パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

報道されていないこと(住民監査請求)

2020年06月20日 12時04分53秒 | 市政、市議会に関することなど

現時点(6月20日)では、新聞にその記事は掲載されていない
その行為は予め記者クラブに伝えてあり、
現場では二社が聞き取りを行っているのだが、、

小さな地方都市では新聞あるいはテレビで報道されないと
何も知らなかったというよりは、何事もなかったと認識される
最近のSNSを用いて当事者がいくら発信しようが、
老齢化の進む地方都市では既存メディアの力は絶大で
それらで報道されないと、何も伝わらない

現時点で報道されていない行為とは「住民監査請求」のこと
昨日「新城市政を考える会」の有志は監査員事務局に「住民監査請求」を行った
「住民監査請求」は行政訴訟の前段階的なイメージが強く、
現に過去2回「住民監査請求」の後、裁判は行われた
(庁舎建設用外移転補償返却訴訟、政務活動費返却についての訴訟)

少しばかり物騒なイメージのある「住民監査請求」だが
今回の内容は(今のところ)それほど強固な請求ではない

その内容だが、これは何かと問題となっている新東名高速道路を
つかった新城・名古屋高速バスに関することで

1.28年度からの委託企業との契約について、価格競争による一社随意契約となっているが
 予定価格と見積価格がピッタリ同一であり、これは一般的に官製談合が疑われる範囲内なので
 内部調査をしてほしい

2.28年度に計上された経費のなかに償却費があるが、この年使用していたバスは古いもので
 既に耐用年数を終えて、減価償却費用が生じないのに請求がきており、そのまま支払った
 このような事があったので、その後の契約・支払いにも若干の疑いを覚えずにはいられない
 だから、償却費については詳しく調査すると同時に、不当支出があったとされたときは
   委託会社にその分の返却を求めるよう、市長に請求する

の2点だ

これらは早いうちに、行政からしっかりとした説明責任が果たされていれば良いのだが、
残念ながら、これ以外にも民間企業の視点から眺めると少し首を傾げる経費がある
経費の内容、詳細については営業秘密に関わることなので、、と行政は口にしたが
それならば、その価格の正当性・妥当性はどのように担保したのだろう、、と
新たな疑問も湧いてくる

何事も疑いの目でチェックするのは、少しばかり人間的にどうかとも思う時があるが
疑いの目でチェックしないと気づかないことがあるのも、これまた事実

監査委員事務局の方の「説明責任がしっかりなされていれば良かった」
とのボヤキ(?)は、まさにそのとおりだと思う

まずは、昨日(6月19日)にはこのような事があったということ
(ローカル紙はこのあと報道をするのだろうか、、、、)
 

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誰が支払うべきか(弁護士費用)

2020年06月19日 08時24分01秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

その話をすると、大半の人が「何故?」と首を傾げる問題がある
弁護士の費用の問題だ
(残念ながら)新城市議会の6人の議員は、政務活動費の使いみちについて
疑惑を持たれ、市民有志から行政訴訟を起こされた

裁判は費用がかかると言われるが、現実的は弁護士費用が多いだけで
裁判運営についてはさほどかからない
原告である市民有志はこの弁護士費用を、自腹で支払い訴える事になった

それに対して、政務活動費の使用の正当性を訴え
訴訟を迎え撃った6人の議員の弁護士費用は
彼らの自身による支払いではなく、市からの税金で支払われることになった
(ここの部分で大半の人は「何故?」という)

これは、制度的に市長が政務活動費の支払い許可をしているので
「市長は該当議員に対し不当な政務活動費の返却を求めよ」
と市長を被告にしなければならない手続き上の措置によるものだが
実態として訴えられているのは6人の議員である

この弁護士費用は既に顧問弁護士に手付金として10万円支払われているが
先月、裁判自体が一段落したので、手付金の他に実費としてかかった
弁護士費用27.8万円が6月議会の補正予算案に急遽上程された

ここで問題は2つ
そもそも弁護士費用の支払いは誰がすべきか、、という根本的な問題
法的な(制度的な)問題にとどまらず心情的・感情的な問題を含めて
誰が支払うのが一般人の理解が得られるかということ

もう一つは、補正予算案は議決によって承認されるが
その議決の過程で、今回の裁判に訴えられた6人の議員が
議決権を果たして行使できるのかという疑問
(議決する資格があるかという問題)

実質的な裁判の被告である6人の議員が、
自分たちの弁護士費用を市の税金を使うことに対する議決判断は
人間的な感情を想像すると、当事者としては払いたくないので
市に払ってもらいたい、、と思うのはごく自然なこと
だが自分たちに関する費用の支出を、損得の関係者である議員たちの議決で
決めて良いのかという疑問は頭を離れない

