パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

問題は既存メディアとSNSの覇権争いではなく、、、

2024年11月20日 09時35分39秒 | あれこれ考えること

今回の兵庫知事選については一段落したところでも
依然として話題となっている
既存メディアが凋落して、SNSの選挙対策ツールとしての
爆発力は今後更に重要となるだろう、、とか

でもそうした一般論で済ますのも少し違う気がする
今回のSNSで威力を見せたのはXとYoutubeだ
その中で圧倒的な視聴数を稼いだのが立花孝志氏のよるものだ
(再生回数は信じられないほど多い)

その立花氏の動画はかなり一方的で客観的な事実とは異なるものが多い
彼がこれが真実だと言うのは、少しばかり怪しい
知人が紹介してくれた彼の動画を見ると
パレードのキックバックはなかったと信金の代表が言っていたから
キックバックがあったとするのは間違いとしている
だが、同時期に信金に補助金がでたのは事実で
この問題の当事者は本当のことを話すかどうかは疑問で
そう疑われても仕方ないと思う

次に百条委員会でPCの中にあった不倫の話を取り上げなかったのは
何かを隠していると断罪しているが、そもそも百条委員会は法的に
個人的な問題を除いて聴くことができるとなっていて
聞かなかったのは隠すのではなく、法的に聞かないようにとの制限があるためだ

そして片山副知事は文書が「真実相当性がない」と判断して県民局長を
問い詰めたが、真実相当性があるなしは該当者の彼が判断できる立場にはなく
第三者に委ねるべき問題だ
だからこそスタッフの中にはそれをアドバイスした人がいた

このように素人でわかるように立花氏の理屈はかなり雑だ
今回の一番の問題は、そうした怪しい情報を信じてしまう人の多いことで
彼らの多くはYoutube見ると同様な内容におすすめが出てくるから
その思考から離れられなくなることだ

その結果、手続き上の法的なこと、公益通報の処理の仕方を説明しようとしても
彼らは一切受け付けない
そして悪口の伝搬の速さの威力で一気に空気感を作ってしまう

人には性善説と性悪説があるが、人の本質はどちらかに偏るものではなく
あるときは性善説、あるときは性悪説となるのが普通と経験から思う
そして普通の人は自分の中に潜む悪意を自らの力で抑え込む
だが、その悪意を法的に問題ないからと塀を越えてしまう人が近頃の人々だ
法的に問題ないのではなく、倫理的にそういうことはしないのが
常識であったことが、やすやすと超えられてしまう

それは法の不備とは違う
人間性の堕落だ
人の中に潜む獣性や残酷さ、負の感情
それらを踏まえたうえで人は人らしい振る舞いを行おうとする
その自己コントロールができない人が、悪意に満ちた感情を煽る行動をする

人は結婚報道より離婚報道の方に惹きつけられる
良い情報より何かを批判する内容に惹きつけられる傾向がある
その悪意を利用したのが立花氏

ナチスは「シオン賢者の議定書」いう偽書をさんざん利用して
ユダヤ人の虐殺の正当性を推し進めた
つまりは仮想敵を作って感情を煽り、圧倒的な空気感を生み出した

以前にも取り上げたが、容易に騙されてしまう人の存在は
前提としての知識不足がある
騙されないためには一人ひとりが賢くなるしか手はない

こうして書いているとなんかイライラしてきたり
未来が不安になってきた

今回はSNSの法的不備だけの問題ではなく、
執行猶予中の立花氏の責任を問うべきだと思う

ところで自分は「民意が正しい」とは思わない
民意も間違うことがある
それが民意によるナチスの台頭だ

民意は少ない判断材料で狭い視点での考え方をしそうだ
民意の対する不安があるからこそ多くの国で二院制をとって
再チェックを行う様になっている

それにしても、困った状況にあると思っているのは杞憂なのだろうか



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経験の差が価値判断の差になる

2024年11月19日 10時05分37秒 | あれこれ考えること

偽情報に騙されやすい人と騙されにくい人の読書量には
相関関係があるのではないかと頭に浮かんだが
同じように頭に浮かんだのは若い人の海外旅行経験は
女性の方が多いのではないかということ

