母は豊川海軍工廠の空襲を実際に体験した人で、戦争のニュースを見るたびに
もうあんなことは嫌だ、、という
その時の他人の足や身体を踏みつけて命からがらに逃げ出した記憶とか
あの頃は食べるものがなくて南瓜ばかり食べてたとか
お粥のように薄めたご飯を食べていた事を今でも憎しみを込めて口にする
先の大戦から76年
今日、全国戦没者追悼式が行われた
母の「時間になったら黙祷するよ!」の声で一緒にその中継を見た
少し偏屈な自分は、読み飛ばしとか読み間違えの多い菅さんのあいさつをに
関心をもって改めて真面目に聞いてみた
そこで気になったのは2つのことだった
それは現在の日本の復興や繁栄は、戦争で亡くなった人たちのおかげであるので
その御霊に対して、御霊安かれと祈る!という部分と、
今後も平和を守るためには積極的平和主義のもとに邁進していくという部分だ
(これは安倍さんの内容と似ているか使い廻しか)
だが、今の復興や平和や繁栄は、亡くなった人たちのおかげ?
それは違うとすぐさま思った
心情的にはそのような美しく響く言い回しは、ある一部の人たちには効果的かもしれないが
現実はたとえ無意識であったとしても、それを実現しえたのは戦後の当事者である
国民全体の力、努力のおかげだと思う
日本国憲法には「努力」の一言が書かれていて、平和を守り続けるには当事者のそれが必要とされていて
菅さんの感傷的な言葉よりも、その後で式辞を述べた天皇の
残された人々の努力の賜物(こんなニュアンスのことば)のほうが
法的にも実情的にもすんなり受け入れることができた
ならば天皇はなくなった方に対してどういう言葉を伝えたか?
おじいさんが統帥権をもっていた時代に、多くの人を死に追いやったその子孫として残す言葉は
自分の感じたちところでは、心情的な哀悼の意であり、彼らの死が今の平和の石杖などとは言わなかった
それは冷たいとか感情がないと言うよりは、物事を正確に把握していると少ない言葉の中に知性を感じる事ができた
次に、積極的平和主義という言葉は、それが何を意味するかは、今までの安倍さんとかあの界隈の人たちの
言い分を考慮すると、かなり危なっかしい平和主義だ
それはある意味リアリストの選択する方法かもしれないが、それは一方で無用な争いを生み出しかねない気もする
最近、世界中で危なっかしい人が上に立ち、形式的には合法的にその支配を正当化している
それはSFのアイデアのように無意識のどす黒い力が、実は人の世の中を支配しているかのような
妄想さえ引き起こす
つまりは、世界は本当に不安定なのだが、その危ないところから抜けだすには
共感力をもつ人間性とか倫理観とか正義感とか、、、
こうした、すこしクラシックな概念を鍛えるしかないような気したりする
長らくウィーン・フィルのコンサートマスターを務めたライナー・キュッヘルさんは
「音楽を理解することは難しいが、感じることはできる」とあるインタビューで答えた
確かに具体的な内容を伝えることのできない音楽は、感じるという人の感覚に頼って
その存在意義を保っている
その感じるという行為は、それを言語化しようとすると、とてつもなく難しい
感傷的なメロディーに酔うなんてのは、わかりやすいパターンだが
バッハの音楽と対峙した時の精密な構造物のような感覚とか
ベートーヴェンの32番のピアノソナタの第2楽章の音楽は
全てを経験した上での澄んだ境地のような音楽は、
単なる感じるという行為以上の聞き手の能力を要求される
つまりは、経験によって聴き方は変わってくるということだが
感じ方は、今まで聴いてきた演奏との比較によって際立つことがある
キュッヘルさんは演奏家に重点が置かれすぎるのは良くないことで
あくまでも作品のもっている何かを追求すべしとしている
ところが、再現芸術である音楽は同じ楽譜でも時代背景や、演奏者の感覚、切り取り方によって
そのニュアンスや、訴えるものまでも変わってくる
そんなことを思いながら聴いたのが、購入したまましばらくほったらかしにしていたこれだ
大好きなブルックナーの2番と8番のセットで、オーケストラはゲヴァントハウス管弦楽団