実はこの弁護士費用については、6人の議員に対して市民団体から
「自分たちの弁護士費用は自分たちの手で支払うべき」
との要請が書面で行われている

法的な解釈は時に人間の感情に反することがある
それは受け入れられない人間の理解力に問題があるのではなくて
法がそのようなことを想定していなかったり、
法が時代に合わせ変化する前だったりすることが原因の場合もある
法は静的な解釈学ではなくて、動的で変化しうるもの、、というのが
団籐重光の「法学の基礎」には書かれていた

つまり制度的な問題はいつか変わる可能性があるということだ
しかし、心情的な「なにかおかしい!」とする市民感情は
法の動的な部分を支える要素となっている

正直なところ制度として市が支払う解釈があるとしても
実態としての問題の議員さんが何も支払わずに済む、、ことは
どうにも納得がいかない

ということで、この補正予算(弁護士費用)の審議は6月23日(火)
1時半からの予算決算委員会で行われるが
どのような審議がなされるか気になるところだ

今でも自分は(法的にどうであれ)自分たちのことは自分たちで支払うべき、、
と強く思う


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あのときの判断は適切だったのか(後になってわかること)

2020年06月17日 08時29分18秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

先日中日新聞の社説に、原発のある地区の住民投票のことが出ていた
原発はかなり意見が分かれそうな問題だけに
一度住民投票を行って民意を確かめてみたらどうかとの訴えがあり、
住民投票推進派は署名活動を行い、地方自治法に定められた一定数を確保したので
住民投票を行おうと、議会の承認を得ようとしたところ
議会はNOを決断を下して住民投票は行われなくなった経緯が紹介されていた

住民投票は普通は(地方自治法では)このように議会の承認(議決)が必要になる
議員はそもそも選ばれて市民みんなの代表者だから、彼らに任せておけば
いちいちみんなの声を聞く住民投票などという手続きは必要はない
との住民投票に否定的な声もあるが、とりあえず制度としては存在する

このように住民投票の制度はあっても実際には議会の議決で
できなくなることも多いので、地方自治法以外の独自の条例で住民投票が
できるように定めた自治体がある

その中の一つに新城市があって、新城市は議会の議決の手続きを取らなくても
住民投票ができる条例があり、市民自治が進んでいる証と喧伝された
ところが、この住民投票条例には規則という別紙がついている
そこでは、議会の議決は要らないが、住民投票をするに値するか否かを
市長の諮問機関である「市民自治会議」で検討を行う手続きになっていた

2015年5月31日、新城市は新庁舎建設の計画見直しについて住民投票を行った
投票率は64%で、この数字以上の熱気が市内に溢れた
ところが、この住民投票は自慢の住民投票条例に従ったものではない
(それは議員提出の議案として議決されたもので、いろんな経緯があったが
  今回のテーマとは離れるので詳細は省く)

せっかく議会の議決を必要としない住民投票条例があるのだから、
それを使おうと推進者は手続きに従って行動を起こした
そこで問題となったのが「市民自治会議」での「住民投票を行う価値があるかないか」の検討

ここで問題なのは「市民自治会議」の判断はどうだったのかという点
時間が経過した現在での評価は、住民投票は行うだけの価値があったと思われる
(その後のゴタゴタは別として、現実的には5階建てから4階建ての庁舎に変更し
 建設費も10億円ほど少なくて済んだ)
ところが市民自治会議の結論は、「行うべきか行わないほうがいいいか」が
はっきりしないものだった
ちなみに市民自治会議の検討は非公開で行われ、
検討内容は「市全体に関わることか」
「意見の相違が一部だけでなく、全体に広がっているか」
などの点だ
この検討内容は今から見れば、そのどちらともクリアしていて
「住民投票をすべし」との結論の方がまともだったと思われるが
当時は曖昧な結論しか出なかった

すると、市民自治会議はそもそも市全体の重要な問題に関して
検討するだけの資格があるのか、、との疑問につながる
制度としての「市民自治会議」は存在する
しかしその「市民自治会議」を行うのは市民だ
市民は主権者、納税者、生活者の顔を持っており、
特に主権者の意識が強いことなどない
普通の生活者としての市民が、その重要なことの決断を迫られて
その決断を行う、、という制度自体の現実性(実態性)はリアルなものだろうか

このときの自民自治会議のメンバーは、果たして議会の傍聴やら
住民投票を推進するメンバーによる説明会に参加したことがあっただろうか
現在ではそれを確かめるすべはないが、
少なくとも現在の市民自治会議のメンバーを議場で傍聴者として確認したことはない
(ケーブルテレビデ見てるかもしれないが)
おそらく当時のメンバーも今と同じように、
議会の実態に関心があったとは言えないのではないか

