほうが
今新城市議会の何が一番問題かが分かるし現実的に訂正すべき方向性も見えてくる

この議会改革検討会着の議事録(要約)はHPで公にされている
傍聴も可能となっており現実的には全てオープンにしているようなものだ
しかしエッセンスだけ書き込んで実態はよくわからない議事録は良いけれど
人間性や実力すら明らかにしてしまうような動画は見られたくない
と思っている人がいるのかもしれない(と判断せざるを得ない)

ところで議会改革検討会議はもう少しあとの回で
ICT活用(会議録)について・ICT(タブレット端末等)活用調査結果について
をテーマとして取り上げ、それを進めるべき方向として勉強することになっている
市民が求めた録画配信はこのテーマと繋がるのだが、それが繋がること(関連すること)だと
感じている議員さんは何故か少ないようだ(事務局から説明があったはずなのに)
皮肉なのは、このテーマICT活用(会議録)について・ICT(タブレット端末等)活用
調査結果についての報告担当が録画撮影に反対した村田議員であるということだ
(何故皮肉なのか、もしかしたらわからないのかもしれないが、、)

次回も録画で盛り上がりそうな(?)議会改革検討会議は
3月15日(水)9時からで
テーマは、議会と住民が対話する場とその充実について(報告担当 滝川議員)
これこそは市民に直結するテーマ、抽象論に終始しないで欲しいものだ

尚、検討会議回数・日程の表現は市のHPに合わせることにします
検討内容の詳細は、後日アップされるであろう白石市議のブログで確認願います

 

 

 

 

 

 

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切実感と熱意

2017年03月09日 18時45分07秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市の3月市議会の一般質問の傍聴に行ってきた(7日・8日・9日)
いつもは二日間で終了する一般質問だが
選挙を控えて(?)のせいかどうかわからないが
今回は14名が行うことになり3日間で行うことになった
(一日目6名 二日目6名 三日目2名)

正直なところ議会傍聴は結構きつい
10時から12時までの前半戦はまだ集中力があるので耐えられるが
昼ごはんを食べた後の心地よい気分の午後は答弁は聞こえても
心まで響かないことが多い(夢の中?)

今までは一日ごとに取り上げてきたが、今回はまとめての感想

まず一番感じたとことは 議員さんの一般質問の必然性
質問に対する切実感とか熱意に相当な差があったように思われたことだ
3日間を通じて心を動かされたのは二人
加藤市議と浅尾市議の質問だ

加藤市議は都市計画事業の進捗と整備についてと題された大きな項目の質問で
活性化のためには市街化区域・調整区域の線引の見直しについて問を発した
これはとても現実的な提案で、乱開発を抑えるための市街化調整区域
というものの、現実には開発など少しも行われていない
この制限自体が可能性を減じているのではないか、お金のない若い人たちは
市街化調整区域に家を建てたいと思っているが建てられない
一方市街化区域の建物は建て替えが必要な時期になっていることが多く
いざ建て替えようと思っても建て替えの制限が多すぎて実情に合わない
こうした面の法的な解決法を工面しらどうか、、、
(法律は詳しくないので違っているかもしれないが、おおよそはこんな感じの話)

誰もが考えなくてはならない活性化の問題を政治的な視野からの提案として
具体的で非常に興味深かった
質問自体は建設部長との法的な問題のやり取りに終止したが
わからない話ではあったが、何をしようとしているのか、何が話されているのか
それを想像することは(変な表現かもしれないが)楽しかった
そして都市開発には様々な法律が絡んでいるものだと認識した
しかし、何十年前、十年前の計画を現実を見つめ直すことなく
言葉の上で正しいものとして進めようとする(頭の固い)行政には
もう少し柔軟性と失敗を恐れない勇気が必要だと感じたりした
この加藤市議の質問はその専門知識もあるが、なんとか活性化しよう
としたい気持ちが感じられた

同様に熱意が感じられたのは浅尾市議の質問
熱意というより切実感といったほうが正しいのかもしれない
「子どもの貧困」「児童虐待」について
大きすぎるテーマで、さて新城市独自に何をしたら良いか
俄には思いつかないが、何か対策をしなければならない、、
そんな思いは強く感じた
これは共産党であるとかないとか関係なしに、人としての素直な感情で
とても共感が持てた
その他に東三河北部医療圏の話題、産廃の話題などいま現実に目の前で
起きているテーマを扱って退屈することなく聞き終えられた 

残念ながらそれ以外の人は、印象に残らなかった
切実感も熱意もなく、何故その質問をしているのかわからない
切実感がないから質問に迫力がない
専門的な言葉の概念遊びに終止した人もいた
同じことを繰り返し聞いて、一体何を聞き出そうとしているか首をかしげる人もいた
そういう人は時間の経過がとても遅く、ひたすら早く終わらないかな
と思ったほどだ

それから気になることをひとつ
それは奇妙な傍聴者の存在だ
傍聴者は誰が来てもいいことになっている
だからいろんなひとが来る
しかし、そういう人たちには独特の雰囲気がある
なんとなく同類項と感じる何かがある
その同類項の人間は傍聴している時同じような行動をする
必死にメモを取ろうとする、、
しかし、初日と3日目 その独特のオーラのない人達がいた
その人たちはメモを取らない 
そして議場に来るような服装ではなかった (女性6人)
3日目の男性は偶然知りあいだったがそういうタイプではない