この指揮者アンドリス・ネルソンスという方は知らない人だ
だがゲヴァントハウス管弦楽団がどんな音を出すのか気になった
(それはウィーンフィル、ベルリン・フィル、シカゴ管弦楽団独自の音の比較となる)
この比較をするのにはよく聴き込んでいる音楽が良いということで、
まずは2番のアダージョの楽章から聴き始めた
この楽章は本当に好きで、瞑想的な沈潜する8番のアダージョについで好きかもしれない
この音楽で感じることは、オーストリアののどかな風景だ
ブルックナーの生まれ育った田舎の平原のような風景で
それはブルックナーがオルガニストを務めた聖フローリアン修道院に行くまでのバスから眺めた風景だ
そしてイメージするのは、他にもは雨に濡れたバス停をイメージがある
このイメージピッタリの演奏がアイヒホルン指揮のリンツブルックナー管弦楽団の演奏で
巷ではさっぱり評判は聞かないが、個人的には大好きな演奏だ
何よりもアイヒホルンがブルックナーを好きで仕方ない、、という気持ちが感じられる
さて今回のゲヴァントハウス管弦楽団の演奏は、第一感、地味な音色だなと言う点
ベルリン・フィルのような底力のある音ではなく、ウィーンフィルのような色彩的な音でもない
ただ指揮者の要求するフレーズとか金管楽器の地味なパートの部分もよく聞こえる演奏で
こういうのは最近の傾向かもしれない、、と思ったりした
これを聴いたあと、直ぐにアイヒホルンのCDを取り出して同じ楽章を聴いた
ああ、やっぱりこの音、この空域感
感じたのはそのことで、そこは安心感と懐かしさを覚えるものだった
と言っても、今度のCDが不発だったというわけではなく、
いろんな表現の仕方があると再認識したのは事実で、2番、8番の組み合わせをするあたりは
自分の好みと近い気もするし、失望とまではいかなかったので、
この組み合わせもう少し付き合ってみるか、、という気分
(だがもう少し涼しくなってからだな)
歩いて数分のお墓に、雨が小降りの間に出かけた
いつもと違ってお墓が明るい
ホオズキが至るところに飾ってある
その赤は、お棕櫚様が暗い中、道を間違えないための提灯なのだそうだ
お棕櫚様が来る時は早く来てほしいので馬を
そして帰るときにはゆっくりと帰ってほしいので牛を形作って備えている
お盆の行事というのは、こんなふうに人間のやさしい思いに溢れたもので
案外良いものかもしれない、、といつになく感傷的に思ったりした
年に1度、ご先祖様が帰ってくる
これは少しも科学的ではないが、そんなことはどうでもいい
ただ単にそれを当然のことのように毎年同じことを繰り返す
以前と同じことが今年もできる
そのことが、とても大事なことのような気がする
今朝、盆提灯を汗をかきながら組み立てて並べた
面倒くさがり屋だが、偉い人の命令を聞いて動くだけ
そんな一日は、実は幸せなのだと思う
オリンピックが済んで、また元に戻った感じがするのがこの偏屈な投稿へのアクセス
期間中は何か悪いことでもしたのか、、と思うくらい見に来る人がいなかった
普段でも日曜日とか連休も少ないので、やはり何か大きな関心事がある場合は
わざわざ面倒なことはしないのだろう
オリンピック期間中に新城市議会の有志による議会報告会が行われた
そこで大きな問題になったのが、小中学校の共同給食センターの建設延期の問題
これは情けない話で、行政のチョンボだ
建設予定地は市の所有地と思いこんでいて計画を進めたら、その一部に県の所有地が
含まれていて、実施計画が一分無駄になり、計画も遅れることになった事件だ
この経緯に関しては行政の市議会に対する説明も、どこか隠し事をしているようなところもあり
行政の謝罪も説明もすんなり納得とはいかないようで、初めてその話を聞くことになる人にも
わかるように(?)説明された
自分は事情を知っているので聞き流していたが、別のことが気になった
それは自分たちの学校の給食室でつくる自校式の給食ではなくて
セントラルキッチンのような何校の分をまとめてつくる共同調理方式の
どちらが良いのか、、ということが、今になって議員から声が出たことだ
議員は、そのどちらが良いのか、、という選択に少しも関与していなかったのか?