市民自治会議のメンバーは与えられた問題についてはきっと真面目に考えただろう
でも、それはその時、その場だけの感想の域を超えることができただろうか

制度がある、だがその制度が本当に機能しているか
これについては、常に誰かがチェックしなければならないと思う
でないとステップさえ抑えておけば「適切に」のお墨付けを
与えてしまうことになる

制度と実態
これは面倒だが、完璧とまではいかなくても程々に機能しているかどうかは、、
見続けないとまずいな、と思う昨今


 

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条例は誰が、どのようにつくるか(ある例から)

2020年06月14日 08時46分34秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

地方自治体の条例、これは一体誰がつくるのだろうと考えてみた
条例として認められるには議会の承認が必要だが
議会は議決だけなので、つくった当事者とは言えない
その議案(条例)の上提者が作った人と考えるのが自然かもしれない
議案の上程者、行政のトップである首長には新しい条例を作成した
という名誉の称号が与えられる可能性がある

しかし現実的には首長は「これこれの条例を作るように」
と指示するだけで、現実的には行政のスタッフがそれに沿って
具体的な作業を行うことになる
これは「奈良の大仏を誰がつくったのか?」の問を連想する
「聖武天皇」と答えると、「ブー、大工さんたち」とやり返すように
現実的な作業は、現場で行われる

少し前、ある条例を作るための一連の工程を経験した
それは、よくあるようにまずは現状分析から始まる
最初のステップをとして、行政からの依頼で市民の集まりが結成され
「作業部会」なる組織が作られた
その「作業部会は」市長の諮問機関である「市民自治会議」の
そのまた下請け的な位置づけで、そこでは一般市民の感じる
現状把握、共通認識、問題点などの意見交換がなされた

一般市民の集まりはどうしても話が四方八方に拡散しがちになる
それを防ぐために実質的な会議の進行者である行政はレジュメ作成し
それに沿って会議を行うようリードする
この方法は必然的に無駄な話はなくなる、、という良い面はあるのだが
「そもそもこの条例は作る必要があるのか?」
というスタート時点に立ち返った議論はなされない
市民自治会議から委託された議論は、「ありやなしや」ではなく
どのようにしたら良い条例ができるか、、に終始するように
会議はコントロールされる

ところで、この行政から依頼され市民というのが、出席一回に付き
いくらかの「報酬」が支払われる(これは条例で決まっている)
ただ「会議自体の方向性が予め決まってみえること」
「報酬をもらうことで自由な意見が言えなくなる」
ことに関して個人的には若干の不満を覚えたので、
報酬の支払いを辞退し、好き勝手なことを言わしてもらう、、
を条件に作業部会の出席を続けた

作業部会は行政の望んだようには進まなかったのかもしれない
この会の委員長がとても優秀な人で、拡散しそうな意見も適度に取り上げ
それぞれ好き勝手な発言を許し、それでいて本筋から外れないよう
コントロールされた会議が続いた
初対面で遠慮気味に構えていたメンバーもそのうちに和気あいあいと
自らの経験による考えを披露することになった
会議は本筋から離れないとはいうものの、行政の望んだように進まなかった
というのは、条例の前提となる「市民間のレベルアップを如何に進めていくのか」
との深刻な問題が、条例作成のための議論の時間よりも長くなったのだ

この「市民間のレベルアップ」については、作業部会は依頼主の市民自治会議に
提出した書類にさらなる検討事項として書き込まれた

しかし、、、、

舞台は今度は市民自治会議に移った
市民自治会議は作業部会の討論(議事録)を踏まえ、次の討論をすることになっているのだが
現実は作業部会で討論・問題視されたことを再び話し合うようなことになり
議論が進んだという実感はない(傍聴してる限りは)

時間が残り少なくなると、条例化の具体的な内容に入っていった
実際のところ、素人は条例文など作成できない
そんなことに慣れていないこともあるが、
一つの文章が他の法律・条例に矛盾していないかをチェックしなければならない
そんなことができるのは、法務に通じた行政しかない
結局のところ条例文は、法務の知恵を借りた担当部署の行政が作成することになった
その出来上がりの文章は、作業部会・市民自治会議の内容をどのように反映しているか
については、かなり不漫が残るもののように思えた
条例文にあまりにもあれこれ書き込むと却って矛盾点が多くなってしまうので
抽象的な一般論的な表現にとどまることになるらしいが
それならば、あの長い時間を費やした会議等はどのような意味があったのか
と考えてしまう

つまるところ、最終段階としての議決が、目前にある条例文だけを読んで
「是か非か」を判断するのが議員の役割だとしたら
その行為は何か違っているような気がしてならない
大体において条例文は、まずいことが書かれていることはなく
ケチのつけようがない可能性がある
だからこそ問われるのは、その条例の生まれる必然性とか存在価値となるのだが
それは初期の会議で話されたこと
その会議の情報を見ずして、目前のケチのつけようにないと思える条例文に
「是か非か」の判断をするのは、どうしてもステップを踏んだだけ
と思えて仕方ない

果たして今回の定例会で議会はどのような判断を下すのか
(条例の作成過程を見たものとしての備忘録としてアップした)




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報酬を受けること(自由に活動できなくならないか?)

