パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

齋藤孝さんの講演会を聞いて

2020年02月10日 09時01分35秒 | 徒然なるままに

テレビをあまり見ないのは自慢にならないとか
嵐のメンバーの名前を言えないことは、多くの人の関心事に
関心がないことで、円滑なコミュニケーションのためには
あまり薦められるものではない、、、
とした部分以外は共感することが多かったのが
土曜日に岡崎市民会館で行われた齋藤孝氏の講演会

日経新聞の主催で「新聞を読みましょう」(齋藤氏)
その中でも日経を(日経販売部)がこのイベントの趣旨だったが
以前は日経流通新聞(現日経MJ)を購読していて
朝のTV番組で齋藤氏の穏やかな人物イメージに興味があって
抽選に応募し当選して出かけた

面白かった
面白いというのは、興味深かったという点と、笑うように面白かった
の意味があるが、後者の笑うように面白かったのが意外だった
まるでお笑いを聞いているかのようで、ハリウッド映画ではないが
何分に一度笑いを取る感じで、その中に自慢話っぽいモノがあっても
全然嫌味にならなかかったのは彼の人間性によるものだろう

話の端々に彼の読書量が垣間見れた
講演に登場した本とか氏名は「監獄の誕生」フーコー、「資本主義とプロテスタンティズム」マックス・ウェーバー
「ソクラテスの弁明」、渋沢栄一、カルビン、フッサール
この他にもさり気なくいろんな人物や著作が入っていた
クスリと笑えるためには、これらの本とか人物を知っていないと何が面白いのかがわからないのが現実で
会話(コミュニケーション)が成立するためには、できるだけ共通の情報を持つほうが良い
言わんとするところだ

この情報の共通項を増やすための方法論として新聞の活用が
現在彼が行っている講義の例として紹介された
それは新聞を読んで気になったところを切り抜いておく
それをノートの左ページに貼っておく
右のページには何が気になったのか、どう考えたかが人に伝えられる様にしておく
というもので、これを複数の人間で継続していけば仲間の情報の共通項は増えるし
伝達能力もアップするから実践的な方法だ

この方法は実は自分も行ったことがある
新入社員に自分が読み終わった日経流通新聞を渡して
その中から3つ興味を持った部分を切り抜くように
3ヶ月間に渡ってさせたのだった
生きている現場、変化している社会を把握させるためだったし
自分以外の人間が何に興味を持ったのか知ることは自分のためにもなった

講演の中でコミュニケーションをとるための方法として
A4の紙に好きなものの羅列を書き込んでいく方法を紹介された
彼(彼女)が好きなものを他人がみてその人物がどのような人間か
を想像できるし、好きなものが共通するなら話が進むというのだ
この方法は現在ボランティアで行っている外国人の子どもたちの
面倒見に役立つかもれない
(彼らは自分という人格に興味を持ってもらいたいとか
 自己承認欲求があるに違いないと思うから)

こうした現実的に役立つことがあったが、実は講演のなかで一番印象に残ったのは
フーコーの「監獄の誕生」の本を紹介されたことだ
フーコーは名前は知ってるが本は手にしたことのない人で、
「監獄の誕生」は、知らず知らず庶民が権力者に自発的に(?)従属してしまう傾向が
あることを説明した内容であるらしい
それは最近読んだ「自発的隷属論」や「群集心理」に通じる内容のようで
これは読まなきゃ!という気になった

ということで、アマゾンで「監獄の誕生」をほしい物リストの登録しておいた
だがこの本は厚くて価格もそれなりだし、読み終えられないかもしれないので
安易にお買い上げ!と決心はつかない
そこで市の図書館に出かけて、全資料のなかから著者名「フーコー」
と入れて検索したが見つからなかった

読みたいと思ったときがその時かもしれない
明日、建国の日は豊橋に行く予定があるので、広小路の精文館で
探してみることにしよう、、そこにあったらお買い上げ!
と心に決めているが、さて

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あと一つが出てこない

2020年02月08日 19時16分59秒 | 徒然なるままに

世界の三大美女とか、音楽の3Bとか、三大夜景とか
ものごとは3つまで語られることが多い
ミシュランの星も最高が3つで
キリスト教の三位一体も、もし四が出てきたりすると変な感じだ
長島さんの選手時代の背番号は、3で雰囲気が出ている気がする