なんとなくそんな気がしてちょいと調べてみた
日本旅行業協会に調べによるデータは以下の通り

全ての年代を比較すると男のほうが多い
だが若い世代では想像した通り女性の方が多い
(総数と割合から計算した結果)
10−19歳  女 103,690人
      男 86,762人
20−29歳  女 273,790人
      男 194,411人

やはりなんとなく思っていた通りの結果だ
この予想は自分だけの感覚ではなく試しにある人に
「若い人の海外旅行は男と女のどっちが多いと思う?」と聞いてみたら、
彼は「自分の3人の子どものうち二人の女の子は海外旅行を経験しているが
男の方はまだ行っていないから女の方」と答えた
彼も一般的に女の方が多いだろうとなんとなく思っているようだった

外向きの若い女と内向きの若い男
問題は、この経験がその後の生き方とか判断の基準にどのように影響するか
という点だ
今の世の中は益々グローバリスムが進んでいく
必然的に反グローバリズムも産まれる
グローバリズムがいいか悪いかは保留して、こうした社会に体感的に慣れているのは
異文化の経験をした女性で、内向きな男は「日本凄い!」の思考に走る(と思う)

話は変わるがブルデューの「ディスタンクシオン」と言う本では社会の人の
年収、学歴、仕事の内容、済んでいる場所(都会か田舎か)などの属性によって
どのような価値観を持つかが膨大な資料として紹介されている
属性によって好む絵画、音楽などは生活の中の体験が違うので必然的に異なってくるようだ

つまりは経験の差が価値判断の差となると思われるが
海外旅行の経験のあるなしで、その後の生き方の違いがどのようにでてくるか
これは思いほか重要なポイントだと思える

以前、森喜朗氏が「女の話は長い」の一言でバッシングを受けたことがあった
このとき女性たちは「わきまえない女たち」と言うタイトルで
現在起きている問題を話し合った
そしてその時に「問題は女性に限ったことではなく男性にも関わっている問題だ」
と結論がでて「わきまえない男たち」のタイトルで対談が開かれるはずだった
ところが男の方のこの企画は実施されなかった
その時に感じたのは「やっぱりな」という思いだった
男はどうも窮屈な世界にいるようで何かを変えることには逡巡するようだ

ということで、男はもう少し頑張らなとあかんな!
と感じたということ

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兵庫知事選の結果を受けて思ったこと

2024年11月18日 11時00分49秒 | あれこれ考えること

「マスゴミ」と言って既存のメディアを批判する人は右派、左派のどちらが多いだろう
お互いに被害者意識の方が優先するので、どちらもありそうだ
ちなみに自分もマスゴミとまでは言わないが、メディアに不満を覚えることはある
それは「〇〇はこう言った」という内容の記事(報道)やめてほしいと思っている
〇〇と言ったのは事実だとしても、その内容は発言者の解釈に過ぎないし
一般化できるものではない
だがそれが報道されるといつの間にか真実と思われるようになってしまう

ところで右派左派と簡単に分けてしまったが、右の人は右翼とは呼ばれるより
自らは保守と思っていて、左の人は左翼ではなくてリベラルと呼ばれたい
と思っているのではないか

定義付けする必要があるかどうかはわからないが
このあたりの当事者意識のヅレは相当あるように思われる
つまり左から見ると〇〇さんは保守ではなく右翼(本人は保守と思っていても)
右から見ると△△さんはリベラルではなくて左翼(本人はリベラルと思っていても)

どうでも良さそうなことだが、これが相手側を批判する時には大きな武器となる
つまり右翼も左翼もどちらかといえば好ましいイメージではないからだ
そしてSNS上ではこの区別はそれなりの影響力をもつ