2020年06月14日 08時46分34秒 | あれこれ考えること

普段だったら絶対できない我慢や忍耐、感情を抑えることなどが
仕事の場面ならできる、、という経験は誰しもが持つと思われる
この意味では仕事は人生の貴重な訓練の場とも言える
ところが、仕事で何故そんなに自分を抑えられるかを考えてみると
少しばかり危うい面も見られてくる

我慢ができるのは仕事の対価、お金が関わってくることが多い
例えば理不尽なお客からの罵倒も、客を怒らしたらマズイ
会社に迷惑をかける、ひいいては自分の評価・給料まで響いてくる
と瞬間的に考えることなどが想像できる

人はお金に弱い
特に自分に対しお金を支払ってくれる人に弱い
中国の韓非子は冷徹なまでのリアリストで
彼は従うのはそのお金をくれる人に対してであって、
その原資となる人々にではないとしている
現在の世界を当てはめると、官僚さんは自分たちの給与の原資である
国民の利益に従うのではなく、自分たちの直接の人事権をもつ立場の
人に従う、、ということになる

新城市には若者議会というシステムがある
ただ世間における評価と市内における評価とはかなり違ったものになっているようだ
何よりも若者議会という言葉は知っているが、何をしているか分かっていない人が
多いためにこうした評価になっていると思われる

この若者議会の評価について若者会議のメンバーは
当事者としてどのように感じているかが興味のあるところだが
ある会議録を見てみると、若者たちはいい意味で焦りを感じている
それは市内の人たちが感じている実体感の無さを
自分たちも手応えの無さで感じているようにみえるのだ

あまり知られていない、、なんとかして知ってもらわねば、、
まだ人を疑うことを知らないような若い高校生を主体とした若者議会のメンバーは
会議を行うごとに報酬を受けている
そしてそのことに対し、おそらく直感的に疑問を感じるようになった
もらって良いのだろうか、、もらうべき仕事を自分たちはしているのだろうか
おそらくこれは理屈ではなく、彼らの頭に浮かんだ感情で、それがどこから出てくるかは
わからないとしても、なんとなく違和感を感じるというものだろう

これは今期の若者会議の答申の一部において、
若者会議のメンバー自身が報酬を受けていることへの抵抗感がある
との発言に、市長はもらうことは引け目を感じることではない
との理屈を披露した
果たしてその理屈が若者にストンと理解できるものだったかどうかはわからない
だが、少し心配なのは「人はお金に弱い」という傾向を生み出すこと


人は知らず知らず韓非子の言うように
「自分に対しお金を支払う人にものを言いにくくなる」
最初、お金をもらうことに直感的に違和感を感じても、
そのうちに慣れっこになると当然となり、その支払う主体に対しては
よほどの変人でない限り、無条件に従うことになる

きっと、人は「お金を払ってくれる人には弱い」傾向は
どうしても拭い去ることはできないだろう
だがそれを意識するかしないかは大きな違いがある
無条件にそれに従うか、それとも多少の疑問を持つか、、

人は好きなことには自分の金を使って取り組む
遊びはその代表だが、どういうわけか真面目な分野ボランティアとかにも
自分の時間とお金を使って参加する人がいる
そしてその人たちはお金を使っているにもかかわらず充実感を覚えている
お金をもらうから活動するのではなく、お金を使って活動する
ハンナ・アーレントは「人間の条件」でこのあたりのことを言ってる
ような印象を持ったが、物事の純粋性は
「お金をもらうからではなく、お金を払って行動する」方にありそうな気がする

ということで、よくまとまらない話
これはもう一度頭を整理して考えよう

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総意と違う結果(またもやバタバタ)

2020年06月13日 15時46分35秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

どうやら会議には、何かを決める会議と何も決めないものがあり
何かを決める会議は、その意思決定の過程を後世の人が理解しうるように
会議録を残すものとしていて、これが大半の会議則の前提のようだ
微妙なのは何かを決めなくても、実質的に後の決定に大きな影響を
与えているものの扱いだが、基本的には何も決めていないので
会議録は残さなくても問題はないとされる