不意に今まで自分が食べたなかで美味しかったもの3つを思い浮かべようとした
一番目は直ぐに浮かんだ
大学時代の友人が、彼の叔父さんが全国の寿司のコンクールで
日本で3番の成績を納めて少し自慢なので、一度おごってあげると
カウンター席で食べさせてもらった時のことだ
「米がうまい!」
今でも印象に残っているのはそのことだ
今なら美味しんぼなどの知識で、それがどういう理由か(空気が含まれている)
わかるようになっているが、その時は何しろ衝撃的な食感だった
ネタのことは覚えていないが、とにかく米が美味しかった
(友人は米は古米をブレンドするのがコツだと聞かされたと教えてくれた)

二番目も直ぐに思い出せる
気張って誕生日にフランス料理に誘ったときのことで
その時の相手の表情とか会話は全然覚えていないけれど
コースの最初に出てきたオードブルのアワビのクリーム煮の食感・濃厚な旨味は
衝撃的で、誕生日祝をしていることを忘れてしまうほどだった
実は事前調査でこの店のオーナーの弟さんが、シェフは魚介類が得意
と教えてくれていたが、その予想のはるか上を行くもだった

さて三番目は、、、
これが出てこない
それなりに旨いものは食べてるような気もするが
先に上げた2つほど衝撃的な体験と比べるとなにか物足りない気がしてならない

果たしてこれから先そのような経験をできるかどうか、、
でもこのやりきっていない感じは、やりきった感じよりも好きかもしれない
いつも何かを求めている方が、不完全のほうが、、良いような、、、

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市のお金の使い方について(高速バス絡みで)

2020年02月07日 09時20分01秒 | 市政、市議会に関することなど

人と話したり、何かを作り出したりを継続的に行うことが、ボケ防止には良いそうだ
本を読むだけでなくアウトプットを伴わないと
自ら考えることを止めてしまう癖や習慣に陥ってしまうらしい

ボケが心配な年齢だし、少しばかり本に依存体質となっているので
できるだけ読んだ本の内容を同居人にわかりやすく説明することにしている
人に説明することによって自分の理解が深まったり、頭を使うことにもなるので
ボケ防止になるだろうと思っている

この場所での投稿もその一環で、何のためにしているかと言えばボケ防止
の一面があるのも事実
でも少しは何かのためになるとありがたいとは思っているけれど

日課としているこの場も、横着したいとか、より広がりを期待したい時は
別のブログからのコピペを行うが、今朝は横着したい方の誘惑に負けて
新城市の新東名経由の高速バスについての話題を以下にコピペ

ここから↓

 先月読んだ「実践行動経済学」の本の中に
このようなエピソードが紹介されていた

ある人が友達からお金を貸してほしいと頼まれて
お金を貸すことになった
その晩、貸した人物の家に行くと「家賃」「水道光熱費」などと
とラベルの貼られた広口の瓶があり、そこにはお金が充分入っていた

それを見たお金を貸した人物は
「お金があるのに何故借りる必要があったのか?」
と聞いた
するとお金を借りた人物が見せたのは、中身が空の「食費」
とラベルが貼られた広口の瓶だった

経済学上の理屈ではお金は代替可能物であり
お金にラベルは貼られていないので
自分の裁量のなかから工面すれば良いことなのだが
どうやら人が持つ「心理会計」の仕組みは、この理屈に反する行動を起こしがち
というのが、この本の伝えたかったことだ

これを読んでいた時、前回の高速バスのことを連想してしまった
少しばかりニュアンスは違うかもしれないが
代替可能物としてもお金の使い方の問題だ

高速バスに関しては現場の人間として職員が赤字を減らすべく努力をすることや
お金の使い方の正当性を訴えることについては、職務上は当然であり
そうでなくてはならないと思う

しかし、代替交換物としてのお金は、
このお金が他のものに使われていたならば、、
と想像することもできるし、使い方の良し悪しの比較もできる

つまり、高速バスの問題は、その分野の問題(採算性とか効果とか)だけでなく
他の方面の視点(お金の使い方)での評価も必要ではないか、、ということ

どうやら市では前回の浅尾市議の一般質の指摘にあったように
急がなければならない点(新城小学校給食室のトイレなど)についても
実施が保留されていることが多い
広口瓶のお金が無いといってほったらかしにしたり、借金をするのは
適切なお金の使い方なのだろうか、、、(近い内に給食室のトイレは変更されるようだが)
と情報量の少ない小市民である自分は思ってしまう