実は初日と三日目には共通した質問があった
「市長は秋の選挙に出馬しますか?」
初日は山崎市議、3日目の今日は丸山市議が聞いた
しかし、通告書のコピーを見る限りではそのような質問が出ることは想像できない 
でもこの質問をする時だけ、別のオーラの人達がいる 
そしてその人達は何故かこの質問をすることがわかっていた
(と想像しても間違いではないような気がしてならない)

それがどうのこうの言うわけではないが、
思い出すのは11月に普段傍聴に来ない人物が傍聴に来た時に
議会が騒然となった見苦しい事件が起きたことだ
まるで彼らは予めそれを想像して確認のために来ていた
とさえ思われるのだった
だから今回も何かあるのかと奇妙な感じを抑えることが出来ない

壇上に立った人と傍聴者の間には予めサインを決められていて重要な情報は
当人同士は連絡がついたのかもしれない 
とミステリーのような想像をしてしまうが
それが何の役に立つかわからないから、妄想だろうが
それでもこの偶然(?)は奇妙だとの思いを捨てる事ができない 

偏屈すぎるか、、、いかんいかん



 


 

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過去は現実、未来は予想

2017年03月06日 09時44分18秒 | あれこれ考えること

ある国(地方)では、目の前にあるのは過去で
背後にあるのが未来と考えられているそうだ
「目の前には洋々と広がる可能性に満ちた未来、、、 」
などとの表現はそこでは使われないことになる

目の前にあるのが過去で、背後にあるのが未来と考える理由は
過去は見ることが出来る(知ることが出来る)が
未来は見ること(知ることが出来ない)という理由によるらしい
なるほど、確かに未来は見えない

人が未来を知る方法、それがあるとすれば予想という方法に頼らざるを得ない 
それは勝手な思いつきではなく様々なデータを駆使して外れることのないモノを目指そうとする
ところが、その予想は最終的には人間が判断をすることになる
その判断を下す人間は生き様・経験・感情・考え方が千差万別で簡単に予想が一致するとは思われない

長い前置きになってしまったが、偶然3月4日、5日の二日連続して
自分の住んでいる新城市の「財政について」勉強をする機会を得た
3月4日  おくみかわ市民政策研究所主催 
              そもそも研究② 【財政問題解決のためのまちづくり 
     新城まちなみ情報センター2F 

3月5日 「新城市制を考える会 第4回勉強会」
     テーマ:「ザイセイの話」市財政課出前講座
             新城文化会館 104会議室

大事なことだとは思うものの、なかなか具体的イメージをつかみにくい財政の話
肝心なのは現状の認識、それを踏まえた上での未来・将来のことで
その未来・将来は「予想」を前提として考えるしかない

連続して行われた財政の話の捉え方の視点は若干違う
一日目はより大きな視点、国家財政から眺めた新城市の将来への考察
二日目は市の財政課による現実の数字の認識と将来の展望
(市の財政課によるお出かけ講座)

ここで見えない未来に対する捉え方の違い(予想)が少し感じられた
 日本の国の財政自体が、よく言われているように借金まみれで
それだけでなく人口減と高齢化
(国は借金してるが国民が借金しているのではない)
地方の財源の大きなウエイトを占める交付税について
今後今までのように支払われなくなるかもしれないとの未来予想で
その時に向けて今できることは(自分たちの町は自分たちで賄う体制づくり)
何かを考える事を示唆されたのが一日目

一方、二日目は市の財政課には責任はないがあくまでも交付税は
今まで通りに提供されることを前提としている
法が定める指標の数字(実質赤字比率・連結実質赤字比率・実質公債費率・将来負担比率)
は財政課からの報告によると、新城市は良いとはいえないまでもそんなに酷いものとは
言えないと段階だそうだ
それでも聞いている側に不安が消えないのは事実で
それは後半に行われた質疑でのママさんに的確に表現された

市の財政課は毎年「ザイセイの話」という本を出している
わかりやすく家計の例に落とし込んで解説するページがあるが
ざっくりした解説では、必要なお金のうち40%は親の仕送りに依存する(地方交付税に該当)
と表にしてある(新城市は財政力指数0.61)
そこでママさんの言葉
「仮に結婚前にこの様な、親の仕送りが40%を前提とする相手とわかったら
  果たして添い遂げそうとするか分からない」
親の仕送りはいつまでも同じように続くことは考えられないが
国も同じようにいつまでも続かない不安は拭いきれないということだろう

財政課も実は若干の不安は感じているようで、国は勝手に臨時財政特別債として
地方債を発行させる事があるとのこと
これは反則のようなものと感じるが、やっぱり国は余裕がないものと思われる

むかし祖母が「借金は大嫌い」といって
庭には「花梨(借りん)」「樫(貸し)」の木を植えていた
新城市もどこかに「花梨」「樫」の木を植えたほうが良かったりして、、、



 