これは国会のやりとりで、コロナ対策専門会議の議事録についての
質疑が行われた時にようやく自分が理解したこと

何か決めない会議というものを、最近見聞きしたした
新城市議会の「全員協議会」がそれだ
そこでは最近、結構な時間をかけて一つのことが話し合われた
それは新城市議会からの東三河広域連合へ送り出す議員の選出についてだ
東三河広域連合には新城市には割当で3人が行くことになっている
普段なら総務消防、経済建設、厚生文教委員会の委員長が
慣例で行くことになっていたのだが、今年送り出す議員については
そのうちの二人の委員長に問題ありとの声が上がった

その問題とは、二人に政務活動費の使い方に疑わしい点があり
住民監査請求のあと、行政訴訟まで行われることになった
この行政訴訟はあと少しで結審というところで、
実質的な被告の議員6人が急遽、訴訟対象となっている宿泊費の
返還を行ったので、訴訟自体は争うものがなくなり
形式的には原告の訴訟の取り下げという形になった

他の自治体の広域連合議員が新城市の訴訟の詳しい内容を
知っているかどうかはわからないが、常識的なこととして
このような少しばかり恥ずかしい議員は、今回は市議会の
代表として送り出すのはやめることにしたほうが良い
との声が上がったのだ

このようなことが議員の素の人格が見える「全員協議会」で
長々と話された
繰り返しが多い議論だったが、最終的には総意として
今期は新城市に輪番として回ってくる議長職は辞退すると
広域連合に伝えるものとした

だが「全員協議会」という会議自体は「何かを決める会議」に相当しない(らしい)
なので、会議録は残らないし、あとでどういう内容だったのかも確認できない
全員協議会の内容を知っているのは、議員さんとそこにいた傍聴者だけとなる

こうなると、一連の流れを知っている人(傍聴者)と知らない人には
大きな情報格差が生まれてしまう
この情報格差が更に出てしまう事態が発生した

全員協議会の総意(今回の議長職の辞退)が形として実現されれば良いのだが
先日行われた全員協議会では、その総意は実現されなかったことが明らかになった

広域連合の臨時会が行われる前に、新城市議会の議長と議会事務局は一緒に出かけ
広域連合に先の全員協議会の総意としての「議長職の辞退」を伝えた
すると困ったのは広域連合で、新城市の議会内のゴタゴタで今までの慣例が
崩されてしまうのはかなわん(他の自治体にも影響するし)ということになった
そこで広域連合は「全員協議会」でこのことを議論することになった
だが、今度は全員協議会はこの問題を「議会運営委員会」に付託した
そこで議会運営委員会が開かれ、このことについて討論が行われた

問題はこの「議会運営委員会」のメンバーで、
このなかには行政訴訟の対象人物としての二人の人物が入っていた
その二人とは以前の副議長として中西議員、
新しい議会運営委員会のメンバーとして竹下議員だ
(広域連合の議員としてふさわしくないとされた)当事者が
当事者の問題を話すことになるので、
果たして真っ当な話し合いができたか疑わしく思えてしまうが
とにかく、そこでは「新城のことは新城のなかで解決するように」
との結論にいたった

この結論は常識的かもしれない
そもそも新城市議会の議員間の問題で、広域連合の場で議論すること自体がふさわしくなく
新城市のなかで解決すべき、、としたのは、当然かもしれない

ところが、そこですんなりいかないのが現在の新城市議会の奇妙なところ
広域連合は、輪番となっている議長にはそのまま新城市の議員がなってほしい
誰にするかは3人のうちで決めてほしい、、
と下駄を預けたが
今回の場合は裁判沙汰の該当人物になっておらず、問題のない小野田市議が
今回は各種事情を鑑み、私が立候補する、、と声を上げたが
同時に中西市議が立候補し、竹下議員が彼を推薦としたので
結局のところ2対1の多数決で、中西議員が新城市が選出した議長職該当者
ということになった

これは長い時間をかけた全員協議会の総意とは明らかに違う
だから、一部の議員からは不満の声が出るし、それに対して対抗策も出てくる
ところが、大半の人はこうした議会内の出来事を知らないし
確かめようにも議事録はないので
ただ単にゴタゴタしているという印象だけが残ることになる
そしてこのことを伝え問題視する市民団体の行動を
いつもの奇妙な行動とみる(可能性がある)

常々思うが、時間のある人は議事録の残らない素の人間性のでる
全員協議会へは出かけたほうが良いと思う
本当はいちいち監視しなくても、ちゃんとやっててくれればいいのだが


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ドイツとの比較(持続化給付金と電車の切符について)