不思議に思ったのはそのことで、自分は議員がそのどちらかの選択に関与していると思っていた
しかし、今までの自校式から共同調理方式に変える選択をするのには、議員は何ら関与していなかった
今まで「自校式が良い」と繰り返していた教育委員会も、食材の確保の難しさ、給食をつくる人材の確保の難しさ
古くなった教職室の改築、、などの理由で急に共同調理方式にシフト変更した
それは学校関係者、校長先生とか教育委員会とかが何回か会議をして、最終的には市長の参加する
教育総合会議で方針が決められた
そして市長により基本計画の設計費用とか実施計画設計費用が予算提案され
議会の承認を得る段取りとなって、そこで初めて議会は共同方式なることが知ることになった
つまり自校式と共同調理場の選択は、段取りとしては当事者である人たちの間で決められ、
議員は手続上は部外者だったのだ(それはそれで現実的な気もするが)
こうなると、議員の中の自校式のほうが良いと考える人は、この共同調理場の計画に反対の声をあげるには
「予算の反対」という形でしか、その意志を示すことはできない
これは方針の反対ではなく予算案への反対という形でしかなく、
実際のところ予算案はこの件だけでなく、他のいろんな予算案もまとめて議決の承認を得る形
となっているので(まとめ法案)これだけを理由に予算案を反対することは極めて難しい
だが、重要な案件と思われることを議会は予算の承認という形だけで良いのか?
は少し問題で、これを細かく検討するには、予算案をまとめて審議するのではなく
この給食の件だけ別個に議決するようにする、、という方法があったらしい
(それはなされなかったが)
また他の方法としては、給食の方式の選択については議会の承認が必要とする条例を作って
議会の声を反映させる方法があるそうだ
(これも今になってはの話だが)
今更ながら感じるのは、議会は単なる承認機関という事実だ
仮に議員みんなが真面目に予算案等を読み込んで、その時点での判断をしてもらえれば良いのだが
現実には議員間格差が酷くて、提出された予算案は多数決(情報不足の議員の?)によりほとんど承認される
今回の給食センターの延期で、実質数千万円の実害が出ている
しかし市民の大半は知らない(関心もない)
生活に忙しい市民は、市職員も議員もちゃんとその職責を果たしていると思いこんでいる
ところが、そうではないという現実は、時々現れる(多分どの自治体でも)
本当は、当事者である市民がもう少し自分たちのお金の使い方に関心を持てば、少しは良くなるのかな
と思いつつも、これは難しいだろうな、、とも実感する
ところで、今回の行政のチョンボは、納税者である市民に対して謝罪すべきだと考えた(自分的には)
だが、行政はそれを何らかの形で行うか、、、
広報誌で謝罪の言葉が見られるか、、それとも、大半の人が知らないことを良いことにダンマリか
行政の無謬性、、それは現実にはありえないのだから、トチったときには素直に謝れば良いのに
と思うのだが、これがなかなかできないようだ(国も市も)
何故、読む人も大していないこの偏屈な投稿を続けているか?
を考えてみると、一つにはボケ防止、そしてもう一つは記録のためだ
それは単なる個人の記憶に留まらず、いつか役に立つかもしれないと妄想するからだ
田舎の小市民が限られた情報の中で生きて、それに対しどう感じたか
それを残すことは「戦場のピアニストを救ったドイツ国防軍将校」の記録と同じで
公式な記録として残されるものよりはリアルな思いの発露として意味があるように思える
万葉集の「貧窮問答歌」や「二条河原の落書き」などは、公には出てこない生活の実態を
表すものとしてとても興味深い
公文書を残すことは意思決定の過程を知ることだけでなく、後の批評をするためでもある
一方洗練されていない生々しい感情に溢れた庶民の記録は、都合の良い歴史だけではなく、
負の部分も存在することを明らかにして、そこに意味がある
とりあえず気なるのは、人の気持に大きな影響を与えるメディアだ
オリンピック中に新型コロナ感染症の陽性者が爆発的に増えたが
テレビ報道はまるでオリンピック一色だ
テレビというものは、そもそもそういうものだと昔から危険視されていた
災害で苦しんでいるニュースを流した直ぐあとで、芸能人の不倫のニュースやスキャンダル