 

 



 

 

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子どもたちの判断力

2017年03月04日 08時46分10秒 | あれこれ考えること

昔、何かでとても興味深い記事を読んだ
子どもと大人の観察力の違いに関する記事だ

その記事によると、ある虫(カブトムシだったかな)を真上から撮った
とてもリアルな写真と、本物とを並べて(もちろん同じ背景で)
真上から見てどちらが本物かを判別してもらう実験をすると
大半の大人は迷って間違いを起こしたが
子どもたちはほとんど短時間でどちらが本当かを間違いなく指摘したという

何故そんなことが子どもに出来て大人に出来ないのかは、
子どもたちはその理由を伝える言葉や会話の技術がないので不明だが
とにかくそういう事実があるのは興味深い
世の中には言葉で説明できないもの(いつかは言語化されるかもしれないが)があるもで
この容易に判別できた子どもも、大人になるとそれができなくなるようだが
子どもと大人の違いは何なのか

大人は経験に基づく知恵(知識)があって自分にとって良いもの悪いものを判断ができる
しかし、子どもはそれがない
そのままで世界に放り出されたら子どもにとっては危険で仕方ない
だから、知恵はなくても感覚で、それが何か、少なくとも良いものか悪いものかを
判断する力を持っているのでは(与えられているのでは)と考えるのは
そんなに特別な考え方ではないと思う

知恵や知識がないうちはそれ以外の何かで補う
それは十分ありそうで、若い時の柔らかな感性というのは
そのひとつと言えるかもしれない
ただこの時の不足分の補い方は、もしかしたら生き方にも依存しない
感覚的な事柄の可能性があり、それは生まれつきの可能性がある
生まれつきならある子どもにとって良いと思われることが、
ある子供にとってはよくないものと感じることも考えられる
この感じ方の違いは生物が生き延びるための可能性を
四方八方に確保しておくために準備されたものではないか
確率論みたいな生物進化学を考えると、(実はよく理解していないが)
ふとそんなふうなことを考えてしまう

日曜の朝、お得意のどうでもいい話だが
子どもたちの直感は、案外馬鹿にできないということ

姿・表情を見ただけで良い人・悪い人を判別できるとしたら
子どもたちは今の政治家の方々を、どのような判断を下すのだろう
(子供の目は、、、怖いぞ!) 

 

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職員の倫理観

2017年03月03日 19時21分56秒 | あれこれ考えること

森友学園の国会の様子をYoutubeを見ていると
改めてすごいな!
と思うのは財務省の佐川さんというお役人の答弁
それを頭がいいと言っていいのかどうかは分からないが
半端じゃない頭の回転と記憶力とディベート力だ

最近、お役人というのは倫理観はないのか
と感じざるを得ない事が多い
それはこの様にややこしい国の問題ではなくて
自分の住んでいる新城市でもお役人(職員)は
法に則って(その法は市民がよく知らない法)と言う言葉を
淡々と市議会の一般質問でも使用する
(産廃の問題も、新東名バスの問題も、建設用地外の不当支出も)

ところが表情は正直なもので、自分の声にしていることは
苦しい答弁であることは自覚していると想像できることがある
(中には平気な人もいる)
議員さんには政治倫理条例と言うものがある
だが職員に倫理規定というのはあるのだろうか
組織が円滑に回っていくための命令系統の取り決めはありそうだが
個人の倫理観による決断は許されるのか、どうなのか、、
自分は公務員の経験はないから分からない

いや公務員に限らず社会というものは個人が勝手に判断などしていけば
収拾がつかなくなってしまう
だから結果的には組織の論理が優先し、個人の倫理などということは
ないがしろにされても仕方ないということになりそうなのは予想がつく
だが、世界各国でそうなのだろうか
個人の判断はそんなに軽視されるものなのか

それをすればどういうことになるか容易に想像がつくことを(悪いこと、危険なこと)
してしまったために、あとになって大騒ぎになり大変なことになるくらいなら
その時に個人の倫理観によってブレーキをかけたりストップするようにした方がいい
というのはロマン主義者の幼い考えか

「これからの正義の話をしよう」だったか忘れたが、この中には正義について
色々考えさせる問題がいくつも挙げられていて、その本の結論は
「自分で考えなさい」に落ち着いたように自分は理解したが
自分で考えること、、この国はこれが出来ていないのではないか

あのものすごく頭の良さそうな財務省の方
目前で繰り広げられる問題について、答弁の勝ち負けではなくて
「人として」という観点を考慮に入れるとしたら彼は
一体どのような判断をするのだろうか、、

そんな判断をするようになると、出世できなくなるかもしれない
そんな判断をすれば、上の要求することを実現できないかもしれない
自分に与えられた仕事の達成感も感じられなくなってしまうかもしれない
でも、やっぱり(もしかしたら彼のためにも)外野の人間は期待してしまう
人としての視点を少しでも入れること、、

それが少しあるだけで世の中はもう少し良いものになりそうな気がする

つくづくいい歳をしてもいつまでも甘ちゃんだな
(でもこの歳までここまで来たから、このままいくぞっ!)
何かよくわからない、独り言


 

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