2020年06月12日 09時03分59秒 | あれこれ考えること

先日、国会中継を見ていたら国民民主党の玉木さんが
持続化給付金のスピード感のあるドイツを取り上げて
日本との比較を行う場面があった

彼の説明によるとドイツでは申請用紙は2枚で
申請金額の総額を記入したもの
もう一枚は社員の氏名年齢等の記入したもので
極めて簡単なもので、申請はすぐに書けるし
給付もすぐになされたとのこと

一方日本は、申請の当事者でないので正確にはわからないが
かつて交付金事業の申請書作成に関わった経験からすると
申請用紙の書き込むこと、添付資料等が相当多いことが想像され
申請する方もそれをチェックする方も時間がかかることが想像できる

ドイツの場合、心配なのは不正があった場合のことだが
とりあえず、直ぐに必要なものは支払うことを優先し
後でチェックをして、不正が見つかった場合は罰金なり
回収をするとのことらしい
そしてその不正のチェックも全員に行うのではなく
適度にサンプリングして行うのだとか

これがドイツの正確なシステムかどうかは
ちょっと聞いただけなので自信がないが、
不意に浮かんだのは、ドイツの鉄道(交通)システムと似ているな
ということ

ドイツでは電車に乗る場合、改札口がない
誰でも勝手に駅の中に入り、勝手に電車に乗り、降りることができる
乗車券はもちろん必要で、予め購入しておかなければならない
乗車券を持参しているかどうかを確かめるのは、
時々(?)回ってくる車掌さんで、彼は持っていない人を見つけると
罰金の支払い(始発駅から降りる駅の三倍の料金?)を求める
日本のように車内で乗車券の購入で間に合わせることはできない

この車掌さんは毎度毎度回ってくるわけではなく、回ってこない時もある
だから悪いことを考える人は当然発生する
電車だけではなく、バスや市電もこのようになっているので
若い時、自分もドキドキしながら市電のキセル乗車をしたことがあった
(今思うと、本当に反省している)

一方、日本では無人駅が増えてきたが、大半の駅に改札口がある
そしてその改札のためにICカード、磁気を帯びた切符、
異なる企業間の乗り換えに対応など、いろんなシステムを導入している
それが技術的な進歩に繋がっているのは事実だが、ドイツと比べると
少々無駄が多いような気がしないでもない

ドイツの改札がなく、自由に乗車下車をできるようにしておいて
個人の責任において金額は支払っている前提で成り立っているシステム
不正は適度なサンプリング(時々回ってくる車掌さん)でチェック
これは、持続化給付金のシステムとなんとなく似てると思うわけだ

心配なのは、これを守る人がどのくらい多いか、、
となるが、現実的にこのシステムが成り立っているのだから
損害(不正)で成り立たないほどではないということなのだろう
また改札口をいたるところに設置しなければならない費用を考えると
この方法の方がお金がかからないのかもしれない

だがそれを可能にしているモラルの高さは、
ドイツ人だからか、それともヨーロッパ人の意識の高さなのだろうか
(オーストリアでもドイツと同様な交通システム)
日本人だったらどうなのだろう、、とつい考えてしまう

それでも日本の田舎道ではこれに似ているホッとすることもある
新城から豊橋に向かう「柿の木街道」には、秋になると無人の柿の販売所が登場する
誰もいない台の上に袋詰200円の柿を並べ、近くにお金の投入口がある
欲しい人は好きな数の袋をとり、その費用分を支払うわけだ
ここでも悪いことをする人がいないか、、、と心配になるのだが
このシステムはずっと続いて毎年の光景になっているところをみると
人はそんなに悪い人ばかりではない、、ということになりそうだ

楽観的に考えると、どうやら人は自由に悪いこともできる状態に置かれても
自らのブレーキをかける気持ちが働いて、悪事は働かない、、という
社会的な知恵を持つようになっていると思われる

ところが残念なことに世の中が、このように一種の性善説で成り立っていければ良いのだが
現実は「〇〇を誘うようなことをしてるほうが悪い」とか「〇〇してはいけない」と書かれていない
と開き直るひとがいるのも事実
しかも、そのような人は、社会的に上位のポジショションに見かけることが多い
(これは国も我市でも見られることで、果たして以前からそうだったのか、
 それとも最近のことなのか気になる)

性善説とか性悪説、おそらく人は両方の面を持つのだろうと思う
要は、どちらの要素がその人の個性となっているか、、ということで
性善説を全うするには多少の努力とか我慢が必要と思われる
(それにしても、我市の一部の市議会議員に倫理観の希薄なことは、、ちょいと悲しい)

 

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歩きながら思い出したこと(人の一生とは、人にはどれだけの土地がいるか)