グルメスポットの紹介などが、先程のニュースはまるでなかったかのように放送される
そのアンバランスな押し寄せる情報の波の中で、人はちゃんとした価値判断を、できるようになるのか
少しばかり不安だが、とりあえず社会はそうなっている
まずは、このオリンピック一色の報道体制の存在が良いものかどうかという点
次にコロナ感染症の政府の対応についての報道の仕方
いやコロナについてのことだけではない
現在の報道には疑問を覚えることが多すぎる
広島の平和の祭典で菅さんは、肝心なところを飛ばして話した
前後関係から不自然な話の展開なので、多くの人は違和感をもった
そこで追求してみると、用意しておいた書類の1ページを飛ばしたことがわかった
その部分は核心とも言える場所で、抜け落ちることは許されない内容だった
読んでいるだけなのか、、下読みはしないのか、前後関係から話の展開が変だと思わないのか
菅さんへの批判が広がった
だがそこで驚いたのは、「政府側の説明によれば準備しておいた蛇腹になった紙は
糊付けされており、その部分が剥がれないために起きてしまったアクシデント」
と報道されたことだ
糊付けする行為自体がいまどきするか?という素朴な疑問と
このような報道はどのような意味を持つのかを考えると(それは明らかに菅さんを弁護している)
報道されたものをそのまま信じることは、おそろしく危険だと感じる
(記者はどのような意図をもって報じたのか)
前々から思っていること、世の中は想像以上に危なっかしい領域にいるのではないか、、
この実感が、重くのしかかってくる
オリンピックの総括、、それを日本人はきちんとできるのか、とても不安な気持ち
そういえば、長野オリンピックの重要な肝心な書類は、確認しようとしたときには、すでに償却されていたらしい
日本が先の大戦で敗戦を受け入れるそのとき、軍部は重要な書類をやはり焼却したらしい
都合の悪いものはなくす、、今回の膨大な費用に膨れあがったオリンピックの重要な種類は
きちんと残されるのか、、とても不安
少し意地になって真面目な話題を!
(何に対して意地になっているか?)
新城市議会には「議会報告会」という年に一度以上行われなければならない行事がある
その実態は素晴らしいものとは言えないまでも、近隣の市町村には
それがないようなので、制度上は新城市は進んでいると評価されているようだ
ところが昨年、今年と2回続けて中止になった
理由は新型コロナ感染症予防のためだ
限られた空間に人が複数、2時間ほど一緒にいるのはマズイと判断したわけだ
当然の判断のように思えるかもしれないが、これを密かに喜んでいる議員さんもいる
議会報告会が開かれなかったその時期、新城市議会は呆れるほど問題が噴出した
その中には、そこまで大騒ぎをしなくても、、、
と思えるようなものがなかったとは言えない
だが、それでも少しばかりみっともない政務活動費の不明瞭な使用とか
(最終的には費用の返却が行われた)
数名の議員に対する問責決議案が可決したり、そのような個人的な問題以外にも
市が購入した土地の金額への不審やら、行政のチョンボにより共同給食センターの事業延期と、
それにより新たに発生した被害(予算)など、市民がぼーっとしていてはいけない問題も起きている
市議会が報告会をしないものだから、議員の有志が6人集まって、彼らの主催で
議会報告会と意見交換会をすることになった
(6人は議員ネットワークのメンバーで滝川、丸山、山口、山田、浅尾、沢田議員からなっている)
上に挙げたような、市民が知らなかったでは済まされる問題ではないことを
市民に知らせる重要な報告会だが、タイミングが悪かった
第1回目、第2回目はオリンピックが始まったばかりのとき
そして3回目、4回目は、オリンピックの終盤の夜
この時期、時間に会場に足を運んでもらうというのは、なかなか難しい
もちろん関心をもって会場に足を運ぶ人もいる
だがその人達は、報告会がなくてもある程度の事情は知っている人たちで
市で何事が起こってるかを知ってほしい一般の人を、会場に来てもらうには
想像以上の苦労が必要となる
そのためにA4サイズの報告会の案内を、まずは配るということを行う(有志、協力者が)
ただこれを手渡すとその時の反応は、残念ながら芳しいものではない
大人の世界だからあからさまに行けないとは言わない
だが、表情を見れば、鬱陶しい誘いであることは感じ取れる