ということで、高速バスについては、この予算を別に使ってみたら、、、
との視点も必要じゃないか、、ということ
もちろん、高速バスの他に対する影響も考えなくてはいけないが
その説明が庶民に納得できるものかどうかも考えなくてはならないと思う

高速バス「山の湊号」は安易に済まされる問題ではないと実感している

 

 

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高速バスについての全員協議会

2020年02月05日 17時49分10秒 | 市政、市議会に関することなど

新城市の話題

市議会の傍聴と言えば一般質問を想像するが、その他にもいろいろ傍聴できる
各種委員会、政治倫理審査会、そして今回出かけた全員協議会もそうだ

今日の10時半から全員協議会が行われた
文字通り全議員が参加する会議で、議題は3月の予算に計上される
新東名高速道路経由の名古屋直行バス「山の湊号」についての
行政からの今までの検証結果等の報告など

傍聴者は事前に知られにくい状況にあっても情報通の人々が数人着席して
決して少ない数ではない
傍聴者が数人いて、その場で見聞きしたことの捉え方は人それぞれなので
ここでは個人的に印象に残ったことなどを報告する

傍聴者は見ることができなかったがA4用紙10ページ以上に渡る書類が議員さんに渡された
それは28年度から始まったこの高速バスの数字的な検証と、昨年末急遽行われた
アンケートの結果報告、そしてマーケティング会社に依頼した結果の大まかな結果(まだ精査中なので)

この10ページ以上に渡る資料の説明に要した時間が20分ほど(多分)
説明は行政課のスタッフから行われた
行政課はこの事業を予算化すべく準備をしているので
当たり前ながらどちらかと言えば都合の良い話をする
実は少しばかり行政課に出かけていろいろ聞いたりしているので大体の話は想像できた

検証と言えば数字が物を言う
ただこの数字は解釈という行為が伴って報告される
同じ数字を見ても、数あるなかでどの部分(数字)を重く見るかによって解釈は変わってくる
今回の場合は行政がある目的の視点での解釈であって、仮に配布された資料を
高速バスに批判的な立場の自分らが見れば違った解釈がなされるだろう
つまりは今回はあくまでも行政の解釈による報告ということだ

長い説明が終わったあとで、議員さんの質問が始まった
この質問した人の顔ぶれが現在の議会の真剣さの度合いを測るメーターとなる
山崎議員がスタートを切ったが、それは突っ込んだ内容というよりは確認だけ
そのあとで澤田議員、山口議員、丸山議員、浅尾議員、斉藤議員、竹下議員、が続いた
この手の会議で発言しない人たちは、今回もやはり発言は無かった

このバス事業は現在は実証実験という形で行われている
3年半もの時間があったにもかかわらず、十分な検証がなされていなかったり
効果的な方法を講じていなかったと思われても仕方ないようなことは行政も認めている
だからこそ、急に利用者アンケートなる調査を昨年末に行っている
(その調査の中には名古屋からの利用者が市内でどれだけの金額を費やしたかとの項目がある)

でも、3年半も時間があるなかで当然行われるべきPDCAのチェックがなされなかったのは事実で
一体今更マーケティング調査をする資格が行政にあるのか、、、と言いたくなってしまう
このマーケティング調査に要した金額は税込みで385000円だ

手元に資料が無いので正確なことは言えないが、行政の説明によれば名古屋からきた
方々の市内での消費金額は、バス運行金額よりも多い(?)ので
バス事業は無駄ではないとのと言いたかったようだ
だがバス運行金額よりも多いと言っても、入ってくる税金を超えているわけではない
とのツッコミがある議員さんからあった(バスは市税で行われているので)

それ以外にも、名古屋から来た方の市内消費金額を計算するならば
市内から名古屋方面に行った人の消費金額も計算し報告しなければ
片手落ちではないかと思ってしまう

以前、市長がブログを書きまくっていた頃「ストロー効果」との言葉を挙げて
インターチェンジができると人口も消費金額も大都市に流れてしまうと
の説明をしていたことがあった(今にして思うと何故そんな話をしたのだろうと思う)
これはどの場合にも当たるようで、常識的には新城市の人口も消費金額も
大都市に吸収されてしまうと考えるほうが無理はない