ところでテレビメディアに不満は、本当のことを伝えないというよりは
登場するコメンテーターによってその局の方向性が見えてしまうことだ
田崎史郎氏は何故あんなにどの局にも登場するのだろうか
フジテレビは現政権寄りの人物を多く登場させる
日本テレビも番組によってはかなり異様な人選だ
(政治番組ではなくお笑い番組として扱っていると言うだろうが)

左右の見え方の違いがあるとしても、偏った放送で電波停止を脅かされるのは
左がかった意見(どちらかといえば政権批判)の方だ
それに対し左を批判する内容は偏っているとして扱われない
これは薄々感じている人も少なくないだろう

ところで昨日の兵庫知事選
結構大差で齋藤氏は再選したが、対抗馬の稲村さんは実感として
「いったい何と戦っていたのだろう?」と口にした

確かに異様な選挙だった
パワハラの事実はなかったと断言したSNSが一気に伝わったが
それは正確には正しくない
百条委員会はまだ結論を出していないからだ
(あったかなかったか両方の可能性を残したままで、今後百条委員会は再開されるそうだ)
だがその百条委員会自体が怪しいと言い出すのだろうな

SNSは選挙に関して強力なツールとなったことが都知事選、今回の選挙で明らかになったが
本当のことを伝えないとする既存メディア批判があるように
Youtubeを始めとするSNSも本当のことを伝えているとは言い難い

困るのは人の感情を煽るのは悪口の方で、それは一気に拡散する
良い話はなかなか伝わらないというのが人間社会の常だ
だからこそ、戦術論としてデマとか感情を煽る内容が
これでもかと思えるくらい出てくるのだろう

これからの社会に必要なのはメディア・リテラシーだ
嘘・本当を見切る力と総合的な視点からの判断力
それらが必要だとつくづく思う

ところでSNSに影響を受ける人と受けない人の読書量は
もしかしたら結構違うのではないのか!と不意に浮かんだが
だれかこの調査をしてくれないかな
面白い仮定だと思うのだが、、

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天皇機関説事件と似ている出来事

2024年11月17日 09時31分34秒 | あれこれ考えること

現在起きている事象とか空気感を過去の出来事と重ね合わせて
考えることはよくあることで、それは人の知恵なのかもしれない

SNSの一つであるX(旧ツイッター)にこんな投稿を目にした
前川喜平さんの以下の投稿

真実と虚偽の戦い、誠実と不実の戦い、寛容と傲慢の戦い、賢明と蒙昧の戦い、
正気と狂気の戦い、そんな戦いが世界各地で起きている。
1930年代が繰り返されるみたいに見える。兵庫県でもそれが起きている。

これはここでも取り上げている兵庫県知事選の異様な出来事を不安視している
内容だが、この投稿に対してある人が以下のような返信を行った

例えば天皇機関説事件ですね。
メインストリームであった学説が、あっという間に「国家への謀反」という世論に呑み込まれてしまった。
ポピュリズムの最悪の事例。
どの候補者が適任かを問うはずの選挙が、選挙に全く関係のない元県民局長のプライバシー問題に
いつの間にかすり替えられている。

ここで出てきた天皇機関説事件との類似性は自分でも感じていた
と同時に歴史の勉強として天皇機関説事件は言葉だけでなく
その歴史的意味を教育しないと駄目だと思う

この天皇機関説事件を引き起こした人物とか団体は
ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」で扱われた
モッブという存在と同じだと個人的には理解している

モッブは暴徒という言葉でイメージを理解できる
単なる小さな集団が威勢の良い言葉や理屈で世の中を混乱に導き
果ては戦争まで引き起こしてしまった
この天皇機関説事件の中心人物は確か戦後に自殺したと記憶している

歴史書がなぜ存在するか?その意味は何か?
と考えると、今こそ人は歴史に真摯に向かい合わなければ

ところで本当に多くの人に読んでもらいたいの本が
写真の右側の「天皇機関説事件」山崎雅弘著



そんなに厚くないし、上手くまとまっているので
今こそ絶好の読むタイミングと思う!