自分たちの周りで起こっている、注目しなければならないことを啓蒙しようとしても
それは良いことだと口にしても、いざ行動となると、それはとてつもなく難しい
これはシティズンシップという言葉で代表されうような
身近な出来事を我が事のように考え自らの力でなにか行動を起こす、、
につながるのだが、あえてそれをしようとすることは、物事を理解するのとは違う
行動に移すというのは、わかった気になるのとは大きく違う
というわけで、6人の議会報告会の最大の敵は時間的にはオリンピック
そして意識の上では、やはり無関心となるかもしれない
無関心、、これを乗り越えさせるのは難しい
かつて自分もその無関心の1人だったから気持ちはよく分かる
無関心の人を悪くも言えないし、、、
オリンピックもサッカーのワールドカップも4年に一度
それ故に人智で納得できない出来事、あるいは試練が人にもたらされる
その時期にピークになる人、ピークを過ぎる人
直前に怪我をする人、魔物に捉えられたように信じられないミスをする人
それらは最終的には選手個人の中で内面化されて意味を持つ
オリンピックの中で多分唯一関心をもったのがサッカー男子
先日の準決勝のスペイン戦は改めて力の差を実感し、結果は妥当なものだった
疲れているのは相手も同じだが、昨日の3位決定戦の日本は立ち上がりから冴えなかった
この時期の2試合続けての延長は疲労が影響していたのだろう
そしてまた今回も残酷な運命をボランチの遠藤航に与えた
遠藤はオーバーエイジからの助っ人で、守備の安定をもたらした人物だ
スペイン戦では少し調子を落としていたが、それでもこのチームへの貢献度は高い
その彼が、頑張っていた彼が、PKを与えるきっかけを作ってしまった
このパターンか!(頑張った人が報われないどころか過酷な運命の)
頭に浮かんだのはそのことだった
このPKはメキシコの選手が素晴らしかった
気合の入ったキーパーの谷をあざ笑うようなゆるいキック
この全体の緊張を打ち破るようなキックによるシュートは、試合全体の雰囲気をつくる
そして試合はそのままメキシコに流れが行ったままだった
しかし流れで解説されるべきものではなく、結局は力不足だったということだろう
結果は、メキシコ3−1日本
ただ試合後の遠藤のインタビューが良かった
今日は自分の責任だ、、彼は反省を口にした
チームゲームだから1人が責任というわけではないが、
そのように自ら口にできるのはなかなかできることじゃない
責任はどこにあるのかさっぱりわからない、、どこかの組織では見られない光景だった
試合後、久保は号泣していた
それは小さな子どもが試合に負けて悔しくて泣きじゃくる姿を連想させた
と同時に、この選手はまだまだ上に行くだろうな、、と実感した
上に行く選手の条件は、負けず嫌いだが、こうしたつらい経験を自らの試練として
内面化できれば、この経験も無駄ではなかったとなるかもしれない
卓球の伊藤美誠も悔しい、、と負けん気の強いところを見せた
だがその後、楽しかった とも口にした
負けたのに楽しかった?
それはある方面からしか物事を見ない人には不謹慎な言葉かもしれない
だが、この楽しかったという感覚は、彼女の本当の気持ちだったに違いない
試合の最中、負けてる状態で必死にあの手この手を考える
その考えに体がついていくか、、相手はどう考えているのか 何が最善か、、、
この時間はものすごく密度の濃い時間経過で
例えば将棋の藤井聡太さんと豊島さんが必死になって最善手を出し合っている光景と同じではないのか
将棋に負けた方は悔しい、、しかし、相手と会話をするような絞り出そうとする瞬間は、
おそらく勝ちの喜びよりも、生きていると言った充実感を伴うもので、
それこそが彼らが将棋に夢中になる大きな要因だろう
強い相手がいて、挑んで、必死になる
努力は報われないかもしれない
外野はあれこれ精神の問題とか、技術の問題とか、練習方法(勉強方法)に問題がある
というかもしれない
だが、強い相手、それがライバル国の人であれ、どこの国の人であれ戦う者同士は
その会話を成立させるだけのそれぞれの努力の量を身をもって感じ取るだろう
そこで生まれるのは、相手に対するリスペクトで、
一部に見られるナショナリズム一辺倒の応援は当事者同士にはえらい迷惑になったりする