少しへそ曲がりな自分は、今日一番気になったのは報告書のなかの専門家の意見だ
これも手元に無いので正確にはわからないが、専門家のある方はこの事業の成功は
バスの本数の増加を考えないとダメだろう
事業を採算だけの視点で考えるのは公共交通とはなにかを理解していない、、
(市民はSバスは採算が合わなくても仕方ないと判断しているので
 彼が言うような公共交通を理解していないことはない)
との視点で、アドバイスじみた意見を述べていた
そして行政も議員さんも、それをまことしやかに聞いていた

でも専門家の意見は正しいのだろうか
かれは自分のお金を払うわけじゃない
身銭を切るわけでない人が勝手に好き勝手なことを言って
それをありがたく受け入れるのはどうなんだろう
さらに言えば彼のバスの本数を増やすとの意見に従えば
経費は更に増すことになる

自分はこの問題は、当事者が真剣になって考えるべきだと思う
プロモートの意見は聞いたとしても存続廃止の意見は
お金を払う当事者である市民たちが決めるべきだと思う

実はこの高速バス運行費用については予算と決算金額だけでは
わからない表に出ない金額がある
それはどうも会計の方式(公会計)に問題があるようで
少し勉強してから機会があれば取り上げるかも

結局のところなんだかんだ言っても行政は予算計上をするとのこと
そこで山口議員からとても良い提案があった
この予算計上については、申請中の補助金の認可されるはどうかわからない状態
であるので確かな数字が出せないでいる
ならば、例年のように予算を他のものとひっくるめた一括審議ではなく
バスは別項目で提案してほしいし、議会はそこでよく話し合うようにしたい
この意見は、自分は行政も承知したと認識しているが、果たして素直に出てくるか
少し不安なところがある(議員さんは一括で出てきたら文句をいうか?)

ということで、自分が印象に残ったのはこんなこと

これで全員協議会は終了!と席を立とうとしたところ
二三人の議員から大きな声が上がった
そこから始まったのは驚くような報告・事件だった

これはもったいぶるが、またの機会に、、
それにしても、、、

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一日遅れの豆まき

2020年02月05日 09時15分37秒 | 子どもたちのこと

昨日の一日遅れの豆まきのこと
以下は別のブログからのコピペ

「来週は豆まきをするからね!」
先週の火曜日、外国人を親に持つ子の勉強の最中に
ボランティアの中心人物が子どもたちに伝えた
「鬼は外、福は内」の掛け声は、高学年は意味を知っているが
低学年はイマイチ分かっていないようだ(福の意味が、、)
それでもトゲトゲの棍棒をもってパンツ姿の鬼のキャラクターは
興味深い存在のようで、その時も紙製の鬼の面は人気者だった

昨日、一日遅れの豆まきをした
実はその前の勉強モードになるまでが大変で
机に向かって宿題に取り掛かれない

正月にお年玉を貰いに来るちびっこの様子を思えば
「静かにしなさい」とか「じっとしていなさい」
と言っても効果なしだから、こんなものかもしれない

勉強時間の半分が過ぎたころ、豆が入った小さな袋をダンボールから
取り出して、
「さあ今から豆まき!」
と先週からの約束を果たそうとする

びっくりしたのはここからの時間の熱気とか嬌声のすごかったこと
なんでこんなに意味の無い声を出し続けるのか、不思議で仕方ないが
興奮気味の黄色い声、高い声が、ずっと途切れることなく続く
鬼の役はじゃんけんで決めて、負けた人が鬼の面をつけて
他の子供は鬼に向かって袋菓子を投げつける
当たっても少しも痛くないので、子どもたちは遠慮なしに投げつける
お菓子を拾っては、エンドレスに続ける
「今度は私が鬼をする」
子どもたちは鬼役は全然嫌がっていない
面白そうなので、自分も鬼役をしてみる
ぶつけられて困っているポーズをしてみるが、子どもたちは投げるのに必死

実際のところ、この豆まきの間の時間の賑やかさはすごかった
スポーツで勝利をおさめた時、人は知らず知らずに
ピョンピョンと飛び跳ねてしまうが、それと同じことが子どもたちの間で
起きているのだろうか
いつもなら絶対と言っていいほど怒られる声の大きさ、騒ぎ方だったが
大人の方もこれだけ興奮して喜んでいる様子を見ると、達成感を感じる事ができる

子ども時代に訳もなく楽しかったこと、大騒ぎしたこと、
それを大人たちが見守ってくれてたこと
そうしたものが原風景として残っていれば、
子どもたちはきっと良い大人になれる、、(と勝手に思い込んでいる)

後は願わくばもう少し勉強に集中してくれれば良いのだけれど、、、
(我慢、我慢?)