2020年06月10日 08時18分15秒 | あれこれ考えること

青春ドラマや歌のタイトルになりそうな「夕日に向かって走れ!」
ではなく、「朝日に向かって歩け!」が毎日の日課となっている
この時期、マスクをしての運動は朝でも少しばかり辛い
それで鼻だけ出して、すれ違ったり、追い越し追い越されるときは
急いで隠すようにしている
3キロちょっとのウォーキングが終わり家に着く頃は
太陽はだいぶ高いところにある
朝のウォーキングは「心にうつりゆくよしなしごと」との対話の時間

アスファルト舗装された道路のひび割れを見ると亀の甲羅に似ている
この形は遺伝のせいではなく、物理的な力の作用によるものとする
チューリングの理論がなんとなく説得力を持つように思えてくる

不意に高校時代の英語の教科書(多分リーダー)に出てきた話を思い出した
ある王様が、部下に「人の一生とはどういうものか?」
との答えを提出するように求めた
部下は王様のいろいろなエピソードを必死になって集めて本を作り王様に見せた
すると王様は「長すぎる」との一言
そこで部下は印象的なエピソードだけを選んで、少し短くした
ところが王様はまた「長すぎる」
これが何度か繰り返されて部下の記録はどんどん短くなっていった
王様も歳を重ねもう次回の報告を待てないくらいになった時
部下の提出した最後の答えは「生まれた、生きた、死んだ」となった
王様は「それでよい!」と満足した、、、確かこのような話だった

そうかもしれない
何か特別の目的があるわけじゃなく、ただ単に時間の経過があるだけかもしれない
悲観的に見たり、虚無的に見るのではなく、素直にそうかもしれないと思うのだった

するとこれに触発されて思い出したのがトルストイの民話集「イワンのばか」
に収められた「人にはどれほどの土地がいるか」の物語
農夫は引越しをするたびに大きな土地の所有者になっていった
ある時農夫は引越市先の土地所有者に
「日が昇り日が沈むまでに歩いて囲った土地をお前に与えよう」
との提案を受けた
農夫は誰もが行うように必死になって歩いた(走った)
もう少し行けるかもしれない、、もう少し、、
農夫はどんどん歩く(走る)
そのうち太陽は沈みかけてくる
まだ間に合うはずだ、、だがしんどい身体が、あと少しだ、、頑張らねば、、
しかし農夫はスタート時点に戻る手前で息を引き取った
結局のところ人に必要な土地とは、遺体を埋葬するだけの面積!
というのがこの物語のオチ

幸か不幸か、田舎にいると他人と比較したり、競争心を煽られたりすることは少ない
上昇志向も年齢のこともあり縁がない
昨日と同じことが今日もつづく退屈な毎日
でも、些細なことに驚きを感じることはできる
若い日に経験したことや読んだものを思い出すことができる
そういう毎日は、、悪くない、、と思う

だが、それでも時々、言いようもない焦りとか怒りとかは襲ってくる
仕方ない、生きる(生活する)というのはそういうものなんだろう

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議事要旨、議事録について

2020年06月08日 08時41分49秒 | あれこれ考えること

国と市がシンクロしていると感じる昨今
国関係の話題ではコロナ対策専門家会議の議事録が残されていないだとか、
議事要旨で十分ではないかとの意見等が交わされている

(市の)ある会議に出て、議事録とか議事要旨を実際に経験した者とすると
議事要旨というのは微妙な存在だ
議事要旨をまとめる2人の人物を見ることになった
1人は、特殊な才能とも言えるほど(その能力に呆れるほど)ものごとを
まとめるのに長けていた
彼はまとめた上で、会議の参加者にそれを回して了解を得て議事要旨を残した
そしてその議事要旨は不満のないものだった

もう1人は、何人かいた関係者の中の現場における中心人物という立ち位置で
常に会議には出ていたが、ある時その会議の議事内容を他人に説明する機会があった時
議事要旨をいう形でザッと説明したのだが、それが自分たちが行っていた会議の内容とは
どこか違っているように思えた
その違和感は自分の個人的な印象ではなく、会議に同席していた彼の上司も持ったので
その場で若干の訂正を求める事があった

議事要旨は、このようにまとめる人の力量とか何らかの意図によって
その印象は変わってしまう可能性がある
会議は時間をかけて行われているとしても
それだけちゃんとしたステップを踏んでいるとしても
本当のところは現場を見ないとよくわからない、、というのが実感だ

議事要旨ではなく議事録がある、、としても、議事録はどこか静的な印象がある
会議での雰囲気とか熱気とか勢いとか、なんとなく参加者の間に広がった共通の感覚とか
そうしたものは議事録ではわからない
テキストデータとしての記録と実際の人が感じた(納得した)記録(あるいは記憶)とは
だいぶ違う