結果のでるスポーツは残酷で、それ故に美しいのかもしれない
見てるだけの人にも何かを感じさせる力がある
だが、今回のオリンピックはスポーツにそれだけの力があるとしても
正しく行われているようには思えない
そもそもオリンピックの意義は何だったのか?と考えることなしに
次の大会でのメダルの数はどうだとか、前回の大会のリベンジは果たせるか、、
などとのくくり方は、絶対に間違いだと思う
それにしても、昨日の女子サッカーの決勝の結果はどうだったのかと
日本のメディアで探すのは難しい
自国オンリーの情報ではなく、もう少し他の情報も報道すべきと思うが
4年に一度、ナショナリズムの高まりをおぼえる機会だけにそれは難しいのだろうか
それだけオリンピックは政治利用されやすいのかもしれない
人それぞれいろんな考えがあるというものの
後で冷静になってみるとすごいな、、
と思うに違いないのが今回のオリンピック
昨日は東京で新型コロナの陽性者が5000人も出た
最近は前の週を越えて、どうにも止まらない感じだ
その中で行われていることが、異常な気がする
「普通なら、ない」
と専門ならずとも思うところだが、いざ始まってみると心配したとおり
メディアはオリンピック一色で、オリンピックを批判する意見は
反日とさえ口にする人がいる
「ヒトラーを批判する人は、ドイツを否定している」
などの当時ドイツでなされたプロパガンダは、馬鹿げた主張に過ぎないことは今や世界の常識だ
ところが、そのまたっ只中にいるとわからないかもしれない
オリンピックに反対する人は反日と決めつけるのは
「ヒトラーを批判する人は、ドイツを否定している」と同じ発想のように思える
選手一人ひとりの努力や思い、それを支える人たちの一生をかけた思いは理解できる
だが、だからといって、統計的に(科学的に)危機が予想されるなかで
強引に進められるのは違和感しかない
女子のサッカーの決勝が開始時間の変更が行われたそうだ
午前11時から開始の予定が、夜の9時からになった
暑すぎて危険だからだが、変更は良いとしても、その時間で行えば危険なことは
日本人はわかっていたはずだ
それを今まで見て見ぬ振りをしていたのが、選手ではない関係者たち
彼らは選手のことを考えたのだろうか
今回のオリンピックは商業主義そのものだ
NBCの膨大な放映権がすべてを決めているかのようだ
ところがNBCのお膝元アメリカではオリンピックのテレビ視聴率が振るわないらしい
アメリカの活躍がイマイチなのと、観客のいない盛り上がりにかける雰囲気が
見ようとする気が起きないらしい
そうなると、NBCは困ったことになる
アメリカのこの世界は多分、スポンサーと総視聴率(累積の視聴率)で契約している
一つ一つの視聴率が悪いと最初に割りふったスポット広告だけでは、その約束の数字に達しない
すると、足りない分は追加でただで流さなければならない
本来は特別枠で取っておいたスポット枠は、そこれ使わねばならないのだ
このNBC主導のオリンピック商業主義に違和感を持つが、
ふと日本人が真面目に応援している野球という競技に疑問を覚えた
ここ数ヶ月大騒ぎしている大谷はオリンピックに出ていない
ダルビッシュも参加していない
アメリカ人では大谷とホームランを争っている選手も出ていない
彼らはレギュラーシーズンを戦っている
となると、オリンピックの野球はそれほどの価値をアメリカは感じていないのかとも思ってしまう
もしかしたらオリンピックで大騒ぎをしているのは、開催国の日本だけではないか
よその国の情報はわからないが、先日ブラジルにいる子達とzoomで会話したとき
ブラジルはオリンピックはさほど話題になっていないとか言ってた
また、ドイツに住む方のツイッターでは、地元のサッカーチームの成績が新聞に大きく載って
オリンピックはおまけぐらいの扱いらしい
開催国だから多少は仕方ないとしても、
思い出してみると開催国に限らず他のオリンピックでも
日本は同じような騒ぎ方をしていたような気もする
日本人はなぜオリンピックに大騒ぎするか
もしかしたらそこには大きな問題が隠れているかもしれない、、
と思えてきた
選手にはなんの罪もないが、個人的には楽しんでいられないオリンピック
そこで暑いなか畳の上に寝転んで読んでみた
久しぶりの小説だ
「天翔ける白日 小説大津皇子 黒岩重吾