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本棚を眺めてはニンマリしたりする

2024年11月16日 08時55分39秒 | 徒然なるままに

地図を開いて、登った山のコースをたどりながらニンマリするのは
自分だけでなく、他の人もそうなのではないだろうか
よく歩いたなあとか、こんな山よく登ったなあとか

例えば上高地から横尾を過ぎて槍沢へ、そこから槍ヶ岳へ
槍ヶ岳から西鎌尾根を下って双六岳をやり過ごして鏡平
そこから穂高温泉まで歩くコースは結構距離がある
今なら再度トライしようとする気にすらなれないだけに
昔はよくやったものだ、、と幾度も感慨にふける

本棚に並んだ分厚い読んだ本を眺めてニンマリするのは
これと似た感情かもしれない
消化不良であったとしても読んでいる最中はどこか興奮気味で
その時を十分に楽しんだ(苦しんだ)記憶は
どこか山との対峙と似ている(と思う)

困難な山ほど、昔はよくやったものだと思うと同様に
読んだ記憶のある難しそうな本を眺めると
よく読んだな、、と思う

山も本も、年令による気力・体力の低下でトライすれば
再度できるかもしれないことを、今はやってみようとする気になれないでいる
だからこそ、眺めてニンマリするしかない

眺めてニンマリするだけでは情けないが
ニンマリするもののない人よりは良いかな(と思うことにしている)

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何故あんなに簡単に信じてしまうのだろう?

2024年11月15日 09時21分01秒 | あれこれ考えること

「マスゴミ」はマスコミは真実を伝えていないと信じている人々が使う言葉で
彼らの信じる真実はYoutubeにあるとしている
でもそれは本当だろうか?

ここでちょいと思い出したのが「プロパガンダ」という本に紹介された
キケロの貢献で以下のようなものだ

これを令和の日本に当てはめると、兵庫県知事の百条委員会への全否定する人たちの
言い分とどこか似ていると思うのは思い過ごしだろうか

マスコミが伝えない真実は「自殺された職員は不倫をしていた」
「その秘密をばらされることになって自殺した」とのことらしい
だがマスコミが伝えるも伝えないも、百条委員会は個人的な問題を扱うことは
できないとしているし、検証内容はパワハラがあったのか(真実相当性はあったのか)
公益通報に違反していたかを精緻に検証するのが目的だ
つまりは不倫問題は最初から話題にされなかったし扱う必要性もなかったのではないか

ところがそうした通常の手続きを全く認めないで一部の人は
雑な理解と個人的な思い込みで憎悪感を煽る内容のYoutubeに投稿している
だが一番の問題は、そのYoutubeをそのまま信じてしまう人が少ないくないということだ
(何故だろう?)

これはSNSでもいくらかの人も指摘している
日本社会の底が抜けたとか、、こんな馬鹿げたことを信じてしまう人が
こんなに多いとは、、と絶望感を覚える人もいるようだ

確かに田舎にいてもこうした不安は頭をよぎる
大袈裟な言い方をすれば日本は本当に大丈夫なのだろうか?と

と言っても、それを打破する方法は見つからないのが現実
仕方ない、今できること、思いつくことをコツコツとやっていくしかないかもしれない

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実際に現地で感じることは、予想と違う

2024年11月14日 09時05分42秒 | あれこれ考えること

ピラミッドを現地に行って目の当たりにした人の多くは
改めてこの建造物が「でかい!」と実感するそうだ
写真等で知っているつもりでも肌感覚は想像以上となるようだ

ネットの情報とか動画とか、そうしたあふれるほどの情報に触れて
わかっているつもりでも現地で感じることは違うということはある
いかなければわからないものは匂い、気温、そこに住む人達の嗜好性

こんなことを思い出したのは先日市庁舎で行われた
ニューキャッスルアライアンス派遣事業の報告会で
実際に現地で何かを感じることの大切さを指摘した人がいたからだ
(高校生10名がモンテネグロに派遣された)