 

 

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豆まき

2020年02月04日 08時32分36秒 | 徒然なるままに

「 一応拾っておいたけど、少しは残っているかもしれんよ」
掃除機担当の自分に声がかかる
昨晩の節分の豆のことだ
我が家では毎年、ささやかに豆まきをする
玄関に柊とイワシの頭も飾っておく
昨年は柊ではなくて庭にあるアセビとイワシの組合わせだった

習慣になってしまうと大した苦痛も感じなくなっている掃除機がけ
大丈夫、、、と思っていたら一瞬、何がガリガリと吸い込まれていったような感じ
一つくらいは見逃すことはあるだろうな、、といったところ

今日火曜日の午後からのボランティア(外国人を親に持つ子)の勉強の面倒見
前回、主催者が「次は豆まきをするよ」と宣言していた
その時、子どもたちに「いくつ食べるか知ってる?」
と聞くと「8個」と答えたが(2年生なので)
「僕は(自分のこと)いくつ食べたら良いのかな?」
と試しに聞いてみると、「97」とか「43」とか
とんでもない数字が返ってくる
子どもたちは大人の年齢はなかなか想像しにくいのかもしれない

年の分だけ食べるといわれる大豆
朝になってボケ防止に箸でつまんで食べてみた
自分の歳の分だけ食べようなどと気などはサラサラ起きない
二・三粒でお腹が膨れそうだが、食べていると
大豆が「きな粉」の元になっていると今更ながら気づいた

さて午後三時からのちびっこたちとの豆まきは平穏に終わるか?
多分、終わったときには大声を出しっぱなしでのどが痛い!
といつものようなことになっているだろう
でも、楽しそうだと想像すると、早くみんなの顔が見たいような、、、

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数字に結び付けられるのは、、音楽

2020年02月02日 17時42分28秒 | 徒然なるままに

近くの温泉施設、本宮の湯に出かけた
靴入れは大分埋まっていたが、空いている中から147番を選んだ
バッハのカンタータ147番「心と口と行い生活で」を思い浮かべたからだ
このカンタータは有名な「主よ、人の望みの喜びよ」のコラールのある曲だ

このように沢山の選択肢があるときは、数字を何かに結びつけて選ぶ
ジムのロッカーもいろいろ考えながら数字を選ぶ
だが大半は音楽関係で
20、21,23、24、25はモーツァルトのピアノ協奏曲を思い浮かべるし
29は同じくモーツアルトのト短調の初期の交響曲の番号で
40は有名な方のト短調の交響曲で41はジュピター
数字が大きくなって64はビートルズの「When I'm 64」

100番台になると
111はベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ(作品111)
127は同じくベートーヴェンの弦楽四重奏曲12番(作品127)
131は静謐な感じがすきな嬰ハ短調の弦楽四重奏曲(作品131)
132は真ん中の楽章にリディア旋法の祈りがあるイ短調の弦楽四重奏曲(作品132)

再びモーツァルトに戻って
K136のディヴェルティメントニ長調
K219のヴァイオリン協奏曲イ長調「トルコ風」

300番代は
K304のヴァイオリンソナタホ短調(この曲の二楽章が好き)
K310のピアノ・ソナタイ短調
K330のピアノ・ソナタハ長調
K331はピアノ・ソナタイ長調(通名なトルコ行進曲のソナタ)

400番台は
466はピアノ協奏曲ニ短調(K466)
488はピアノ協奏曲イ長調(K488)
491はピアノ協奏曲ハ短調(K491)

500番台は
K511のロンドイ短調
K550のト短調の交響曲
K551は「ジュピター」
K581のクラリネット五重奏曲イ長調

600番台は
K620の「魔笛」
K626のレクイエム

このようにほとんどモーツァルトの作品の通し番号かケッヘルに結びつけている
(まだまだ思い出せるケッヘル番号がある)
ベートーヴェンの作品番号も若干覚えているが(エロイカは作品55,運命は作品67など)
不思議なことにバッハのBWVは何故か全然覚えられない
それは(多すぎて)覚えようとする気が無いのかもしれない

結局のところ、モーツァルトが好きなので
好きなものは自然と覚えてしまうということだろう

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