読み始めたものの辛い結末を知っているので、どこか楽しめない気分になってしまう
主人公の大津皇子は天武天皇の息子に当たる人物で
後の持統天皇にあたる鵜野讃良(うののさらら)に煙たがれてしまう
大津皇子の母である大田皇女は天智天皇の娘であり、鵜野讃良とは姉妹関係だった
太田皇女は大津皇子を生み、鵜野讃良は草壁皇子を生む
ところが姉の大田皇女は早く亡くなってしまう
生きていればすんなり次の天皇は大津皇子となるところだが、亡くなってしまったので
鵜野讃良は自分の息子である草壁皇子を次期天皇にしたいと考えた
ところが人間的、実務的な出来は大津皇子のほうが草壁皇子よりもだいぶ上だったらしい
文学的な才能も少しばかり差があって、万葉集に収められた歌では
大津皇子の感情がほとばしる雰囲気なのと比べて、草壁皇子の方は平凡な作と素人でも感じる
それ故に、鵜野讃良は焦りを感じてしまう
どこか彼を抹殺するきっかけとか機会を狙う
万葉集には、なぜそんな歌が残っているのか、、と思われるものがあって
結局、大津皇子は謀反を企んだとの疑惑で絞首刑となってしまうのだが
その時の辞世の句とか、まだ謀反の疑いがないにも関わらず、いつかそのような運命を
予感しているかのような歌が、実の姉(大来皇女)とのやり取りが記されている
この物語は歴史書ではなくフィクションなのだが、万葉集のいくつかの歌
日本書紀のいくつかのエピソードをもとにして、作り上げているが
ここでそのエピソードや歌が出てくるのか!と興味深かった
後の持統天皇である鵜野讃良はここでは陰険なキャラクターとされている
ところが、(読んではいないが)里中満智子さんの持統天皇を描いた漫画「天上の虹」は
女帝である彼女の生き様が女性視点から描かれているようだ
ということで、運のない男の大津皇子は、歌がうまいだけにちょいと同情してしまう
世の中には運のない人っているものだ
土方歳三、村山たか、小栗忠順
なぜ、自分は運のない人のことが気になるのか、、、
あれだけサッカーの発展、ワールドカップ出場に貢献したカズが
これから本番という肝心なときに外されたりして
今回のオリンピックでも同じように運のなかった人もいる
彼らを成績が良くなかったからと言って忘れてしまうのは、、、かわいそうすぎるかも
新聞のテレビ欄を見れば朝からずっとオリンピック放送が続く
(それを眺めると、少し奇妙な、これで良いのかという気持ちになる)
レギュラー番組を探してそれを見ていても、途中でオリンピックの結果が入る
これだけの物量作戦でこられると、人の気持ちはよほどへそ曲がりだったり
信念がある人でない限り抵抗することは難しいと思われる
オリンピックは無観客にしているので会場での感染はなく、それ故に
感染爆発はオリンピックには関係ないとする人がいる
しかし、これらの報道で知らずしらずハイになる人の心の状態を考えれば
間接的に影響があるのは間違いない
何々の影響、、という場合、直接の因果関係だけでそれを決めるのは片手落ちだ
むしろ、間接的な広がりを持った空気のような影響のほうが
コントロールしにくいために重大な事態を引き起こす
このオリンピック一色の報道の為せる影響は、このブログにも影響を少なからずある
それはオリンピック始まってからのアクセス数が随分減っている
もちろん面白くない、、というのが一番の原因と思われるが
その減り方は少し不思議と感じるほどだ
一年前、コロナでみんなが自体で巣ごもりをしていた時は今と反対で
アクセス数は何故か理由はわからないが増加傾向にあった
(それで時間つぶしをしていたと今は想像するが)
結局のところ、影響というのは一直線ではなく、いろんなものが複雑に絡み合って
現れるものだと思われる
おえらいさんが、予想する場合(未来は予想するという形でしか存在しない)
様々なファクターを考慮して予想するなら良いが、非現実的なみんながみんな
ルールを守る人ばかり、、と想定して、とても重要な判断を下すというのは
少しばかり呆れる行為だ
それにしてもこの物量作戦(の効果)を思うと、憲法改正についてのCM量の規制は
絶対に必要と思われる(それはそのように決まったらしいが)
人は、自分で考えているようでも人の意見に支配されている
だが自分の考えを持ち、それを表に出し、意見を異にする人たちと適切に暮らしていく
というのは、思いの外難しいのかもしれない
(特に日本の社会では)