以前読んだ「幻影の時代」では、最近は旅行は代理店のパッケージが主流となり
現地で感じることは、あらかじめ手に入れた情報の確認作業に陥っていると説いていた
また、情報を入手すれば旅行に行った気分にさえなっているとも

このような例は旅行に限らず色んな面で存在して
自分が素直に感じることは
多くの人は、こう感じるという情報に支配されるとしていた

モンテネグロに1週間ほど滞在した高校生は、その地で至れり尽くせりの歓待を受けた
初めていく海外、そしてヨーロッパ
そこでは自国にいるだけでは体験できないことがたくさんある
ただし、心に刻まれることは真面目なことばかりではなく、何故か小さなことという場合も多い

感想の中で面白かったのは、タクシーに乗る機会があったが
その車のスピードが目一杯速かったという感想
実はこれは自分もドイツ、オーストリアでタクシーに乗って実感したことだ

心に残ることは本質的なことばかりだけでなくこうした周辺部分のこも少なくない
それでも、それらは無駄だったかどうかは、もう少し時間が経たないとわからない

それにしても、何も知らない若い人が驚きをもって
何かを吸収している姿というのは良いもんだ
(自分らの年齢で、はもうそんなに素直に驚きを持てない気がする)

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わかりやすさとか断言とか

2024年11月13日 09時58分41秒 | あれこれ考えること

ヨーグルトの価格、3パックいりの納豆の価格は頭に入っているから
主婦に限定されずとも安い高いの判断はできる
暑い時期に飲んだビールはどこのストアが安いかがわかる

ところが何億と言う数字で公共建築物が計画されたり
土地を購入するとなれば、その価格は高いか安いかは全くわからない
例えば、高すぎる!との発言は威勢がいいが
一般人の生活感から離れた数字なので
本当のところは自信をもって高い安いを口にすることは出来ない

将棋の藤井聡太さんの凄さは、結果を見ればわかるが
その戦いの内容は多くの人はわからない
藤井聡太さんが楽しんでいる(苦しんでいる)状況を理解できるのは
限られた専門家だけだろう
それができない人は昼ご飯とかデザートの話題で楽しむしかない
つまりはわかりやすい内容で楽しむしかない

自分の知っていることで世界を理解しようとか
それを当てはめて世界を解釈しようとするのは
人にありがちの行動だ
そしてそれは、必然的に分かりやすさを求めてしまう

ところが「わかりやすいことでわかった気になる怖さ」
というのは確かにあると思われる
例えば103万円の壁は税金の問題
手取りを増やすにはその他の社会保険料を含めた複合的な視点が必要だ
この壁の突破を試みている国民民主党の玉木氏だが女性スキャンダルが報道された
わかりやすさの点では不倫は政策論争よりもずっと上だ
(だからこそ自殺された兵庫県の職員のスキャンダルは人の感情を煽る)
本当は税制だけでなく社会保障とか分野も含めた総合的な
つまりわかりにくい問題を検討すべきと自分は思う

玉木氏についてはSNS上では、そもそも倫理感に欠けた人物は信用できないとする評価と
それと政策とは関係ないとする考え方があるようだが
これに限らず、問題は最近では社会が(メディアが)扱う問題自体もわかりやすいもののみを
扱ったり、妙に感情を煽るものが多すぎる傾向がある気がする
わかりやすさはどちらかといえば「断言」という手段をとる
でも物事はそんなに簡単に「断言」できるものだろうか

難しいことを簡単に説明してくれ!というのは需要は大きいと思われる
しかし、難しいことは難しいだけの理由があって、難しい表現しかできない
とする考え方もある
受け手も頑張って難しいことの理解に努力するというのが一番の解決策と
知識人は口にしても、それは上から目線との言葉で否定される

と、ここまで来て何をテーマにしていたのかわからなくなってしまった
いつものことだが、いろんなことが頭に浮かぶと、どうしてもこうなってしまう
「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば」の
徒然草の境地になるのは難しいものだ