これは市議会を傍聴してそこで感じたものと、静的な議事録との印象の違いとしても現れる
特にマズイのは議事録は不穏当発言は削除されて残される
その削除された部分が重要な意味合いを保つ場合、議事録で何かを確認しようとしても
それはできず、運良く傍聴に出かけた人の記憶に頼るしかなくなる
新城市では不穏当発言の多いある議員さんの一般質問の内容を確認しようと思ったが
公にされた議事録は削除部分が多すぎて、確認作業を続ける意欲を失わせるものだった

議事録とか議事要旨が残されていると言っても、それは完璧な記録にはならない
一番いいのは「そこで見聞きすること」だとつくづく思う
だが現実的にはいつもいつもそれが可能というわけにはいかない
ちゃんとした人が、ちゃんと行って、ちゃんと記録を残している
という前提に立って、その意思決定の正当性が担保されるが
現実の世界は、国も市も、理想通りにはいかないというのが実態のように思えて仕方ない

現在、市では二年の時間をかけて条例化を進めようとしている案件がある
二年の時間をかけたのは事実だ
だがその二年間の間に、何が大きなテーマとしてあがり、何が問題とされたのか、、
については、今はその気になれば調べることでできる議事録を見ただけではわからない
(そもそも延々と議事録を読み続ける人が存在するのか?)

ちゃんとしたステップは踏んでいる
制度上はそうかもしれない、だが問題はその実態はどうなのか、、、
については、ずっと批判的に(?)見ていたものからすると、少しばかり違和感がある

諮問機関、パブリックコメントのステップは行政のアリバイ作り、、
と言われるが、つい納得してしまう

 

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「東海道中膝栗毛」(現代語訳)読書中

2020年06月06日 08時41分58秒 | 

アマゾンで購入した現代語訳の「東海道中膝栗毛」
まだ(上)の途中だが、その内容に少し驚く
なんとなく弥次喜多のアホな行動は想像していたが
いざ読んでみると、こんなだったとは

この二人はパワフルな人間だ
馬鹿らしいこと、今でいうモラルに反することをしても平気だ
女には弱いし、お金をごまかそうともする
だが、そのしっぺ返しは食らうのだが全然反省はしない
ただただ生命力あふれる強かさがある

この時代の日本の作品を読もうとしたのは
ヨーロッパではベートーヴェンの時代でその精神的な雰囲気が
どのくらい違うか知りたかったためだが
ベートーヴェンと同時代の文学的な分野ではゲーテがいる
ゲーテはウイルヘルムマイスターの修行時代などで
人としての成長を扱う「教養小説」を残していて
その作品類の意味もわかる
だが、「東海道中膝栗毛」はそんな要素は微塵もない
(読む進めるとどうかわからないが現時点では)

ただバカバカしい話に終止するヨーロッパの同時代の作品もないことはない
モーツァルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」とかはその一つで
「女は貞節を守れるか?」
について二人の若者対ものごとを知った哲学者・世間知のある女の間で賭けが行われ、
それを確かめるために若い男たちは変装して、それぞれが自分の恋人とは違う相手を口説いて
気が変わらないかを確かめる、、というバカバカしい内容だ
本当に話自体はとんでもない話で、この歌劇をベートーヴェンは不謹慎と怒ったようだが
音楽自体は楽しさとか瞬間的な美に溢れて、個人的には内容は褒められないが
音楽は好きだし、、、人間はしょうもないなあ、、とも思う

バカバカしい話は教育的な意味が薄いだけに、説教臭くなく読み飛ばしやすい
いい加減さも人の持っている本質の一つと思えば、
これもまた本質をついている作品なのかもしれない
それに東海道中膝栗毛が教養小説的要素があったなら、
果たして後世まで残ったかは疑わしいかもしれない

日本の社会は人間的成長よりも、ゆるい社会で楽しんだもの勝ち
といった空気があったのかもしれないと勝手に思ったりする

ところで、「風が吹けば桶屋が儲かる」という話がこの作品の中に出てきた
風が吹くとホコリが目に入り、目が見えない人が増える
目が見えない人は生きるために三味線を覚えようとする
すると三味線の需要が多くなり、三味線の材料である猫の皮も必要となり
猫は捉えられて世間に猫は少なくなってしまう
するとネズミが増えて、ネズミは桶をかじって使い物にならなくなってしまう
こうして桶屋の需要が増えて儲かることになる
との無理やりの理屈だが、そこでフト思ったのは
この話は東海道中膝栗毛が最初に出てきた話なのだろうか?ということ
この無理筋の話は既に有名な話で、ここでも紹介されたに過ぎないのだろうか

それにしても、弥次喜多の反省のない逞しさには少し憧れてしまう
読みかけのため、旅の道中はまだ地元まできていないが
地元の章はじっくり読むことにしよう

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