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都合良く使われそうな民意

2024年11月12日 09時45分09秒 | あれこれ考えること

東三河最大の都市、そしてお隣の都市が豊橋市
我が市からの豊橋に通勤している人も少なくない
だが、そんな身近なところでも知らないことや関心のないことはあるものだ

豊橋市は10日に市長選挙が行われ、前市議会議員の長坂なおとさんが
選挙で新アリーナ建設に反対、即時契約解除を掲げて接戦のすえ
現職の浅井由崇氏を破り当選を果たした

今朝の中日新聞ではすぐさま工事などの契約解除に取り組むとあった
選挙の約束ごとだからそれは当然と思われるが、フトこれは法的に
市長の一存で決められることなのだろうか?と疑問を覚えた

事業者との契約は議会の議決を得ているはず
予算の執行は議会の承認があるからこそ正式な契約となっていると思われる
すぐさま契約解除というのは、それは果たして市長の権限でできるのだろうか
(アメリカの大統領はなんとなくできそうなイメージだが)

そもそも自治体の首長を選ぶということは、実質的には有権者が首長に
自治体のお金の使い方を任せるということだ
(首長に予算編成権とか提案権があるということ)
ただし、その提案が適切かどうかは不安なので、制度として
有権者からそのチェックをすべき人物として選挙で議員が選ばれ
その集合体として議会が設けられる

つまりは有権者から選ばれた議員たちが首長の予算案にお墨付きをつけて
物事は進んでいくようになっている
この議会は現実には首長の追認機関と言われることが多く
それは制度的に首長の権限が強すぎて、議員は実質何もできないから
と解説してくれる人がいたが、そんなものなのか、、
とわかった振りをするしかなかった
いずれにしても議会の存在を無視して行政(市長)は何かを進めることはできない
と思われるので、市長単独で決めるということはできるのかな?と思ったわけだ

この豊橋市長選挙の投票率43.43%
国政ではなく自治体の選挙ならもう少し高いものとかってに思っていたが
半分もいかないとは意外だった(新アリーナ建設で揉めてると思っていたし)
ところでアリーナ建設を進めた浅井氏との票数の差は4397票だ
(長坂氏 45491票 浅井氏 41094票)
この数字が大きいのか小さいのかの解釈は、今後いろんなところで議論されると想像する

よく使われる民意というものが、それぞれの都合の良い解釈で使われることは多い
票差の少なさと投票率の低さで、アリーナ建設反対が民意だったとは言い切れない
と口にする人たちが出てきそうなのは想像できる

そこで少し古い話だが、過去には新城市では住民投票が行われ
ときの市長案による新庁舎建設にはノーの結果が出たが
結果を受けて首長の口からでて都合良く使われたのが以下の言葉だった
「投票にいかなかった人も思いも勘案して、、、」

さて豊橋市は市民の半分以上いかなかった人の判断をどのように判断するのだろう
半分いかなかったとしても、統計上の傾向はそんなに違いないから
この結果は一般化できるとするのか
それとも単なる有権者の判断に過ぎないとするのか
(そもそも数字というものはどんな時も利用する人の都合の良いものになりがちだ)

結局のところ、いかような解釈が可能な投票にいかなかった人たちの数を
できるだけ少なくするような努力が必要と思われる

ところで豊橋市は首長が再選されなかったことで、議会もお墨付きを与えた計画を
考え直さなければならなくなるだろう
その時、彼ら議員たちはどういった態度でこの問題に向かうのだろう
直近の民意は、再戦されなかったことでアリーナ計画反対と解釈して
過去の判断を訂正するのか、それとも議会は議会で自分たちの判断は適切だったとして
新市長との意見の相違を際立たせるのだろうか

現在の豊橋の状況は市外の人間にはわからないし権限もない
だからできるだけ良き方向に向かってほしい願うだけだ
そしてもしいい方向に進めば、お隣の我が市にもいい影響がでてきそうな気も、、、




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何故、こうした空気が生まれるのか?}(方法論の問題ではなく)

2024年11月10日 09時41分36秒 | あれこれ考えること

後の時代の歴史家や社会学者、あるいは知識人はこれらのことを
同じ根本から生まれている現象と指摘するかもしれない

東京都知事選の石丸氏の意外な人気
(安芸高田市長時代の動画を見ると異様に対立しているものが多い)
兵庫県知事選の県会議委員から全会一致で不信任案を受けた斎藤氏の
再度の知事選で、彼は本当は少しも悪いことはしていなくて
政敵にはめられたとする意見がそれなりの数字を持っていること
(兵庫県人はどのような判断を下すのだろう)

ダウンタウンの松本人志氏が訴訟を取り下げたことについて
その解釈が大きく別れていて、これで芸能界へは復帰できるとする意見に
賛同する人がそれなりにいるということ
(取り下げの実態を都合よく解釈している)

そして海外でも人格的には不安を覚えざるを得ないトランプ氏が
あれだけの人格攻撃とかデマを飛ばしても受け入れられたこと

これらは一つはネット、SNSの活用がその結果を生み出したと言われる
だが、それはツールとか戦術の問題で、肝心なのは
「なぜそんなことが現在通用するのか?」ということだ
(あるいはなぜそんな空気が蔓延したのか?)

人は他者との関係で社会を生きていく
と同時に自分との対話に折り合いをつけて生きていく
おそらく人が一番対話をするのは、パートナーでも家族でも友人でもなく
仕事仲間でもなく個人としての自分だろう
その自分が、自分を表す姿としての判断が簡単に世の中の空気に
乗ってしまうというのは、自分には少し違和感を覚える

もしかしたら「自分との対話」という言葉とか概念がしっくりこない人がいるかも知れない
一部の人(知識人)には当たり前の概念だが、それを一般化するのは簡単ではないかもしれない
その概念を活用する人に対しては、「難しい」とか「上から目線」という言葉で
否定的な感情をもち、つまりは反知性主義を正当化する

話は飛ぶがアイヒマンの裁判において
「自分は組織の中の人間で与えられた仕事をしたに過ぎない、
 あの立場にいた人間なら誰も同じことをする」として責任が無いと主張した
ところが、人としての個人を裁く裁判は
「あなたは自分が行っていることを知りながら、何故それを止めようとしたり
 そこから離れようとしなかったのですか?」
との反論で、彼は個人として判決を受けた

つまりは人は個人の判断は社会に影響を与えているのだが
その影響力をあまりにも過小評価していないかということ
そして今の世の中は個人の判断力を磨くとか、その元となる内なる自分との対話の
絶対量が少なすぎるのではないか!と思ってしまう

嘘に騙されないコツは、個人としての背景にいろんな社会的な知恵とか常識を
持っていることだとされている
騙されやすいのは何も知らない人ということだ
数の多寡で言えば何も知らない人のほうが
ちょっとばかりいろんなことを知ってる人より多いのかもしれない

それ故に世間の(自分が思う)変な空気は、そっれなりの数字を確保してしまう気がする
日本もアメリカも、要は「個の確立」とかが十分になされていないのではないだろうか
その実態が、上記の現象を生み出しているように思えてならない


ところで関係のない話を一つ
選挙結果を受けて国会の各委員会の委員長に野党の人物が任命されるようだ
国会中継を見た人ならわかるが、この委員長の役目はかなり大きくて
今までは、答える側が抽象的な言い回しとか、同じことを繰り返したり
あるいは全く答えなかったりしてもスルーして
野党が抗議しても質問時間の時計は止めず(衆議院の場合)
いつも煮詰まった議論ができなかったが
これからはシンプルに「言われたことに答えて下さい」というのが増えそうだ
(イギリスの国会ではこのような委員長の采配が珍しくないようだ)

与野党伯仲というのは権力闘争だけの問題ではなく
こうした現場の出来事にも影響があるから、人はこうした選択をするのも
一つの知恵だと思ってしまう

日曜日らしくない、まとまりのない話

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